待降節第三聖日礼拝 「マリアの賛歌」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 ハバクク書 2章1~6節
新約聖書 ルカによる福音書 1章39~56節  

 

 

39節 マリアは急いで、ユダの山岳地帯にある町を目指して出かけてゆきました。マリアの住むガリラヤの村ナザレから、エリサベトとゼカリアの住むユダの町までは、彼女の足で3日、ないし4日かかる道のりでした。マリアは急ぎます。

彼女は小走りに走り出したいほどに、はやる心を抑えきれなかったでしょう。そこに行き着くまでは休まない。宿で過ごす夜の間でさえ、まんじりともしないで朝を迎えるほどに、心はエリサベトとの出会いに飛んでいたのではないかと想像します。

40節 マリアがエリサベトを訪問するのは何のためでしょうか。マリアにとってこの訪問は、小さな、まだいたいけな少女の域を脱していないような12、3歳のマリアが、自分一人では到底受け止めきれないような天使ガブリエルによって告げられたみ告げについて、周りの誰にも相談することも、話すこともできない大きな秘め事を抱えて孤立せざるを得なかった中で、たった一人、相談できる相手であるエリサベトに会って、彼女とすべてのことを語り合うためでした。

マリアは一刻も早くエリサベトに会いたいと願って道を急いだのです。そして、ザカリアの家について、戸を開けて、マリアがエリサベトに挨拶し、彼女と目と目が合ったとき、マリアはもう何も説明する必要がないこと、マリアが心に抱いている思いのすべてが、余すところなくエリサベトに伝わったように思ったのでした。言葉にで説明しなくても、エリサベツはマリアのすべてを理解し、受け入れ、味方として共に立ってくれていることが、マリアにわかったのだと思います。

マリアは最初、ガブリエルのみ告げを聞かされたとき、困惑し、不安と恐れを抱かずにおれなかったのでした。しかし、彼女は最終的に、その戸惑いと、恐れと不安を乗り越えて、主の御言葉を、信仰をもって受け入れたのでした。マリアは主のみ言葉に従って、自分自身を捧げようと決心し、歩み出していました。その歩み出しが間違っていなかったことを、マリアはエリサベツに会って確かめたかったのだと思います。それが、マリアが急いだ理由でした。

41節 マリアの挨拶の声に、エリサベトの胎内の子が反応しました。エリサベトが言葉を発する前に、口よりも先に体が、彼女の体の一部である胎児が反応したのです。エリサベトの胎内の子は、石女と呼ばれ、子を授からなかった高齢のエリサベトとゼカリヤの夫婦に与えられた神の特別な憐れみと慈しみであり、天使ガブリエルを通して語られた約束が実現したことの印でした。ガブリエルはその子は「すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされている」(15節)と言いました。今、聖霊によって男の子を授かるという主からの約束が、人間の目には不可能でありながらも、神にはできないことはないゆえに実現することを信じたマリアの声を聞いて、エリサベトの胎内の子が躍り上がって喜ぶのです。聖霊に満たされた胎児は聖霊によって男の子がマリアから生まれることを聞いて、躍り上がって喜ぶのです。

42節 エリサベトもまた聖霊に満たされて、声高らかに言います。この言葉はイスラエルでは、母親がこどもを授かったときに母親にかける祝福の言葉だそうです。

マリアが一番聞きたかった言葉がこれでした。マリアを一番励まし、慰め、支えてくれる言葉をエリサベトがマリアに語ってくれたのです。

夫ヨセフとの間に授かるのでないこどもの妊娠と出産など、誰一人信じてもらえない孤独の中にあるマリアを、エリサベトはすべての人々の前で声高らかに祝福しました。生まれ出てくるこどもが私生児と陰口を叩かれるに違いない恐れの中で、エリサベトは胎児をも祝福しました。

43〜45節 今日、マリアとエリサベトの出会いの場と言い伝えられているエンカレムには、訪問教会と呼ばれる教会が建っており、その中庭に、向かい合って立つ二人の彫刻が建てられています。この二人の交わりを教会の萌芽と呼ぶ人がいます。二人、三人が私の名によって集まるところに、私も共にいる、それが教会についての主イエスの約束です。二人の間に主イエスが共におられ、そこで聖霊に満たされた二人が心一つにして神を賛美しています。まさに教会の原型、礼拝の原型がここにあります。

このときの二人の出会いは決して秩序立った、整然としたものではありませんでした。声高らかに叫ぶ叫び声が響き渡り、喜んで踊る踊りがあります。理路整然と説かれる冷静沈着な理知的な言葉よりも、直感や喜びの感情が先行しています。

世々の教会が使徒信条で「主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」と告白してきた信仰告白は、このときエリサベトが聖霊に満たされて高らかに叫んだように、聖霊による信仰告白であり、賛美なのです。

このときエリサベトはマリアを「わたしの主のお母さま」と呼びました。マリアから生まれるお方は、エリサベトにとって「わたしの主」、すべての信仰者とともに崇め、礼拝を捧げるべきお方、主、救い主なのです。

マリアはその主なるキリストの母です。母というのは、こどもにとって自分を生み育ててくれた、たった一人のかけがえのない存在です。マリアが主イエスを生みました。主イエスが聖霊によって生まれたことの最初にして最後の証人は、母マリアです。

マリアは、主イエスを産んだ後、乳で養い育て、おむつを替え、幼い時から成人するまで主イエスを教え育て、その成長を見守った母でした。そして、そのようにして育てた主イエスの生涯の最後を目撃した母でした。マリアは我が子が十字架で死んでゆくのを見た、その証人でした。我が子を亡くした、悲しみの母でした。

しかし、その我が子を神が復活させてくださった、主イエスの復活の証人になりました。

マリアは主イエスの誕生から復活に至るすべての出来事、人として生まれ、育ち、ついに十字架で死んでゆかれ、しかし、3日目に復活された、そのすべてを母として、受け止め、見守った人です。そして、そのすべてが聖霊によって与えられた出来事であり、聖霊の導きのもとで実現した救いの出来事であることを見て、信じた救い主イエス・キリストの証人でした。マリアが、エリサベトが「わたしの主」と呼んだ救い主イエス・キリストの母となり、その主イエス・キリストを信じたのはすべて聖霊によったことです。

47節 わたしの「魂」は主を崇め、わたしの「霊」は救い主なる神を喜び讃えます。わたしの「魂」、わたしの「霊」とは、霊であられる父なる神、わたしたちと共にいてくださる聖霊、その霊であられる神のみ前で、わたしたち人間は、いかなる存在かを言い表しています。わたしたちもまた「霊」なのです。

しかし、その「霊」であるわたしたちは、マリアが自分を「身分の低い者」と言っているように、霊なる神のみ前で卑しい者たちです。

権力を持つ者たちと比べれば、無力であり、自信に満ちた人たち、高慢とも言える人々の前では、取るに足らない、目立たない存在です。いつも落胆させられ、打ちひしがれた、貧しい人々。主イエスの母マリアはその一人でした。

しかし、神はその卑しく、低く、目立たず、取りにたらない、無力なマリアに目を留められました。そして、マリアを聖霊によって主イエスの母として、限りなく高く引き上げてくださったのです。

そして、マリアが聖霊によって主イエスの母としていただいたように、神さまはわたしたちをも、権力によらず、能力によらず、ただ聖霊によって、主イエスの兄弟たちとしてくださり、神が限りない愛をもって愛してくださるこどもたちとしてくださるのです。

45節 主のお語りになることが、自分の身に必ず実現すると信じたマリアは幸いでした。

マリアを祝福したエリサベトもまた、主のお語りになることが、自分の身に必ず実現すると信じた人でした。アブラハムも、世々のすべての信仰者たちも、同じ信仰にたって、主イエスの到来を喜び、幸いを受け継いできたのです。わたしたちも、主のわたしたちへの約束の御言葉が、わたしたちの身に実現することを信じるなら、すべての信仰者から、まただれよりもまず主イエスからあなたは幸いだと言っていただくものとされるのです。

父と子と聖霊の御名によって。