聖日礼拝 「わたしを見た者は父を見たのである」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 申命記29章28節
新約聖書 ヨハネによる福音書14章1~14節

 

先週まで、わたしは毎日曜日、午前9時から福岡筑紫野教会で、11時からはここ福岡城南教会で二度説教してきました。しかし、今日からは、福岡筑紫野教会に新しい牧師が来られましたので、わたしの説教は一回だけになりました。それで今朝、少し心配していることがあります。それは、今日の説教が2回分の長さになったらどうしようということです。

先週、4年半に渡った福岡筑紫野教会での最後の説教を「目に見えない方を見るようにして」と題してしました。なぜそのような題の説教をしたのか、それは、福岡筑紫野教会が牧師のいない状態を4年半に渡って耐えなければならなかった、その試練の中で、「目に見えない方」の「目に見えない」約束を信じる信仰が支えだったと思ったからですし、また、これから新しい歩みを始める教会にとって、それが支えであり続けると思ったからでした。

「目に目えない方を見ているようにして」歩んでゆくこと、「目に目えない方を見ているようにして」人生を生きていくこと、それを聖書は「信仰」と呼びます。そして、そのように生きる人を「信仰者」と呼ぶのです。教会はそのような「信仰者」の集まりであり、「信仰」によって歩む人々の群れなのです。それは、無牧師の試練の日々を歩む時も変わりません。否、試練のときこそ、それがなくてならないものであることが明らかになります。

聖書には目の見えない人の話が出てきます。そのような目の見えない人に主イエスは「あなたはわたしに何をしてほしいのか」とお尋ねになるのです。驚くべき問いかけです。盲人は答えます。「主よ、目が見えるようになることです」。
わたしたちは「目に見えないものを見る目」、「目に見えない神さまを見る」信仰の目をもっているのでしょうか。わたしたちの教会は、「目に見えない神さま」を見る目をもっている教会でしょうか。信仰をもって「目に見えない神さま」を見ているようにして歩んでいる教会でしょうか。
改めて、今日、わたしたちに必要なのは、「目に見えないもの」を見る信仰であり、「目に見えない」神さまを信じる信仰であると思います。主イエスは言われます。「わたしに何をしてほしいのか」。わたしたちも今朝、素直に、謙虚に、主イエスに向かって、どうぞ、信仰の目を開いてください。目に見えないものを見る信仰の目を与えてくださいと願いたいと思います。

福岡筑紫野教会は長い無牧の試練のときが終わり、新たに歩み出そうとしています。何と大きな喜び、感謝でしょうか。そして、そのことはわたしたちの教会、牧師の引退を控えて、今、次の新しい牧師を与えてくださいと祈っている福岡城南教会にとっても、何と大きな励ましでしょう。
「目に見えないものを見る」とはどういうことか、聖書には「目に見えないもの」に目をしっかりと注いで、それを見るようにして生きた信仰者のことが書かれています。
信仰の先祖と呼ばれたアブラハムがそうでした。アブラハムは神さまからカナンの地を受け継がせるとの約束をいただきましたが、彼が生きている間、彼はテント住まいを続け、ついに一片の土地を所有することもなく死んで行きました。また、その約束の地を受け継ぐ彼の子孫を神さまはアブラハムに約束されましたが、彼は90歳になっても100歳になっても、そして妻のサラの体がこどもを産めなくなっても、世継ぎを授かりませんでした。
それでもアブラハムの信仰は揺るがなかったと聖書は記しています。神の約束が目に見える形で実現しない中で、なおその約束を信じ続けること、その希望を放棄しないで、望みを持ち続けること、それが「目に見えないものを見る」ということでした。

しかし、そんなアブラハムは、ある夜、主なる神から、こう語りかけられました。創世記15章です。数えきれない天の星、それは目に見えない神の約束をアブラハムの目に見える形で示すものでした。わたしたちにとって目に見ることのできない神の約束、それが目に見える形をとって示されることがあるのです。そして、目に見えないもの、その最たるものは、何でしょうか。それは神さまです。神さまは目には見えないからです。

そのことで主イエスが弟子たちと交わした問答が、今日読んでいるヨハネ福音書14章です。そこで主イエスは言われます。「わたしを見た者は、神を見たのだ」と。目に見えない神さまが、主イエスにおいて目に見える形でご自身を示されたと言われています。
でも、そうは言われても、21世紀に生きている今のわたしたちには主イエスを見ることはできないでしょう。それだけでなく、実は、2000年前、ユダヤに生きていた人たちは確かにナザレ人のイエスを見たのですが、貧しい大工の息子としてガリラヤに生きられた主イエスを見た人たちが皆、主イエスを見ることによって目に見えない神さまを見たわけではありませんでした。一番近くにいて主イエスの一挙手一投足を見た12人の弟子たちでさえ、生前の主イエスを見ることによって、目に見えない父なる神を見ることはついにできなかったのです。

自分たちとともにいてくださった主イエス、低くなって仕えられる主イエスの姿、最後は十字架について死んでゆかれたお方を通して、目に見えない神さまが自分たちとともにいてくださること、そのことを見る信仰の目は、弟子たちには最後の最後まで開けないままだったのです。その目が開かれるまでは、弟子たちも、聖書に出てくるあの目の見えない人の一人だったのです。

その弟子たちの目がついに開かれる時がきました。そのことはルカ福音書24章に出てきます。エマオの村に向かって歩いていた弟子たちは、主イエスがよみがえられて、彼らとともに歩んでおられたのに、「二人の弟子の目は遮られていて」それを認めることができませんでした。しかし、主イエスが食卓について、弟子たちのためにパンを裂いておられるとき、彼らの目が開け、それが主イエスだとわかったのでした。そして、彼らの目が開けた瞬間、主イエスの姿が見えなくなったと聖書は伝えています。

みなさん、一体これは何を物語っているのでしょう。この物語が示しているのは、このとき弟子たちに「目に見えないものを見る」目が開けたということだと思います。見ているものを通して、目に見えないものを見る目、信仰の目が開かれたということです。主イエスの姿は見えなくなりましたが、弟子たちは、目に見えなくても復活の主イエスが生きておいでになるのが、信仰の目で見えるようになりました。

先ほど、創世記15章に記されたアブラハムの信仰について、目に見ることのできない神の約束が見える形をとって示されることがあるということを申しました。そのことは、今のわたしたちにおいてもあります。
それは洗礼と聖餐です。洗礼も聖餐もこれらは神様からの目に見えない約束の言葉を、目に見える形でわたしたちに示し、伝えているものです。
洗礼を授かった人は、その人の上に目に見える形で水が注がれたように、その人に目に見えない主イエスの十字架で流された罪の贖いの血が注がれて、罪が赦されるという約束が実現しており、その人を神に向けて清くしてくださる聖霊が注がれるという目に見えない約束が確かであることを示します。また、聖餐のパンを食べ、盃にあずかる人は、そのことが目に見えて確かなように、目に見えない主イエスの罪の赦しに預かって、罪を赦され、さらに復活の命に養われ、生かされるという約束が確かであるということを、わたしたちに示しています。そして、目に見えない神の約束を、洗礼や聖餐によって体に刻み付けられているわたしたちの生涯、わたしたちの人生は、それを通して神の約束が目に見える形で実現されることを示すものなのです。

先週の月曜日に葬儀がありました。福岡筑紫野教会の最高齢の90歳の教会員の方が、わたしの4年半の無牧の応援の最後の日の前日に亡くなられたのです。今日の会報の裏に記した文章を、先週、福岡筑紫野教会の礼拝の中で読みましたが、その時に、最後に亡くなられた姉妹の最期のことをつけ加えました。
その姉妹は生涯をキリスト教幼児教育のために捧げました。主イエスはわたしを見た者は父を見たのであると言われたのです。そして、主イエスにおいて見たもの、それが、道であり、真理であり、命であること、そして、この主イエス、弟子たちが見たそのありのままの主イエスを通らなければ、だれも父のもとに行くことができないと言われるのです。この姉妹は、まさにその通りに主イエスを道であり、真理であり、命であると信じて、幸いな生涯を送った方でした。

みなさん、主イエスは、わたしを見た者は父を見たと言われたのですが、主イエスを信じる者、信仰者、クリスチャンを見る者は、父を見たのであると言えるのでしょうか。
みなさん、みなさんを、その信仰者の集まりである教会を見る人は、父なる神さまを見ると果たして言えるのでしょうか。

生前の主イエスを見た人は、主イエスを見ても、目に見える主イエスを見ながら、目に見えない父なる神を見ることはできませんでした。弟子たちもそうでした。目に見える主イエスを見て、目に見えない父なる神を見ためには、信仰の目が必要なのです。それは生まれながらの人には備わっていません。でも、主イエスは、わたしたちの目を開き、信仰の目を与えてくださいます。目に見えない神さまを信じることのできない人々を主イエスのところに連れてきて、その人たちの目を主イエスに開いていただくようにすることが教会の伝道です。そして目に見えない信仰の、目に見える印である洗礼と聖餐を受けながら、目に見えない神様を信じ、目に見えない神さまの約束を信じて歩む教会に加えられてゆくのです。

わたしたちは、お互いを見て、お互いの中に主イエスが生きておられるのを見ます。また目に見えない父なる神さまが、みなさんとともにおられるのを信仰の目を持って確かに見させていただきます。

それを信じて生きること、それが見えない神さまを見ているようにして生きることです。
わたしたちの今日までの信仰の歩みを振り返ってみる時、それはどのような歩みだったでしょうか。わたしたちは目に見えない神さまの約束を見ているようにして、本当に信じて歩んできたでしょうか。もし、顧みてそれが十分でなかったとしても、わたしたちは、これからの歩みにおいて、いよいよ、目に見えない神さまを見る信仰の目をもって、目には見えない神様の約束を信じて、しっかりと一歩、一歩、ともに歩んで行きましょう。

父と子と聖霊の御名によって