聖日礼拝 「主イエスの名」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書44章6~8節
新約聖書 コロサイの信徒への手紙3章16~17節

 

礼拝に戻ってきた理由
先週、わたしたちはマルコによる福音書2章による説教を聞きました。ガリラヤのカファルナウムにあったペトロの家に、床に載せられて四人の人に運ばれてきた中風の人は、主イエスが彼にお語りになった二つの御言葉によって救いにあずかりました。一つは「あなたの罪は赦される」、と言う御言葉であり、もう一つは「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言う御言葉でした。

礼拝は、今も、主イエスが、御自身の御言葉の奉仕者の口を通して、これらの二つの御言葉をお語りになるところです。あなたの罪は赦されると言う罪の赦しの約束と、罪赦されて家に帰りなさいと言う命令の御言葉が、そこに集う会衆の一人一人に向けて語られ、一人一人がそれを聞くところです。

わたしたちもまた、先週の礼拝で、あなたの罪は赦されると言う、赦しの恵みの御言葉を聞き、罪赦されたものとして、平安のうちに家に帰り、そこで主の赦しの約束のもとで、日々の歩みをするようにと、御言葉に押し出されて家路に着いたのでした。

そのようにして家に帰ったわたしたちが、今日、一週間経って、また礼拝の場に戻ってきました。一週間経って、戻ってきた礼拝は、先週の礼拝と同じ御言葉が語られる場なのです。同じ御言葉が語られる場でしかないと言ってもいいでしょう。
一度、罪の赦しを受けて、赦された平安と喜びのうちに家に帰ったわたしたちが、なぜ、こうしてもう一度、同じ御言葉が語られ、同じ御言葉が聞かれる礼拝に戻ってきたのでしょうか。それには、どういう必然性と申しましょうか、どういう理由があり、意味があり、必要があるのでしょうか。

今日の説教はそのことについてお話したいと思います。それには二つの面があるという話です。第一の側面からお話ししたいと思います。

わたしたちの礼拝の最初にくるのは何でしょうか。それは、神さまに罪の赦しを求める罪の告白の祈り、悔い改めの祈りです。
この祈りを、今日、初めて祈るという人もあるでしょう。しかし、ほとんどの人はそうではありません。先週、罪赦されて、また罪の赦しの約束のもとに家に帰った人たちが祈っているのです。
罪を赦されたはずなのに、なぜ、この祈りを改めて祈らなければならないのでしょうか。
それは、わたしたちが罪を赦していただきながらも、一週間の生活の中で数多くの罪を犯して、改めて罪の赦しを求めるために帰ってこなければならなかったという現実があるからです。

今日読んでいるコロサイの信徒への手紙の御言葉は、言葉であれ、行為であれ、わたしたちのするすべてのことは、主イエスの名において、語り、また行いなさいと言われています。
そして、そのことについて主イエスの御名を通して、父なる神に感謝しなさいと言われています。
この御言葉と大変よく似た言葉があります。第一コリント10章31節に記された使徒パウロの言葉です。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」と言われています。

ここにわたしたちが神さまに告白しなければならない罪、赦しを求めなければならない理由があるように思います。
わたしたちは、食べるに際し、飲むに際し、この飲み食いは神さまとは関係がないと思うことがないでしょうか。食事の席の会話には、宗教と政治を持ち込んではいけないと言われます。ここには神さまや信仰とかは持ち込まないでほしいと思わないでしょうか。あるいは、ここは神さまとは関わりのない領域ですとか、神さまとか信仰の問題からは中立的な領域だと言ったり、思ったりします。

しかし、わたしたちにとって、主イエスの名と関わりなく、生きること、また死ぬことがあるのでしょうか。主イエスの名と関わりのない領域、中立的な領域があるのでしょうか。生きるにも死ぬにも、わたしたちは主イエスのものである。これがわたしたちの信仰だったはずです。
わたしたちは自分自身を顧みて、神さまに対して、ここには立ち入らないでください、ここは神さまも立ち入り禁止の領域なのですからと言わなかったでしょうか。

主イエスはわたしたちにあなたの罪は赦されると言ってくださった、そして、その罪の赦しがわたしたちの礼拝から家に帰った生活の、あらゆる場で、あらゆるときに、約束され、与えられると言われているのに、その主イエスを締め出したときがありました。罪の赦しの約束は不要であると思ったときがあったこと、主イエスを拒んだことがあり、主イエスを悲しませ、み旨を傷つけたことがあったこと、しかも、それが一度となく、何度も、何度もあったことを認めざるを得ないのです。それを誰よりも主が一番よくご存知であられることをわたしたちは知っていると思います。

コロサイ書の御言葉が、すべてを主イエスの名によって行いなさいというとき、そのすべての中に、積極的に主イエスの名によって何かを行い、また語るという意味だけでなく、悔い改めにおいて唱える主イエスの名もあると思います。主イエスの名は、拒絶されつつ、なお、そのような頑なな態度をとり続けるわたしたちに、忍耐と、憐れみと赦しを持って手を差しのべ続けてくださる、恵みの御名です。罪を赦すお名前です。コロサイ3章17節の「主イエスの名」は、積極的な従順において告白される名であるだけでなく、自分の罪を告白し、そのみ名による罪の赦しを、感謝をもって告白する名、その名によって悔い改める名でもあります。

このようにわたしたちを前から後ろから包む主イエスの名があり、また、そのお方によって罪を赦していただく必要があるわたしたちだから、こうしてもう一度主イエスのもとに、わたしたちは戻って来ざるを得ないのです。
それが罪を赦されたわたしたちが礼拝に戻ってくる第一の理由です。罪を赦されたわたしたちは、もう一度赦していただかなければならない、それがわたしたちの偽りのない現実だからです。

しかし、そのことにはもう一つの面があると思います。今言った第一の理由、それはある意味で悲しい、不甲斐ない、申し訳ないようなことですが、その消極的な面と硬貨の両面のように密接に結びついている、反対側の積極的な面と申しましょうか、輝かしい、喜びに満ちた面です。それは礼拝に戻ってくるもう一つの理由は感謝のためだと言うことです。

感謝を捧げるために主イエスのもとに戻ってくる人の話があります。主イエスにらい病を癒された十人の中の一人の話です。ルカによる福音書17章に書かれています。癒されたのは十人でした。しかし、主イエスのもとに帰ってきたのは、一人だけでした。その人は感謝するために、神さまに賛美を捧げ、神さまの御名を崇めるために帰ってきました。

わたしたちは罪を赦されながらも、なお、罪を犯し続ける者たちです。しかし、それにも関わらず、そのようなわたしたちにわたしたちを、生まれる前から、母の胎にあるときから、選び、愛してくださった神さまは、わたしたちの全生涯が、主イエスの名によって、主イエスを通して、父なる神への感謝となるようにしてくださったのです。

先ほども申しましたように、わたしたちが礼拝に戻ってくる第一の理由は、赦しを必要とするからです。赦していただかねばならないからです。でもそれと同時に、繰り返し、罪を犯し続けるようなわたしたちに、赦しを与えてくださる主イエスを通して父なる神に感謝するためなのです。
わたしたちの全生涯を、神への感謝と賛美へと向き変わらせられること、それを悔い改めと呼びます。わたしたちは今日も進む方向を切り替えて、神への賛美と感謝を捧げるために主イエスのもとに戻ってきました。信仰者の全生涯は神への賛美と感謝を捧げるための方向転換なのです。それを悔い改めと言います。そして、キリスト者の全生涯は喜ばしい神賛美に向けての悔い改めなのです。

わたしたちは、週ごとに礼拝から自分の家に戻ってゆきます。そこは、主イエスの名によって、わたしたち信仰者の一人一人が前から、後ろから囲まれているところであり、そのような生活の場です。

しかし、ある人は言うでしょう。確かにわたしは主イエスの名によって囲まれていますが、わたしが出会う人は、そうではありません。主イエスの名を知らない人たちですと。
主イエスを知らない人たちの間で、今日の御言葉はどのように理解したら良いのでしょうかと問われるでしょう。

二つの御言葉を引用したいと思います。
一つは、マタイ18章20節です。主イエスの名は、わたし一人のものではなく、二人、三人が主イエスの名によって集まるとき、主イエスも共にいてくださると言う、他者とわたしを結びつける名であると言うことです。
そして、この約束はフィリピの獄吏に対して語られた御言葉と結びついているのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
わたしたちが家に帰る時、そこで待っている未信者の家族は、主イエスの名によって救われるとの約束のもとに置かれているのです。

もう一つはマタイ28章19節以下です。全世界の、すべての民が主イエスの御言葉を聞き、信じて、神さまに主イエスの名を通して感謝と賛美を捧げる日に向けて、主イエスはわたしたちを遣わしておられます。そして、わたしたちを遣わす主イエスは世の終わりまでわたしたちと共にいてくださると言うお名前なのです。

さあ、平安にうちに家に帰りましょう。主は、わたしたちと共に家に来て、わたしたちの家を平安と祝福で満たしてくださるお方であるだけでなり、地の果てまで、世の終わりまで、わたしたちとともにいてくださるお方なのです。

父と子と聖霊の御名によって