聖日礼拝 『70年の歴史と啓示』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 申命記29章28節
新約聖書 ルカによる福音書10章21~24節

音声冒頭の部分が欠けてしまいました。

隠されていた事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。  申命記29:28

 


今朝の説教のテキストは申命記29章28節ですが、最初に今日読んでいる旧約聖書の申命記についてお話ししたいと思います。
申命記という名前、これは英語でDeutoronomyと申します。第二の律法という意味です。第二の律法といっても、律法に二種類あるわけではなく、主なる神の律法は一つしかありません。ですから第二の律法というのは、律法についての第二の教え、あるいは律法に基づく二度目の契約という意味です。
では第一の律法の教え、一度目の契約とは何か。それは29章の直前、28章の最後に書かれております。ここで、ホレブで彼らイスラエルと結ばれた契約、それが1度目の契約であり、それとは別に、今度はモアブの地でイスラエルと結ばれた契約、これが2度目の契約です。
1度目と2度目では場所が異なっています。また1度目と2度目の間には時間の隔たりがあります。最初は出エジプトから2ヶ月後のシナイ山でのことでした。2度目はそれから40年後、ヨルダン川の東側、約束の地カナンを目前としている場所においてでした。
40年前の世代、その先頭に立っていたのはモーセとアロンでしたが、40年後、アロンはすでに死に、モーセも間も無く世を去ろうとしていました。新しい指導者ヨシュアがモーセに代わろうとしていました。
わたしたちの教会でも40年前、1980年代におられた方達のほとんどが世を去られ、当時を知る人たちはわずかしか残っておられません。その第一世代から第二世代へと世代交代が起ころうとするとき、それが今日という日として、29章に繰り返して語られています。

「今日」とはいつか。それは出エジプトから40年経った日のことです。あのとき、イスラエルが主なる神と契約を結んだように、「今日」イスラエルは主ともう一度契約を結びなおそうとするのです。
9節以下にこう書かれています。この日はイスラエルの民が主なる神と契約に入る日であり、その日に、12節、主はイスラエルをご自分の民とし、また主自ら、イスラエルの神となられるとの契約が更新されます。主が、イスラエルに向かって、わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となると言う契約が新しく、こう一度交わされる日、それが「今日」なのです。これは結婚の契約に似ています。1組の男女が互いに結婚の誓約を交わして、お互いの夫となり妻となって、一緒に生きてきたのですが、何年か経ったある日、改めて、夫婦としての誓いを改め直すようなものです。

40年前イスラエルは主との間に、いわば夫婦となるような契約を交わしたのですが、40年経ってなぜもう一度契約を交わし直す必要があるのでしょうか。
40年間夫婦生活を続けてきたとしても、果たして自分たちはどんな夫婦だったのか、夫婦になる時に交わした誓いにふさわしく生きてきたのか、お互いが夫婦であることをどう受け止めて生きているのか、自ら、またお互いに問わなければならない面があると思います。
わたしたちの信仰生活についても、洗礼を受けてから今年までの歩みをどう生きてきたでしょうか。主を信じて、信仰者の群れに連なりながら、自分はどう生きてきたか、それを主に対して、また自分に対して問わなければなりません。

今年2022年という年は、様々な意味で節目の年です。1972年から50年、その年は沖縄が日本に返還された年であり、沖縄に日本キリスト教会の伝道が開始された年でした。その年は横浜に日本基督公会が日本の最初のプロテスタント教会として誕生した年で、東京の柏木教会で公会開設百年記念講演会が持たれ、福岡城南教会の藤田治芽牧師が講師となってそこで講演されましたが、その上京中の留守に牧師夫人の和嘉夫人が牧師館で誰からも看取られることもなく一人で亡くなられるということがありました。
これらの出来事、その時代に生きていた人、それを経験した人は少なくなっています。今年は日本キリスト教会が1951年に創立してから70年余りを経過したことを覚えて、信仰の宣言が起草されています。でも、その時代を知らないために、それがよく理解できない、歴史を共有できない、自分に関わりのあることとして受け止められない人たちが少なくありません。いや、それだけでなくて、当時、そこに自分もいた、そういうことがあったのを覚えてはいる、でも、それが一体どういう意味があったのか、それについては考えたこともないという人もありうるのです。

1〜3節にこう書かれています。たとえ、その時代に生きていても、そしてそれを体験さえしたのに、それを悟る心がなく、見る目がなく、聞く耳を持たない人もいるのです。そのような人は歴史が歴史にならないのです。

この40年前の第一世代に何が起こったかは、民数記14章29節以下(236ページ)、新約聖書ではヘブライ人への手紙3章16節以下(404ページ)に書かれています。

今日という日は、それゆえ、第一世代に決定的に欠けていたもの、そのために約束の地に入ることを許していただけなかった彼らの不信仰を悔い改めて、新しく悟りの心、見る目と聞く耳を与えられて、約束の地にはいいてゆくべき日でした。

それゆえ、「今日」とはいつか。それは出エジプトから40年経って、もう一度悔い改めを持って再出発するべき日のことだったと今、申し上げましたが、しかし、29章を最後まで読み通すと、それとは違う、別の「今日」が出てくるのに気づきます。それは27節です。
ここに出てきます「今日」は出エジプトから荒れ野の旅を続けて40年経った日のこととは思えません。説明を省いて単刀直入に言えば、ここに書かれている「今日」とは、この申命記という書物が書かれた時代を指します。それはいつか。先ほど見た、出エジプトから40年経った「今日」と言う日から数えて、はるか後の時代のことです。つまり、イスラエルは荒れ野の旅を終えて、ヨルダン川を渡って、約束の地カナンに入ります。そこで、ヨシュアの時代、士師の時代、預言者サムエルの時代、サウル王、ダビデ王、ソロモン王の時代と続いていって、その王国が築かれていったのですが、ついにその王国が滅亡し、イスラエル民族が捕囚となってバビロンに連行され、そこで民族の終焉の危機に立ち至ったその日が、27節の「今日」なのです。ヨシュアに率いられてイスラエルがカナンに入ったのがBC1200年頃とすれば、申命記が書かれたのは、それから600年後、ユダヤ王国が滅亡し、民がバビロンに捕囚となった時代でした。

申命記のメッセージはこのようなものです。
出エジプトをした第一世代は全員、主の御心にかなわず、荒野で朽ち果てました。荒野の40年は約束の地に入ることができなかった、第一世代が、一人残らず全員が、死骸を荒れ野に晒すまで、荒れ野を彷徨させられた日々でもあったのです。あのモーセすら、約束の地に入ることを許されなかったのです。
それゆえ、「今日」と言う日を境に、イスラエルの次の世代がモーセに代わるあたらしい指導者ヨシュアに率いられて、悔い改めのうちに、新たな信仰のうちに約束の地に足を踏み入れて始まったはずのイスラエルの歴史はどうだったか。それは主との契約を結んだ民としてふさわしい歩みであっただろうか。契約に際して交わしたあの誓いの言葉はどうなったのか。

11節、13節にその誓いは呪いの誓いとありますが、これも結婚の誓約を思い浮かべれば分かるように、夫婦の契りを結びながら、姦淫に走れば、呪いとしての死を自らに招くのです。
そして、イスラエルが主の民として、第一に守るべき戒めは、十戒の第一戒の戒め、主なる神以外の神々に仕えてはならないと言う戒めでした。しかし、カナンの地に入ってからのイスラエルの歴史は、バアル礼拝、主ならざる異国の神々をその第一戒に反した甚だしい偶像礼拝の罪の歴史だったために、自らの上に呪いと死を招かざるを得なかったのです。

21節以下に、主がイスラエルに下される裁きと滅亡、その結果もたらされる国土の荒廃が描かれています。そこにソドムとゴモラと言う町の名前が出てきます。ソドムとゴモラにもし正しい人が10人でもいれば、その町は滅ぼされないと言われていたのに、そのたった10人がいなかったためにソドムとゴモラは滅んでしまったのですが、イスラエルにソドムとゴモラと等しい荒廃が臨んだと言うことは、イスラエルにもその10人がいなかったと言うことでしょう。

今日読んでいます29章28節の、隠されている事柄は、我らの神、主に属するけれども、啓示されたことは、我々と我々の子孫にとこしえに託されているというときの、啓示されたこと、明らかに示されたこととは、今ほど申し上げた、イスラエルの辿った歴史のことです。

申命記は、それゆえ、わたしたちにこう語りかけていることになります。荒れ野の40年の不信仰な世代、その例に倣ってはならないとの警告を受けるために、「今日」と言う日に神様との契約を結び直し、その誓いの言葉を肝に命じて歩んだはずのイスラエルの民は、結局民族の終焉と滅亡の淵にまでたちたってしまった。それが、あなたがたに啓示されていることであり、目の前に否定できない仕方ではっきり示されていることである。

それゆえに、申命記の御言葉は今日という日に、私たちに対してはっきりとこう呼びかけます。「今日」あなたたちは主との契約を守り、律法の言葉を守り行い、それに忠実に聞き従いなさい。主は必ずイスラエルを祝福される、その約束が確かであることを心から信じて、生きてゆきなさい。あなたがたにはそれ以外に何も残されていないのだ。

でも、出エジプトをしたイスラエルの第一世代も結局、それができなくて滅んだのであり、旧約の押しラエルの歴史も、それができなかったことをはっきり示しているのに、果たして、彼らにできなかったことが、私たちにできるのか、私たちもそれが守れないのではないのかと思われるかもしれません。

私たちに律法を守れるのかどうあ、そのことを問い、また考えるに先立ってともに考えたいことがあります。

ここには、啓示されたことと、隠されていることとが対比されています。
啓示されていることとは約束の地カナンに入ったイスラエル民族が、最終的に、十戒の第一戒を破って、破滅に至った歴史です。これが啓示されていることです。では、隠されていることとは何でしょうか。

少し、脱線しますが、政治家であれ隠し事は明るみに出されると致命的になります。政府にも外交交渉に関しての機密文書があって、それが公表されることはありません。それを新聞社がスクープすれば一大事件になります。では、神さまにそのような隠し事、明るみに出たら不名誉なことが果たしてありうるでしょうか。
私たちに隠されている、知り得ない、理解し得ない神さまの御心、計画があったとしても、それは最終的に、私たちを愛する愛に基づいていることを私たちは信じることができます。
ある意味、知らせない方が良い、知らない方が本人のためになるということだって、私たちの間でもあるのですから、私たちを愛してくださる父なる神は、もし何かが隠されていたとしても、私たちのためを思ってのことであるに違いありません。
と同時に、子どもの頃は幼くてわからなかったことが、成長するに及んで分からせていただけるようになるということもあります。その意味で、イスラエルにそれまで隠されていたことがあったと言えると思います。それは、イスラエルには、自分たちの辿った失敗の歴史を通して、自分たちには主から課されていた責任があったと言う自覚と反省だったと思います。

13節、14節にこう書かれています。主が契約を結ばれるのは、「今日」ここに我々と共にいない者とも結ぶと言われるとき、ここに共にいない者としてあげられているのは、21節にあるように、のちの世代、将来の子孫たちと、遠くの地から来る外国人です。

イスラエルとその子孫が啓示されたこと、その歴史を見て、自分たちに託されていることとして、イスラエルは何を自覚し、何を決意すべきなのでしょうか。それは自分たちが、主の律法を守り行って主の契約に生きてゆくのは、自分たちだけのためではない、否むしろ、それによってすべての人々、ここにいない人々への証のため、奉仕のため、救いのためだと言うことです。わたしたちにはソドムの町の10人になる使命があるのです。それが果たされなかったために、大きな悲劇がこの世界に及ぶのです。しかし、その使命にとどまるなら、かろうじて世界を救うのです。

ですから、私たちのそれができようとも、できなくても、それは私たちに与えられている使命であり、責任なのです。これ以外に私たちにとっての生きる道は残されていないのです。でもこの道に私たちを召してくださったのは主なる神様です。私たちをそのような主の民にふさわしいものとしてくださるのは主ご自身です。それがおできになるのは主なる神様だけなのです。
主は預言者イザヤを通していわれます。「私に聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りのものよ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す。」(46章3、4節)

19節以下にイスラエルの民の中に、全体を汚す「苦い根」があってはならない、それを取り除かねばならないと言われています。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませます。地球の1箇所から発生したウイルスが全世界に感染を広げてゆきます。そのような呪いをもたらす危険の種があってもそれを取り除かず、滅びに至る芽である不信仰や罪がわたしたちの間に温存されるとき、主の民全体の使命が失われ、塩味が失われ、何の役にも立たなくなります。

私たちがこうして主の日ごとに礼拝を守ることには、礼拝を守る「今日」が神との契約を新しくする日であると言う意味があります。その私たちにとっては、わたしがまだ生まれていなかった時のこともまた、わたしのことなのです。先達の罪、失敗、イスラエルの罪の歴史はわたしに関わることです。わたしが、今、主との契約に生きることは、イスラエルの先達の罪と不名誉の挽回であり、また将来の世代の栄光と、幸い、祝福のためなのです。

私たちは、先の世代とともに、また将来の世代と共に、主なる神に愛され、喜ばれている民として、主なる神を愛し、このお方にあって、すべての隣人を愛して生きるようにされているのです。その愛の戒めを律法によって与えられ、それを力を尽くして守り行うことによって、主への感謝を表し、日々喜んで生きるよう召されているのです。それによって、私たちは自分の救いや祝福を超えた、先の世代、将来の世代、すべての人々の救いと祝福に向けた使命を担わされるのだと言うことです。

「私に聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りのものよ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す。」(46章3、4節)

父と子と聖霊の御名によって。