復活節礼拝『空の墓』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇118編1~29節
新約聖書 ルカによる福音書24章1~12節


主イエスが金曜日の午後3時に十字架上で息を引き取られ、日暮れ前にその遺体が墓に葬られたのち、翌日の土曜日の安息日は、すべての人々がすべてのわざを休みました。こうして、主イエスが亡くなられてから三日目の日曜日の朝早く、主イエスの墓に急ぎ向かった女性たちは、墓の入り口が開けていて、その中が空であるのを発見して、言葉では言い表せないほどの驚きと衝撃を受けたのでした。

主イエスの亡骸は三日前に確かに十字架から取り下ろされ、墓に納められたのに、その朝、主イエスの遺体は墓にありませんでした。

この教会にも遺骨を納めた納骨室がありますが、そこに納められた遺骨がなくなっていたら、遺族はどれほどのショックを受けるでしょうか。

墓に納められた遺体がそこにないということは、誰かが遺体を運び去ったためだと思うでしょう。現に、マグダラのマリアが事の次第を告げにペトロのもとへ走って行ったとき、彼女は「主が墓から取り去られてどこに置かれているのか、私たちにはわかりません」と告げたとヨハネ福音書は伝えています。

またマタイ福音書では、墓の番をしていた兵士たちから、主イエスの遺体が墓から消えていることを知らされた祭司長たちが、長老たちと相談して、番兵たちに多額の金を与えて「弟子たちが夜中にやって来て、わたしたちが寝ている間に死体を盗んで行った」と言えと命じたと書かれています。

四つの福音書が、復活節の朝の出来事について、最初に告げているのは、主イエスの墓が空であったということです。

では、その体は一体どこに行ってしまったのでしょうか。
ユダヤ人たちは弟子たちが盗んだと言えと言いました。でも弟子たちはそんなことをしていません。弟子たち以外の誰かが盗んだとすれば、主イエスは十字架で殺されただけでも十分屈辱的な仕打ちを受けたのに、それでもまだ足りないとして、その墓をあばき、死体を持ち去ってゴミのように捨てる者がいたということでしょうか。

なんの罪もなく殺された主イエスが、そこまでの仕打ちを受けるのかと思ったら、マグダラのマリアたち、主イエスを愛してやまない女性たちは気がどうかなりそうになったに違いありません。

主イエスの体は墓にはないのです。それは主イエスを愛する人も、主イエスを憎む人も、等しく認める事実です。今日に至るまで、主イエスの遺体や遺骨が埋葬されている墓はこの世界のどこにも存在しません。それは、遺体を誰かがどこかに廃棄したからでしょうか。

四つの福音書が口を揃えて、主イエスの墓は空であったとの事実を証言した後、次に告げているのは、天から遣わされた御使のお告げです。「あのお方はここにはおられない」。

ここにはおられないということは、他のところにおられるから、ここにはおられないということでしょう。ではどこにおられるのでしょうか。
ルカによる福音書では、天使は「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言っています。生きている方は、死者の中ではなく、生者、生きている人々の中にこそ捜すべきだと言ったのです。

では、生きている人々とはだれでしょうか。主イエスをその間に捜すべき生きた人々とは誰でしょうか。

復活節の日曜日の午後、二人の弟子がエルサレムからエマオの村に向かって歩いてゆきました。その途上、一人の旅人が二人の弟子とともに歩いてゆきました。二人の目が遮られていたので、それが復活された主イエスであることがわからなかったと書かれています。

一人の旅ゆく人、復活された主イエスはそのような人として生きておられたのです。

またヨハネ福音書によれば、マグダラのマリヤが主イエスの遺体が取り去られたことを悲しみ、墓で泣いていたとき、振り返ってそこに立っておられる復活の主イエスを見たとき、彼女はそれが主イエスだとはわからなくて、園の番をする園丁だと思ったと書かれています。

復活の主イエスは、マリアの目に園の園丁に見えたのです。復活の主イエスだとすぐにはわからない姿をしておられました。

主イエスは復活して、墓にはおられない。確かに主イエスの墓は空なのです。ではどこにおられるのでしょうか。その体は一体、どこに、どのような形で存在しているのでしょうか。主イエスはどのような姿において生きておいでになるのでしょうか。ルカによる福音書、ヨハネによる福音書は、復活の主イエスが普通の人として、旅人や園の園丁の姿で生きていると告げています。

体。復活の主イエスの体がどこにあり、復活された主イエスがその間に生きている人々を、私たちはどこに捜せば良いのでしょうか。

主イエスの体という言葉を、わたしたちはパウロの書いた手紙の中で何度も読みます。
第一に、コリントの信徒への手紙(1)の11章では、聖餐式の制定語の中に出てきます。

主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしを記念するためにこのように行いなさい」と言われました。ここに、「これは、わたしの体である」という言葉が出て来ます。

同じコリントの信徒への手紙(1)の少し後で、パウロが教会のこと、信仰者の共同体である教会を指して、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人、一人はその部分です」という箇所があります。
聖餐式で言われる、主イエスの体、それとわたしたち信者の共同体がキリストの体であると言われる、これらの主イエスの体についての、二つの聖句を一つ結びつけているのが、わたしたちが聖餐式において唱える「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」という言葉です。

パンは一つ、そうです、主イエスの十字架で裂かれたからだ、復活された体は一つです。
その一つのパンを分けて食べるわたしたちは、大勢でも一つの体です。その大勢でも一つであるのがキリストの体なる教会です。

キリストの体である教会には、どのような人たちが連なっているでしょうか。パウロも人の体が一つの部分だけでなく、実に多種多様な部分から成り立っているというように、キリストの体である教会にも多くのことなった人たちがいます。
キリストの体である教会は、ユダヤ人だけからなるのでしょうか。いいえ異邦人もいます。
白人だけが連なるのでしょうか。いいえ、黒人もいます。
金持ちだけでしょうか。いいえ、貧しい人たちがたくさんいます。
教養ある人だけでしょうか。違います。学問のない人、学校教育も満足に受けていない人、それどころか、まだ読み書きも習っていない赤ん坊もいます。
信仰的に立派な人、正しい人だけでしょうか。いいえ。主イエスと一緒に十字架に磔つけられた犯罪人もいます。
健康な人だけでしょうか。いいえ。たくさんの病人、当時、汚れた人として人々から忌み嫌われた人々、今日でいう伝染病患者、他の人を危険に陥れる人々も含まれています。

主イエスはこれらすべての人の命のパンです。この主イエスという一つのパンを、すべての人が分け合うことによって、わたしたちは一つの体として互いに結び合わされ、主イエスの愛によって、互いに愛し合い、主イエスの赦しによって互いにゆるしあって、平和に生きます。

イエス・キリストは復活されて、今、どういう姿で生きている人々の中に生きているのか。マタイ福音書の25章にある御言葉を思い起こしましょう。飢えている人、渇いている人、裸の人、住む家のない難民、病気の人、獄に囚われている人。主イエスはこの人たちを、私の兄弟である、いと小さい者たちと呼んで、この人たちにしたのは私にしたのだと言われます。

みなさん。わたしたちもまた、これらのいと小さい者、主イエスが私の兄弟と呼んでくださる者たちではないでしょうか。ウクライナの人々、難民となり、戦火の中で逃げ惑う人々も、昨日まではわたしたちと同じ平穏な毎日を送っていたのではないでしょうか。わたしたちだったって、ウクライナの人々が受けている苦しみが、突然、私たちに降りかかってもおかしくないでしょう。そのわたしたちも、ウクライナの人々も、キリストの体なのです。

こうして、今日、ここに集められている群れの一人一人の兄弟、姉妹はキリストの体であり、復活のキリストが、そのうちに生きてくださる、生きた人々なのです。一つのパンを分け合って食べるわたしたちのうちに、キリストが生きてくださるからです。
それゆえに、わたしたちはキリストを愛する心からの愛をもって、互いに愛し合うことを許されるのです。

父と子と聖霊の御名によって。