聖日礼拝『血の責任』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記4章8~15節
新約聖書 マタイによる福音書27章15~26節

 

罪のない人の血が流されようとしていました。裁判官ピラトには、ユダヤ人から訴えられて自分の前に立っている主イエスが、何ら死刑になるような罪を犯していないことは明らかでした。けれども、その無実である主イエスを十字架につけろと叫んでやまない群衆に対して、これ以上、その要求を拒み続けるならば、暴動に発展しかねないのを恐れたピラトは、群衆の要求を聞き入れることを決断します。

ピラトは群衆の見ている前で、水で手を洗い、「この人の血について、私には責任がない」と言って、自らの潔白を宣言しました。
「この人の処刑に、自分は関わりを持たない。これはあなた方ユダヤ人の問題だ。」こうピラトが言い放つと、ユダヤの民はこぞって叫びます。「その血の責任は、我々と子孫にある」

この言葉、ユダヤの民がこぞってピラトに答えて叫ぶ叫びは、読む人の心をゾッとさせます。ましてや、この言葉を受難劇の中で、何百人という村人が一斉に口を揃えて叫ぶのを聞いたなら、どんな思いがすることでしょうか。加えて、それを聞かされるのがユダヤ人であったなら。

イエス・キリストの受難劇が屋外で演じられる村が、南ドイツにあります。オーバーアマーガウというその村は敬虔なカトリックの人々が住む村で、1634年以来、10年ごとにイエス・キリストの受難劇が村をあげて、住民たちによって演じられてきました。そのきっかけは、かつてペストが村で大流行したとき、村人が神様に誓いを立てて、神様が村をペストから救ってくださるなら、10年毎に受難劇を上演しますと、村の議会で決議したことにあります。1634年に最初の受難劇が上演されてから、300年後の300周年記念公演が1934年に行われたとき、そこにナチス党の党首ヒトラーが参席します。ヒトラーはこの受難劇が、ナチスが推し進めるユダヤ人迫害にとって貴重な武器になると大喜びします。

戦後はこの村の受難劇がナチスによるユダヤ人迫害に手を貸すことになったことが反省され、またユダヤ人の側からも反ユダヤ主義を煽るような箇所を削除してほしいとの申し入れを受けて、この「その血の責任は、我々と子孫にある」という言葉が台本から削除されるに至りました。

それでは、罪のない主イエスの血が流されることに対して、一体、だれにその責任は帰されるべきなのでしょうか。

マタイによる福音書27章を読む限り、そこには、私にはその責任がないと、責任を否定する人が一方におり、他方には、その人の血を流した責任は私にありますと、その責任を認める人がいることに気づかされます。

責任を否定したのは、まず裁判官ポンテオ・ピラトです。それと並んで、責任を否定するのが、祭司長、長老というユダヤ人の指導者たちです。

それに対して、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダは、4節で自分のしたことを後悔して、受け取った金を返しにきたとき、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と、言って罪を認めています。しかし、それを聞いた指導者たちは「それは我々の知ったことではない、お前の問題だ」と言ったのでした。ユダが罪のない主イエスの血を流すことになれば、それは自分の責任だと言ったのに対して、指導者たちは、自分たちには関わりがない、その責任はユダが取れば良いと言って、責任をユダになすりつけています。
これはピラトが、自分の手を水で洗って、主イエスの血について自分には責任がない、責任はあなた方ユダヤ人がとるべきだと言ったのとまったく同じ言い方、やり方でした。

こうして、自分の責任を否定し、責任を他者に転嫁するピラトとユダヤ人指導者が一方に、かたや、自分の責任があると認めるイスカリオテのユダとユダヤ人の群衆がいます。

しかし、本当にそうでしょうか。ピラトやユダヤ人指導者には主イエスの血を流したことに対する責任がないと言えるのでしょうか。そうではないのは明らかだと思います。
まず、ピラトに責任がなかったとは言えないのはなぜかと言えば、私たちでも、もし、罪のない人が死んでゆこうとするときに、自分がその人を助けてあげられなかったら、私たちはその人の死に対して責任を感じるはずだからです。どうしてあの人を死なせてしまったのか、助けてやれなかったのか、自分を責めるに違いありません。
ピラトはエルサレムに暴動が起こったら大変なことになっただろう、それを避けるためには罪のない主イエスを救えなかったとしても、それは致し方なかったのだと弁解するかもしれません。だからと言って、法と正義に反して、群衆が間違った要求を突きつけるときに、その要求に屈服し、裁判官としての責任を完全に放棄したことについて、良心の呵責を感じない訳にはいかなかったでしょう。彼が公衆の面前で手を洗った行為は、かえって、彼の良心の咎めが拭われずに残ったことを示したと言えないでしょうか。

ユダヤ人の指導者にしても、いくら自分には主イエスの死について直接責任はないと言い逃れようとしても、ユダに金を受け取らせ、その裏切りを利用して主イエスを逮捕しながら、また、最後はピラトから死刑判決を勝ち取るために、群衆を説得して、主イエスの代わりにバラバを釈放せよと叫ばせておきながら、自分たちには主イエスの死に対する責任がないなどと主張することはできないのは明らかだと思います。

今日、わたしたちは主イエスの血が流されたことに、二つの意味を見ることができるように思います。それは被害者として流される血と、加害者のために流す血という二つの面です。

そのことは創世記4章に出てくる、最初の兄弟殺し、血を分けた兄が弟を殺した事件に関わります。
そこでは、罪のない人の血が流されました。弟アベルの血です。この弟の血を飲み込んだ大地から、弟の血が、報復と正義を求めて、兄の血が流されることを要求するのです。

人類の歴史は、一方で、罪のない人の血が数えきれないほど、おびただしく流され続けてきた歴史です。他方、その報復を求めて、正義の名の下に、犯罪者の血だけでなく、関わりのない人の血までもが流されてきました。
神は、この、いつ果てるともしれない仕方で、血と血を流し合う世界の歴史の中に、ご自身の御子を送られました。そのとき、神は御子の血を流させることにより、二つのことをなさいました。

一つは、夥しい犠牲者たちに連帯されたということです。神は、故なく、血を流された無実の人々の味方となられます。御子イエスが罪なき人としてその血を流されることによって、神は殺されていった無数の犠牲者の神となられます。
と同時に、主イエスの十字架の血は、罪を犯した側、罪のない人の血を流したかどで、報復を受けなければならないカインとその末裔たち、彼ら加害者が、その血を持って償わなければならない罪を、贖うために流された尊い血、人と人の間に平和と和解をもたらす血として流されました。

賛美歌に「あなたもそこにいたのか」という歌があります。黒人霊歌ですが、この歌は、群衆がこぞって主イエスを十字架につけよと叫んだ、あの場所にあなたもいたのかと問います。そして、そうだ、わたしもそこにいたと答えます。なぜなら、主イエスの十字架の死をもたらしたのは、自分の罪であった、主イエスを十字架につけたのはわたしだ、わたしの罪のために主イエスは死んで、血を流してくださったからだと歌うのです。

みなさん、わたしたちに主イエスの血に対する責任がありますか。
2000年前の主イエスの十字架に対して、わたしたちが直接責任を負っているとは思えないかもしれません。
しかし、わたしたちは罪のない人の血、それは主イエスの血ではなくても、主イエスがその人の死に連帯して死なれた、無実の人たちの血を流した責任はあるのではないでしょうか。

現在、異常気象が起きています。それが、今生きているわたしたちの経済活動のために引き起こされているのであり、その結果、現在、また近い将来に起きる気象変動によって、干ばつや飢饉などがひき起こされて、多数の貧しい人々が餓死に追い込まれることになるなら、わたしたちは、それらの人々の血に対して責任がないとは言えないのではないか。
また、原子力発電所から排出される放射能廃棄物が、将来の世代に、その命を脅かす深刻な健康被害をもたらしたなら、その責任は原子力発電所の稼働を許し続けた今の私たちの世代が負わなければならないでしょう。

主イエスが罪なくして死んでゆく、血を流されてゆく無数の人々の側に立ち、その人々に連帯し、その人々を救うために血を流されたとすれば、わたしたちには、その主イエスの死に対して、主イエスにそれらの無実の人々のために血を流させた責任があります。

主イエスの血は、そのような罪のない人々の血を流した責任のある、罪人である私たちのために、私たちの罪を贖うために流された血でもあります。わたしたちはその血によって罪の赦しを受けます。罪を赦されるとは、罪から離れ、罪に対して死ぬこと、これ以上罪を犯し続けることをやめることです。そして、私たちが罪を犯した神様と兄弟たちと和解し、平和をいただくことです。

主イエスの血は罪のない人びと、無実であるのに殺されていった多くの人々にために流された血であると共に、無実の人々の血を流してしまった罪あるすべての人々の罪を贖い、許すために、また罪から清めて、正しさのうちに回復する血でもありました。

主イエスは最後の晩餐の席上、盃を差し出して、「皆、この盃から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される血、契約の血である」と言われました。
わたしたちは、主イエスが罪の赦しのために血を流してくださった罪びとです。主イエスの血が流されたことに責任を負っているのは、ユダだけではありません。私たちもその意味ではユダと同じです。主イエスを助けられなかった点でピラトは、主イエスを見捨てて逃げた弟子たちと同じです。主イエスを知らないと三度、神に誓って言ったペトロと、主なる神が選び、遣わされたメシアである主イエスを捨てて、代わりにバラバの釈放を求めたユダヤ人も、同じ罪人です。そして、ユダヤ人もユダヤ人以外のすべての民も、主イエスが十字架について、その血を流して、罪を赦し、贖おうとされた罪びとたちです。わたしたちは、すべて、一人残らず、このお方の血によって罪を赦され、互いに和解し、平和のうちに生かされる者たちなのです。そのいい尽くすことのできない神の恵み、計り知ることのできない神様の愛を感謝し、御名をたたえましょう。

父と子と聖霊の御名によって