聖日礼拝『宣教への派遣(その二)』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 コヘレトの言葉3章1〜8節
新約聖書 マタイによる福音書28章16~20節

 

今朝は主イエスが弟子たちにお与えになった「あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい」との宣教命令の御言葉に聞きたいと思います。

「すべての民」とあります。19節の前後にはすべてという言葉が4回繰り返されています。18節の「天と地の一切の権能」、これは英語では all power で、すべてという意味のall が出てきますし、20節では、「すべて守るように」ここでも all という言葉がでて来ますし、最後の「いつも」というのは 英語では all the days すべての日々です。

ここでは「すべて」という言葉が4回繰り返されていると申しましたが、「すべて」というのは、「すべて」を創造された父なる神、「すべて」の日々を支配しておられる父なる神に関わることが、ここで命じられているからだと受け止めたいと思います。

主イエスが弟子たちを派遣するのは、すべての人に向けてなのです。ある人の所には行くけれど、ある人の所へは行かないというのではないのです。伝道とか、キリスト教の宣教というと、キリスト教国から、異教の地、未開の地に出てゆくことを思い浮かべるかも知れませんが、ここでは、すべての国、すべての地域、すべての人が対象です。それはどうしてか。神さまが創造されたすべての人間が対象になっているからだと言えるでしょう。

ここで「弟子にしなさい」とありますが、弟子になるということはどういうことかと言えば、一言で言うなら、弟子はその師の生き方に見習って、それを身につけて、その通りに生きる人のことです。主イエスの弟子は、主イエスのように生きる人です。

主イエスのように生きるとは、どういう生き方をすることでしょうか。そのことを考えるときに大事なことは、主イエスとその弟子の間にある関係、弟子は主イエスの生き方を見習って、それを身につけると言うことは、実は父と子の間にもあって、主イエスご自身、御子として父なる神がなさることをそのままなさる方だということです。ですから、今日聴いている宣教命令において、主イエスが「すべての民を私の弟子にするように」と言われたとき、主イエスは、人々が主イエスの弟子になることを通して、最終的に主イエスの父なる神の生き方に倣う者となることを望まれたのです。

主イエスの弟子となることによって、主イエスを通して、主イエスの父なる神の生き方にならうべき人は、全世界のすべての人です。なぜなら、全世界の人は、一人残らず、男も女も、黒人も白人も、すべての人が父なる神によって造られた者であり、父なる神の生き方に倣うべき人たちだからです。

先日、マタイ25章の羊と山羊の譬え話について説教しました。羊か山羊か、羊として神に祝福され、永遠の命に入るか、山羊として神から呪われ、永遠の罰を受けるか、その羊と山羊の境目は、主イエスの兄弟であるいと小さいものの一人が、飢え、渇き、裸で、宿がなく、病気であったり、獄にいたりしたとき、よくしてあげるか、何もしてあげないかの違いでした。そのとき申し上げたのは、飢え、渇き、裸で、宿がなく、病気であったり、獄にいたりしたとき、よくしてあげるのは元来、父の行為であると言うことでした。父なる神はご自分のこどもを真っ先に助けられる方なのです。その父なる神の子たちは、父がするようにします。それは喜んですること、当然すること、心から願ってすることです。

主イエスは人々を主イエスの弟子にするとき、二段階でそれをするように命じられます。
第一段階として、洗礼を授けなさい、第二段階は、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教え」なさいとお命じになりました。洗礼と、それに続く教育です。

洗礼には大人になってから受ける成人洗礼と、幼児のときに受ける小児洗礼の二種類の洗礼があります。成人洗礼の場合は、信仰をもってから洗礼を受けます。洗礼の前に洗礼に向けての準備教育を受けます。人によって長い人も短い人もいますが、教育を受けてから洗礼を受けるわけです。では、成人洗礼を受けた後は、それに引き続いて教育を受けるでしょうか。主イエスがここで言われているのは、弟子としての訓練や教育は洗礼の後に本格的に始まると言うことです。洗礼を受けてからの教育の方が、洗礼を受ける前に受ける教育より大事だと言うことです。

そこで受ける教育、訓練は弟子としての訓練、教育です。主イエス・キリストの父なる神さまは、万物の創造主であられ、わたしたちをも創造された、わたしたちの父なのです。神がわたしたちの父であられることをはっきりさせるのが洗礼です。神はご自身の独り子、御子をイエス・キリスト私たちと同じ人間としてこの世に生まれさせました。この御子において、私たちの父となるためです。洗礼は、御子の中にうえこまれることです。それにより私たちは神の子としていただくのです。わたしたちが神の子とされることの保証として、神さまは、私たちに聖霊を与え、聖霊によって私たちが、神さまに向かってアバ父よと呼びかけさせてくださるのです。

洗礼によって、私たちが父なる神のこどもたちであることを神はご自身の御名を持ってはっきりと宣言し、印づけてくださるのです。その洗礼という第一段階に引き続いて、主イエスは弟子たちに命じておいたすべてのことをわたしたちが守るように教えられることを望まれます。

その教えの内容はなんでしょうか。わたしたちが守るべき「主イエスが弟子たちに命じておいたすべてのこと」の中には、最も大切な二つの戒めがあり、山上の垂訓があり、祈るときはこう祈りなさいと言われた主の祈りが含まれていると言えるでしょうが、重要なのは、それらの教えを通して目指すべき目標が、わたしたちが神のこどもたちとして父なる神に倣うことを学ぶことであるということです。父がなさる通りに、私たちもすることを学ぶこと、それが教えの目指す喜ばしい目標なのです。

父なる神がどうなさるかについては、実は全世界のすべての人が知っています。教会の中の人は知っていても、外の人は知らないのではないのです。でも、神の御子であるイエス・キリストを通して、わたしたちは父のことをさらに鮮やかに、明確に教えていただくのです。

ですから、わたしたちは神さまを全く知らない人たちのところへ出かけて行って伝道しなさいと言われているのではないのです。わたしたちは、神さまによって創造され、神さまから愛され、神さまのこどもとなるよう呼びかけられている、私たちの兄弟のところへ出かけてゆくのです。

そこで、父なる神の生き方を示すのです。同じ父を持つ、神のこどもたちとして、兄弟として、父なる神の生き方に倣う者たちとなるために、父なる神の生き方を確認し合うのです。主イエス・キリストを通して、また聖霊に導かれて、共々に父なる神の生き方を目指すのです。それは神の国、聖霊によって与えられる義と平和と喜びです。(ローマ14:17)

そのようにして、神さまのこどもにふさわしい生き方を目指し、主イエスの弟子となることを目指す私たちの歩みの日々は、その「すべての日々」において、主イエスがわたしたちと共にいてくださる日々なのです。このことは、私たちにとって主からいただくなんと確かな約束であり、生きるときにも死ぬときにも変わらない慰めでしょう。

テサロニケの信徒への手紙(1)5章10節に、「主は、私たちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」という御言葉があります。目覚めていても、眠っていてもとあります。生きているときも、死の眠りについているときも、ということです。わたしたちは日常、目を覚ましているときは、意識を持ち自覚を持って行動します。でも眠りについているときは、わたしたちの心も精神も、意志も自分をコントロールできないでいます。目覚めているときに、主と共に生きるということはわかりますが、眠っているときに、主と共に生きるということはどういうことでしょうか。それこそ、眠っている人のように、自分では何もできない、自分の方から働きかけることは何もできなかったとしても、それでも、主が私を守り、助け、生かしてくださることを信じ、主に感謝し、すべてを主に委ね、主と共に生きることはできるのではないでしょうか。

教会が無牧師になり、試練を受けなければならない日々にも、無牧師の日々を過ごす教会もまた、主イエスが共にいてくださる教会なのです。神さまの姿が見えない、神様を見失い、遠く離れてしまったという「日々」もまた、主イエスがわたしたちと共にいてくださる日々なのです。あの十字架で、「我が神、我が神、何故私を遠く離れて助けてくださらないのですか」と祈られた主イエスは、私たちのすべての日々、わたしたちと共にいてくださる主なのです。その主イエスを通して、父なる神を愛し、神にあって兄弟を愛する者として生きてゆきましょう。すべての兄弟を喜び、愛することは、神さまを最も喜ばせ、神さまを愛することなのです。

それゆえに、すべての隣人を愛しましょう。父なる神がそれらの人々を愛されるゆえに!

父と子と聖霊の御名によって。