聖日礼拝『宣教への派遣(その一)』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書52章7〜12節
新約聖書 マタイによる福音書28章16~20節

 

 

今朝は今読まれましたマタイ福音書28章17節、18節の御言葉に耳を傾けて聞きたいと思います。

ここには、復活された主イエスと弟子たちとの出会いが記されています。ここを読むとき、私たちは、復活された主イエスの前にひれ伏して、礼拝を捧げる弟子たちの中に「疑う者もいた」と書かれていることに目を留めざるを得なくさせられるのではないでしょうか。復活の主イエスを礼拝する弟子たちの心の中に、いったいどのような疑いがあったのでしょう。

福音書を読むと、主イエスの復活は、あらかじめ主ご自身の口から告げられていたことがわかります。今日読んでいる、ガリラヤにおける主イエスと弟子たちとの再会について、主イエスは最後の夜、弟子たちと守った最後の晩餐の後、ゲッセマネの園へ出てゆこうとした時に、次のように予告しておいでになりました。26章31、32節にこう書かれています。(53ページ)
けれども主イエスのこの予告を聞いた弟子たちは、ペトロが直ちに反論したように、それを信じようとはしませんでした。弟子たちが、主イエスの逮捕と処刑に躓いて、散らされてしまうなどということは、弟子たちにとって信じられないこと、あってはならないことでした。それゆえ、その躓きをこえて、復活の主イエスが弟子たちに先立ってガリラヤにゆかれ、そこで再会する時が来るであろうとの主イエスの予告は、弟子たちの耳にも、心にも入らなかったのでした。

角度を変えてみるならば、主イエスの復活は、弟子たちにとって、期待していたことではなかったということです。主イエスが無残にも十字架に磔になり、殺されてしまったにもかかわらず、主イエスの復活という一縷の望みに弟子たちはすがっていた、そして、その望み通り、主イエスが復活されたというのではなかったのです。

今日の説教の中心テーマは、主イエスの復活を弟子たちが信じたかどうかです。主イエスがまだ十字架にかけられる前、弟子たちは主イエスの復活を信じていたか、それはノー、信じていませんでした。十字架につけられて殺され、墓に葬られてしまったとき、それでも主イエスの復活を弟子たちは信じていたか、これも、答えはノーです。それならば、主イエスが驚くべきことに復活なさり、彼らの前に立たれたとき、弟子たちは主イエスの復活を信じたでしょうか。

17節はその問いに対する答えだと思います。弟子たちは、主イエスが十字架にかけられる前も、十字架にかけられて死なれた後にも、主イエスの復活を信じる信仰はなかっただけでなく、主イエスが復活された後にも、主イエスの復活を信じる信仰はなかった、それがこの17節の証言だと思います。

ということは、主イエスが復活しておいでになるにもかかわらず、その復活の主にお会いしているにもかかわらず、なお弟子たちが主イエスの復活が信じられず、弟子たちはなお、それを疑い続けてということです。

この御言葉は、私たちに何を語りかけているでしょうか。私たちは聖書を通して、あるいは説教で、主イエスは復活なさり、今、生きておいでになると聞かされています。それを聞かされる私たちは、果たして、主イエスの復活を信じているでしょうか。本当には信じられないで、そのことにしばしば疑いを抱いているのではないでしょうか。

17節の「疑う者もいた」という、ここで用いられている「疑う」という言葉は新約聖書には、ここと、あともう1回しか出てきません。今日はその、もう一回出てくる箇所をここと読み合わせてみたいと思います。それによって、わたしたちが主イエスの復活を疑ったり、信じたりするということについてさらに深く掘り下げて考えてみたいと思います。それは同じマタイによる福音書の14章の記事です。28ページをお開きください。

主イエスが湖の上を歩いて、嵐のために漕ぎ悩んでいる弟子たちのところに来られたという話です。この記事は、マタイ福音書だけでなく、マルコ福音書とヨハネ福音書にもあります。でも28節以下の話はマタイにしか書かれていません。それは、ペトロが主イエスと同じことをしたいと願って水の上を歩こうとしたという話です。そして、そこに28章17節に出てきたのと同じ「疑う」という言葉が出てくるのです。

ペトロがこのとき主イエスに願ったのは何だったのでしょう。主イエスが水の上を歩くのをみたペトロは、自分にも主と同じことができるように、「主よ、わたしにお命じください」と言います。主が命令してくださるなら、ペトロは自分も主イエスのように水の上を歩けると信じたということです。そしてペトロがその信仰を保っている間は、ペトロは水の上を歩き、沈みませんでした。しかし、信仰が揺らいで、信仰を失いかけたとき、彼は沈み始めました。

ところで、海の荒れ狂う大波、洪水、人を押し流す濁流は、旧約聖書の詩編においてはしばしば、死と滅びの力、陰府の力の象徴として出てまいります。それゆえ、死の大波を足の下に踏みつけ、乾いた地面を歩くようにして、こぎ悩む湖上の弟子たちに近づかれる主イエスの姿は、今日読んでいるマタイ福音書28章で、復活して弟子たちに近づかれる主イエスの姿に重なります。

マタイ14章に記された、水の上を歩かれる主イエスと、心に疑いを抱いた結果沈み始めたペトロの姿を、マタイ28章17節に記された復活の主イエスと、その前に疑いを抱いたままでひれ伏している弟子の姿に重ねて読むことができると思うのです。

14章では主イエスは溺れそうになったペトロにすぐに手を伸ばして、ペトロを捕まえてくださいました。「主よ、助けてください」と叫んだペトロに、主は「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」と言われました。
28章では、疑いの念を心に抱いている弟子たちに対して、なぜ疑うのかというお叱りの言葉はありません。主は近づいて「わたしは天においても地においても一切の権威を授かっている」と語りかけられるだけでした。でも、この主のお言葉の中に、弟子たちの心に巣食う疑い、不信仰を叱り、それを克服する道を主が示そうとしておいでになるように思います。

主イエスが18節で宣言なさっておいでになるのは、どういうことでしょうか。
主イエスは、十字架につけられて殺され、罪と死とサタンの力、この世の力の支配に屈し、敗北したかのように思われました。しかし、全能の父なる神は、主イエスを墓の中から引き上げ、罪と死の力に対する勝利者としてお立てになりました。そして、御自分のもつ、天地万物を支配し、統治する権能を、このお方にお与えになったのです。それゆえ、天においても地においても、主イエスの愛、罪を赦す権威、わたしたちをあらゆる病と苦しみから助けだし、救い出される力を制限したり、妨害したり、無力化させることのできる力はないのです。
主が罪と死の力に勝利されたお方として、まさに水の上を歩くように、自由に、神の子にふさわしく歩かれる、その姿にペトロがあやかり、自分も主イエスのように生きたいと願って、ペトロが「わたしにその信仰に立って歩めとお命じください、罪の力、死の力に打ち勝って水の上を歩くように、主イエスに向かって歩ませてください」と願うなら、そして主がそうなるようにとお命じになるなら、ペトロはそのように歩けると信じるのです。
それが主イエスの復活を信じる信仰によって生きるという課題なのです。

マタイ14章のペトロが風を見て怖気付き、沈みかけたという経験は、マタイ28章から始まる復活の主イエスのもとでの新しい歩みの中で活かすべき教訓、失敗の教訓と言えるでしょう。ペトロが強い風を見て怖気付き、心に疑いを抱いたように、わたしたちの心から信仰が失われる時があるなら、そのたびに、私たちもペトロが叫んだように「主よ、助けてください」と繰り返し、叫ぶのではないかと思います。わたしたちの信仰の生涯はそのことの繰り返しなのではないでしょうか。そうとしか言えない面があることは確かだと思います。

しかし、そこから前進し、主の復活を信じる信仰に生きることにおいて、わたしたちが成長するためにはどうすれば良いのでしょうか。わたしたちが目指す信仰、それはどのような信仰でしょうか。疑いと不信仰を繰り返し、その中から助けてくださいと、その度に叫ぶ信仰から、わたしたちが前進して、目指すべき目標は、主イエスの信仰です。主イエスの信仰とは何でしょうか。どこがペトロの信仰と違うのでしょうか。

先日、哲学者のパスカルという人の言葉を読みました。こういう言葉です。
「証明できるものは、なんと少ないことだろう。証明は心を納得させるだけである。しかし、明日が来ること、そして私たちが死ぬことを証明できた人がいるだろうか。そして、これほど一般的に信じられていることがあるだろうか。…要するに、私たちは、心が一度真実のある場所を認識したとき、信仰に頼らなければならないのである。そうやって、日々私たちが心から遠ざけてようとしている信仰であらゆる瞬間を彩って、渇きを癒すのである。」

あることが本当かどうか、真実か否か、それはそれが証明できるかどうかで決まる。証明されたら信じる。証明されないなら信じない。そう誰もが思います。しかし、パスカルは言います。そうだろうか。証明できたら信じるが、できなければ信じない、というのであれば、世界には証明できないこと、証明はできないけれど真実なことはたくさんある。私たちはそれらのことを、証明されないまま、信じている。信仰によって受け入れている。

嵐の吹きすさぶ海の上で、主イエスは海も、風も、波も自然界の力を支配なさる万物の創造主であり、支配者であられる父なる神に対する揺るぎない信頼をもっておいでになりました。この主イエスの父なる神は、愛する御子を私たちに賜り、この御子とともにすべてのものを私たちに賜るのです。神が御子以上に愛されるものがあるでしょうか。神はその御子を賜り、私たちを愛されるのです。そうであれば、天においても、地においても全能の父なる神が私たちのために万事を益とするようにしてくださらないはずがあるでしょうか。

復活の主イエスを信じる信仰、それは主イエスとともに、主イエスの父なる神の全能の愛を信じる信仰です。その信仰を与えてくださるのは復活のキリスト、今、生きてご自身の方から私たちに近づき、私たちに語りかけてくださる主なのです。

父と子と聖霊の御名によって