聖日礼拝『万物の終わりが迫っているゆえに』 説教 澤 正幸牧師
福 音 書 マタイによる福音書25章31〜46節
使 徒 書 ペトロの手紙(一)4章7~11節

 

「まだ終わりではない」?
「万物の終わりが迫っています。」今日の御言葉はこう語り出します。万物の終わりが迫っているとはどういうことでしょうか。

昔から日本人の間では、天変地異、地震、津波、火山の噴火など想定外の災害に見舞われるとき「ああ、もう世も末だ」とい言われてきました。今もそれは変わっていないようです。
新約聖書にも確かに世の終わりには、大きな災いが起こると書かれています。例えば、マタイ24章3〜7節にこう書かれています。
ここと並行箇所であるルカ21章には、戦争や飢饉、地震に加えて疫病、さらに天に現れる恐ろしい現象や著しい徴が挙げられています。コロナの疫病と異常気象に襲われている21世紀の現代の世界を指しているような言葉です。
しかし、主イエスはこのような出来事や異常事態について、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と言われたのです。つまりこれらの恐ろしい出来事、それ自体が終わりではなく、これらはむしろ「産みの苦しみの始まり」であって、本当の終わりは、そのあとに続いてくると言われています。

では、万物の終わり、それらの異常な出来事の後に、最終的に訪れる本当の終わりとはどのようなものなのでしょうか。先ほど読んだマタイ25章の羊と山羊のたとえは終わりの日の裁きを教えています。それこそが万物の終わりなのだと思います。つまり、世の終わり、終末とは裁きの時、最後の審判の時であるということです。

裁判は人定質問から始まる
裁判を直接経験された方がどれほどおられるでしょう。自分が被告人、すなわち裁きを受ける身となって、法廷に立足された経験のある人は多くないでしょう。法廷が開かれ、裁判長が着席し、被告人がその前に呼び出されて、最初に行われるのは被告人に対する人定尋問です。
裁判長は被告人に氏名、生年月日、住所、職業を尋ねます。要するに「あなたは誰か、あなたは誰々であることに間違いないか」。これが被告人に最初に問われ、被告人が答えなければならない質問です。

終わりの日に、私たちが裁きを受けるために、神さまの前に進み出るときにも、最初に神様から問われるのは、あなたは何をしたか、しなかったかより先に、あなたは誰なのかでしょう。神様さまから、改めてあなたは誰なのかと問われたなら、私たちは何と答えるでしょうか。

信仰問答
宗教改革期にたくさんの信仰問答が書かれました。その中に、第一問があなたは誰かという問いで始まる信仰問答が多くあります。
あなたは誰か。私はキリスト者です。なぜ、あなたはそういうのですか。わたしは洗礼を受けているからです。

信仰問答はまだ幼い少年少女のときに、学ぶものです。その幼い日に学んだ信仰問答を、ドイツの教会では、信仰告白をしてから50年、60年経ったとき、もう一度、会衆の前で、牧師から問われて、若い日に唱え、告白したのと同じ言葉でこう答えるのだそうです。

生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
生きるにも死ぬにも、わたしは体も魂もわたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであるということです。

今、紹介したハイデルベルク信仰問答と並んで有名な信仰問答がウェストミンスター小教理問答の第一問です。それはこのように告白します。

人間の第一の目的は何ですか。
人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。
この第一問についてイギリスの文学者カーライルはこう述べたと言われています。

「歳を重ね、世を去る時が迫る中で、いよいよその意味がより深く、より完全な形で示されるのは、わたしが子供の頃に学んだ教理問答の第一問である。人間の第一の目的は何か。神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることである。」

あなたは誰か。その問いを人生の終わりに問われたとき、何と答えるのかは重大な問題です。ある人は答えに窮するかもしれません。わたしは誰なのか、その問いにわたしは何と答えたら良いのかわからないのです。わたしはそれを生涯問い続けて今日まで生きてきましたが、いまだにその答えが出ないのですと。

しかし、それに対して、それほどに人生にとって重大な答えが、すでに人生の始めにおいて与えられており、その答えを人生の終わりに、本当に、若い日に覚えた通りだったとの感謝を持って告白できる人は何と幸いな人でしょう。

あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ
コヘレトの言葉の最後に、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とあります。その言葉はこう続きます。「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに。」

終わり日、最後の審判の法廷に立って、あなたは何者かと問われたとき、私はあなたによって造られたものですと答えるよう聖書は私たちに教えているのです。
さらに、私たちを造られた創造主なる神様は、御子イエス・キリストを賜り、御子を通して私たちの父であってくださるゆえに、私たちはあなたのこどもですと答えるのです。

明確な裁き
マタイ25章に出てくる羊と山羊、右手に置かれる羊と左手に置かれる山羊は、はっきりと、間違いようもなく分けられます。右に置かれる羊は、神から祝福とともに永遠の御国を受け継ぎ、左手に置かれる山羊は、呪われて永遠の罰を受けます。白か黒かしかありません。中間のグレイゾーンは存在しないのです。
そして、羊と山羊を分ける違いは何かといえば、羊は王の兄弟である最も小さい者の一人に良くしてあげ、山羊は何もしてあげなかった、その違いです。

この違いが、中間がないほどはっきりと区別されるということはどういうことなのでしょう。一体そのような違いはどこから生まれてくるのでしょうか。
羊がするこれらの愛の行為、憐れみの行為、それはもともと父なる神の行為です。父なる神は、愛と慈しみに満ちた御父として、ご自身のこどもたちが、飢えていれば食べさせ、渇いていれば飲ませ、裸でいれば着せ、病気でいれば見舞い、宿がなければ泊めてやろうとなさいます。真っ先にそれをなさるお方が父なる神です。

だとすれば、羊か山羊かの違いは、父なる神さまのこどもであるか、ないか、その違いだといえます。そして、自分が神さまのこどもであるか、ないか、それは曖昧なことでしょうか。自分と父親の間に血の繋がりがあるかないか、それは曖昧なことではあり得ません。そうであるか、そうでないかしかないのです。

私たちにとって、自分が神さまのこどもであるか否か、それは、私たちが決めることに先立って、神さまが、あなたはわたしのこどもである、そう言われることだからです。
そして、そう神さまから言われる私たちにとって、神さまを父として持つこと、そして私たちが神さまのこどもであることにまさる喜び、誇り、感謝はないのです。

私達は、自分自身が父なる神様から日々、愛され、守られ、助けをいただいて生かされていることを喜び感謝しています。それゆえ、神のこどもたちである、私たちにとって兄弟である人々に、父なる神が助けの手を差し伸べようとしておられるときに、父なる神が困っている人に差し伸べる愛の手として、私の手をお用いになるのであれば、私が協力するのは当然のことなのです。自分がそのようなことをしたのを覚えていないほどに、これは当たり前のこと、自然なことなのです。

「あなたは誰なのか。」終わりに日に神さまに問われるとき、わたしたちは、「わたしはあなたのこどもです。わたしはあなたに造られ、あなたに愛され、あなたの守りと導きのもとに生涯のすべての日々を送ることを許されてきたことを感謝しています。」と答えることができるのです。そのように最終的に神さまにお答えする日、それが私たちにとっての終わりの時です。

よく祈りなさい
その日が近づいていることを知って、またそのことを覚えつつ、「よく祈りなさい」と勧められていますが、そのとき私たちが唱える祈りとして与えられているのが主の祈りなのです。主の祈りの中には私たちの個人的願いを求める祈りは一つも入っていないことに気づかされます。個人的願いでなければ、では何を願っているのでしょうか。父が父であってくださることを願うのです。父が父であってくださることが、神さまのこどもであるわたしたちの願いであり、喜びであり、感謝であることを祈っている祈りです。

もちろん、わたしたちが父なる神さまのこどもたちにふさわしく生きることができますようにと願いますが、その場合も、私たちが何かをするというよりも、全能の父なる神さまの良き御心と御支配が天にも地にも行われますようにと祈ります。なぜなら、地震、戦争、疫病、異常気象といった、その解決が私たち人間の能力をこえていて、私たちには何をしたら良いかわからないようなことについても、私たちは世界の創造主であり、統治者であり、支配者であられる全能の父なる神さまに、神さまの御心と正しさと慈しみが現されるようにしてくださいと祈ることが許されているからです。

神さまの正しいご支配、良き御心と計画がなされ、それによって、わたしたちが必要なすべてのものを与えられ、平安と感謝のうちに、父なる神のこども達にふさわしく互いに赦し合い、愛し合い、助け合えるようにしてくださいと願いましょう。

終わりが近づいています。それは最終的におそるべき破滅、絶望ではありません。むしろ、「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭をあげなさい。あなた方の解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)と主イエスは言われました。喜ばしい待望です。その前ぶれを私たちは日々の生活を通して、言葉と行いと祈りを通してすべての人に示すのです。

父と子と聖霊の御名によって。