待降節第一聖日礼拝『すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書52章7〜10節
新約聖書 マルコによる福音書16章14〜18節

 

待降節を迎えクリスマスに向けての伝道
今日は待降節第一聖日、クリスマスを迎える備えを始める日曜日です。クランツやクリスマスツリーを飾り、アドヴェントの最初のろうそくを灯します。通常であれば、クリスマス礼拝の案内を発送します。しかし、昨年からのコロナ禍のなかで、例年してきたように多くの人々を招いてクリスマス礼拝を守り、クリスマスの祝会を持つことは今年もできそうにありません。異教社会と言われる日本おいてもクリスマスだけは多くの人々がキリスト教に親近感を抱き、教会に足を向ける良い機会なのに、コロナのために私たちは今年も伝道の機会を逸しなければならないように思っているのではないかと思います。
でも、皆さん。聖書は教会の伝道について「み言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても、悪くても、それを励みなさい」と命じています。コロナの中で迎えるクリスマスは、例年と比べれば確かに伝道にとって良い時ではないかも知れません。しかし、たとい折が悪かったとしても、そのようなときにもみ言葉を宣べ伝えなさいというのが聖書の御言葉です。そうであれば、折の悪いときに宣べ伝えられるみ言葉というのは、どのようなみ言葉でしょうか。
考えてみれば、コロナの中で私たちには医師や専門家を通してこのウイルスによるパンデミックについて聞くべき情報や、学び知るべき大切な知識がたくさんありました。そもそもコロナウイルスとはどういうものなのか。その危険性は何であり、どうすればその危険から身を守ることができるのか。ワクチンはどのような効果があるのかなど、そのような知識は正しく人々に伝えららなければなりませんでした。
コロナのパンデミックの中で、私たちが聞くべきことはウイルスについての知識だけだったのでしょうか。このような危機的状況の中で、聖書を通して神さまが私たちに聞かせようとされているメッセージは何だったのでしょうか。私たちはそれにも耳を傾けたいと願いしました。そして、そのようなメッセージを神さまは私たちだけに聞かせようとなさるのでしょうか。それとも教会を通して、神さまはすべての人々にそれを聞かせようとなさるのでしょうか。このコロナの危機と苦しみの中で、人々が恐れ、悲しんでいるとき、神さまがすべての人に語り聞かせようとしているメッセージは何かを、私たちが聞いて、それを人々に伝えてゆくことこそ、時が悪いときにも私たちに命じられている「み言葉を宣べ伝える」伝道ではないでしょうか。

派遣の予行演習と本番
今日私たちが読んでいるマルコ福音書16章は、先週読んだ6章に書かれていた12弟子の派遣の出来事に対応しています。6章に書かれている弟子たちの派遣は、主イエスの公生涯でただ一度だけ行われたもので、期間も限られ、実際、そう長い歳月にわたるものではなかったようでした。今日、読む復活なさった主イエスが弟子たちを派遣される記事は、新約聖書の4つの福音書が、その最後を締めくくる重要な記事として書いているものです。つまり、主イエスの全生涯はこの復活された主イエスによる弟子たちの派遣をこそ、最終的なゴールとしていたということです。そういたしますと、先週読んだ6章の意味がわかってまいります。主イエスはその最終的な目標に向けて、弟子たちに予行演習として短期間の派遣を経験させられたということです。
では6章で行われた予行演習の派遣と、16章に記されている本番の派遣を比較したとき、どこが同じで、どこが違っているでしょうか。
今日の説教では、その比較をしてみたいと思います。以下、それぞれの派遣がなされた時の状況と派遣の期間の長さ、派遣された人は誰か、派遣された対象は誰か、派遣された地域、範囲はどこか、いかなるメッセージを携えて派遣されたか、どのような仕方で派遣されたかについて見てゆきたいと思います。

派遣がなされた時期と期間
6章では先週も見ましたが、派遣の直前、主イエスはナザレで受け入れられず、人々の不信仰に直面させられました。今日の箇所ではどうでしょうか。今日の箇所にも6章で出てきたのと同じ不信仰という言葉が出てきていて、それが6章ではナザレの村人の不信仰であったのに対して、16章ではなんと派遣される弟子たちそのものでした。
6章では派遣の期間は限定され、弟子たちはある地域をゆき巡ると主イエスのもとに戻ってきました。16章ではどうだったか。弟子たちを送り出された復活の主イエスは、19節にあるように天に昇って行かれました。弟子たちが報告するために戻ってゆくべきところは地上のどこかではなく、天になりました。また派遣の期間は、主イエスがもう一度おいでになられる終わりの日まで続くことになりました。
先週読んだ6章で、弟子たちがほとんど何も持たず、取るものも取り敢えず、身一つを携えて出て行ったのは、彼らが短期間の派遣に、急ぎ出かけてゆくためだったとすれば、今回の派遣はそうはいかないかもしれないのです。ルカ22章35節以下に予行演習の時の派遣に際しての命令が今回は通用しないかも知れないことが書かれています。

誰が派遣されたか 誰に対して派遣されたか
6章では12人の弟子が二人一組になって、おそらく彼らが遣わされた範囲はそう広くなくて、せいぜいガリラヤ全土に向けて派遣されたのだと思います。それに対して、16章では、派遣されたのは11人でした。また派遣された相手は15節に「すべての造られたもの」と書かれています。これはマタイ28章では「すべての民」とあり、ルカの書いた使徒言行録では、「地の果てに至るまで」とあるように、文字通り神が創造された全人類のことです。
先ほど、16章において派遣される弟子は、6章に出てきたナザレの住民と同じく不信仰なものであったということに気づかされました。この不信仰という言葉は実はこのマルコ16章では3度繰り返して出てきています。そしてその3度の不信仰と一緒に合わせて3度繰り返されるのが「行って、知らせた」という言葉です。そこから聞こえてくるのは、復活の主と出会ったマグダラのマリアが、またエマオの弟子が「行って、知らせた」にも関わらず、不信仰という頑なな心の壁で跳ね返していた弟子たちは、ついに主イエスの復活を信じるものとされ、主イエスの復活を自分たちも「行って、すべての造られた人々に宣べ伝える」ものとなったというメッセージです。
先週も派遣とはぶどうの木とその枝の関係であるということを申しましたが、派遣される弟子たちが派遣する復活の主イエスと繋がっていないなら、糸の切れた凧のように、あるいはぶどうの木から切り取られたら枝が何の実も結べずに枯れる他ないように、弟子たちには伝えるべき福音もないし、み言葉に伴うしるしのわざもなし得ないのです。
裏返せば、派遣されている弟子が、人々に向けて派遣されているということは、空に上がっている凧が糸でしっかりと凧を揚げている人と繋がっているように、彼らは主イエスが復活しておられることを示しているのです。凧を見上げる人は、凧の糸をその手に握っている人を見るのです。そのように派遣されている弟子たちを見る人は、復活して今も生きておられる主イエスを見るのであり弟子たちの言葉を聞くひとは、弟子たちを派遣しておられる主イエスの言葉を聞いているのです。
そして、不信仰だった弟子、トマスのように主イエスの復活を信じようとしなかった弟子が、信じるものとされているということを見ているのです。信仰を一旦力強く告白しながら、いざという時に三度もその信仰告白を貫けず、主イエスを知らないと言ってしまったペトロが、信仰にたち戻らされたこと、十字架で死なれた主イエスの復活は、ペトロの信仰の復活をもたらしたことを見ているのです。

すべての造られたものに福音を伝える 「隗より始めよ」
今日の日曜日は偶然ですが、私の誕生日と重なりました。昨日は恒冨赳彦さんの誕生日でしたし、実は上田哲也さんの誕生日も私と同じ今日で、さらにファン先生の長女のダソムさんも同じ今日11月28日が誕生日だとわかりました。そう思ってインターネットで検索したら11月28日生まれの人は他にも常陸宮とか、色んな人がいることを知りました。たまたま同じ誕生日に生まれたそれらの人々は、みんな神さまから創造された人々であり、それゆえに、ここで主イエスが福音を宣べ伝えるようにお命じになった「すべての造られたもの」に含まれている人々です。
その人々に福音を宣べ伝えなさいということを考えるときに、自分はそこに含めないでいいのか。「隗より始めよ」という言葉がありますが、福音を人に宣べ伝えながら、同じく神様から創造されたものの一人である自分自身は果たして十分に福音を聞き取っているのかということを考えるのです。
私は自分の名前のことで小さい頃、とても恥ずかしい思いをしていました。皆から「ゆきちゃん」と呼ばれていましたが、それは明らかに女の子の名前だったからです。その恥ずかしい思いが変わるきっかけは、高校生の時、アメリカに留学して、アメリカの方達から正幸という名前はどういう意味かと聞かれ、それを考えるようになったことです。私が生まれた頃、地球は温暖化などとは程遠くて、11月28日は朝から雪だったそうです。それもあって漢字は違いますが、ユキという名前になったかとも思いますが、両親はクリスチャンでしたから、幸いというのはマタイ5章の山上の垂訓の「幸いなるかな、心貧しきもの、天の国は彼らのものなればなり」から取られたことは確かなことでした。それで、英語ではそこがBlessed are the poor in heart となっているので、アメリカの家族には、正幸というのは、truly blessed という意味だと説明するようになりました。そこから、その blessed 幸い、神さまに祝福されるということは、アブラハムが祝福の基とされるのが、周りの人々に主の祝福が広がってゆくためであるように、自分自身がいただく祝福以上のものだということを考えるようになりました。それで今は、両親が私に正幸と名付けたのは、両親がこの子が、この子がいることで周りの人が幸せになるような、周りにいる人を幸せにする人になることを願ってだったと説明するようになりました。私は自分の名前を今はそう解釈することにしています。そういう意味で、私は自分の名前が好きですし、自分が名前の通りの人間でありたいと願っています。
私はそう長くない先にこの教会の牧師の務めから退かせていただこうと思っています。そのことで思うことがあります。私は福岡城南教会に来る前、静岡県の袋井市にある小さな教会の牧師でした。今でも心が痛み悲しい思いがするのは、私がその教会を去ったことで、その教会が受けた痛手というか、それこそ、私が去った後、その教会で起こった混乱は、私がいなくなったために生じた混乱であり、私がいたらそうはならなかったのではないか、また、私がそこにい続けることで受けられたはずの幸い、祝福があったのに、その教会の愛する兄弟姉妹はそれを失うような面があったのではないかという思いを今日まで抱いてきました。もし、そうであるなら、今度、またそのような悲しみを福岡でも繰り返すことになるのだろうか。
私たちは神さまの福音を聞かされています。それを人々に伝えるように命じられています。そしてその福音は私自身があずからせられている福音、私にも向けられている福音です。私は神さまから愛され、周りの人々に対して祝福の基、祝福の泉にさえしていただけるような祝福と愛をいただいている、これは本当に大きな福音です。
しかし、私がそのような祝福をいただき、周りの人々のために祝福の基としていただけるとすれば、それは神さまが生きておいでになるからです。私たちは空に舞い上がる凧なのです。私たちという凧が大空に風を受けて上がり、舞い続ける姿は、私たちを創造し、生かし、愛しておられる神様がおられ、今も生きておいでになり、私たちの神様であられることを表しているのです。私たちの姿は、主イエスが復活して生きておいでになることを、その身を以て証しするものなのです。
その神さまはご自身がお造りになられたすべての人を愛しておられます。すべての人がその人の人生を通して神さまが生きておいでになり、愛してくださり、恵みと栄光を表していて下さることを知って、神さまを喜び、愛し、賛美し、礼拝するようにして下さるのは神さまご自身のみわざです。
今朝も、こうして私たちが、時が悪くても神さまを信じ、喜び、感謝して礼拝を捧げていることは神様が生きて働いておられることの証拠なのです。その私たちを見てすべての人が神さまを知るようにしておられます。それが私たちの伝道なのです。
父と子と聖霊の御名によって