聖日礼拝 『独りで宿営の外に住む』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 レビ記13章45~46節
新約聖書 ヘブライ人への手紙12章12~14節

『独りで宿営の外に住む』

100年前のパンデミック
新型コロナ感染の第5波が感染者数の減少とともに過ぎゆこうとして、新たな第6波への警戒が呼びかけられています。こうして、流行の波が徐々に収まって行って、新型コロナのパンデミックの終わりが訪れるのでしょうか。
ここに一冊の本があります。「100年前のパンデミック」という題です。日本も世界も今から100年前、スペイン風邪の大流行で数多くの死者を出しました。その歴史を振り返り、現在とは異なる点も多い中で、100年前の出来事から学ぶべきことは何かを書いている本です。そこにはこう書かれています。
「わたしたちが100年前の歴史から学ぶべき、第一のこと、それは忘れないことです。100年前の出来事、教会関係だけでもあれほどの死者が出て、深刻な影響があったにもかかわらず、日本の教会はその経験から学ぶことをしませんでした。そして、忘れてしまったのです。それは教会の課題ではなく、信仰的・神学的問いかけとは受け止められなかったのです。」新型コロナウイルスによって約2年間、わたしたちは大きな影響を被ってきました。でも、このパンデミックもやがて終わりを迎えるのかもしれません。では、これが終わるとき、わたしたちの教会は、今回の経験、様々な試練を通して、信仰的にこれこれのことを学んだ、これこれのことは忘れず将来に向けて伝えるべきことだとわかったと果たして言えるようになったでしょうか。それとも100年前、日本の教会がスペイン風邪のパンデミックを、信仰の問題とは受け止められないまま、忘れてしまったことが、今回も繰り返されるのでしょうか。
今日は聖書の中に出てくる感染症の一つである「重い皮膚病」についての箇所をともに学ぶことを通して、今回受けた新型コロナウイルスによるパンデミックをわたしたちが信仰的にどう受け止めるべきかについてみ言葉から聞きつつ、共に考えたいと思います。

独りで宿営の外に住む
45節に記されている「重い皮膚病にかかっている患者」が「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い」ながら「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわりながら歩く姿を見た人は、身の毛のよだつ思いがしたことでしょう。まさに死人が歩いている姿だからです。
その人は46節に「独りで宿営の外に住まなければならない」とあります。宿営の外で、誰とも会わず、誰とも言葉を交わさず、たった独りで住むということは、これもまた生きながらにして死んだに等しいことです。

これは隔離です。では、こうして患者を社会から隔離したら、その隔離患者は社会的に存在しなくなるのでしょうか。確かに人々の生活の場である宿営の中からは締め出すことになります。でも患者は締め出されたところで、人々の住む宿営の外で存在し、生き続けます。
不幸にして、そこで独り寂しく死んだとしても、死者となったらこの世界から全く消えていなくなるのかといえば、決してそうではないと思います。私たちの愛する者たちは、死ねば、わたしたちの間からいなくなり、その姿は消えますが、世界から全く消えてしまうのではなく、遺骨は墓に葬られ、その墓は人の住む町の郊外に存在し続けています。死者は死者として存在し続けるのです。

イエス・キリストの十字架
レビ記13章に出てくる重い皮膚病患者は隔離されて、宿営の外にいなければなりません。そこでたった独りで生き、また死ななければならないのです。そのように人の生きる社会、場所から隔離されたところに、独りさびしく、生き、死ぬ人は、完全に孤立した存在なのでしょうか。生きながらに隔離され、死んで墓に葬られても、そうして人々の目から、意識から消えて行ったとしても、その人々の存在がなくなるわけではないと言い切ることができる、その理由は、その人々を神が覚え続け、神がその人々を忘れず、神がその人々の上に目を注ぎ続けられるからです。
イエス・キリストがエルサレムの城外にある処刑場、ゴルゴタの丘の上で、十字架につけられ死なれましたが、その十字架はまさに、人々から隔離された場所に立てられたのです。それは、宿営の外で、独り生き、独り死んでゆく人々と神がイエス・キリストにおいてともにいてくださるためでした。イエス・キリストが十字架を負ってエルサレムの門の外へ出てゆかれたのは、宿営の外にいる人のもとに赴かれるためでした。
わたしたちは新型コロナウイルスによって感染者を隔離する社会に生きています。ウイルスに感染して隔離された人は社会から締めだされたとしても、それで社会的に存在しなくなるのではないのです。人々の日常の生活空間の外に、社会生活の外で生き続けるのです。そのことはわたしたちにとって、また隔離される側の人にとって当たり前すぎるほどに、当たり前のことです。そして、その当たり前のこと、しかし、一番大事なそのことは、何より神様にとって、隔離患者になった人は、存在しなくなるのではないという厳然たる事実から来ています。神は、御子イエス・キリストの十字架の死において、宿営の外の、隔離された魂を追い求め、その人と共にいてくださり、その人を贖い、ご自身の元へと連れ戻されます。神が愛の神であられるからです。

ウイルスにまさる神の愛の感染力
ウイルスは感染力を持っています、しかし、感染力を持つウイルスよりももっと強い感染力を持つもの、それが神の愛です。イエス・キリストの愛、イエス・キリストにある兄弟姉妹の愛は、互いを隔てる壁、互いを遠ざける溝をこえて相手に伝わってゆく力があります。
イエス・キリストにおける神の愛は、私たちを神様から遠ざけていた罪や穢れを取りのぞき、隔ての壁を打ちこわし、隔離の障壁を取り除きます。そして、神にそれぞれが近づけられることにより、わたしたちも互いに近づけられ、一つにされます。

新型コロナウイルスによってわたしたちはお互いの間に距離を置くようになりました。
このソーシャル・ディスタンス、フィジカル・ディスタンスというのは、互いを隔離し合うということでした。自分を相手から遠ざけ、また相手を自分から遠ざけて、互いを、互いから隔離することでした。わたしが相手にウイルスを感染させるかもしれないし、相手から自分がウイルスを感染させられるかもしれない、そのような可能性、危険性を持っていたからです。
しかし、そのように互いを隔離し合うことによっても、互いの間に隔離をもたらす原因であるコロナウイルスそのものを取り除くことはできないので、隔離を止めることはできなかったし、今後も新型コロナが姿を変えるか、あるいは全く違う新しいウイルスが登場するでしょうから、将来にわたっていつまでも隔離の必要性は無くならないように思われます。

アフター・コロナで何が変わるのか
わたしたちは新型コロナウイルスによってこれまで経験しなかったような社会生活を送るようになり、教会においても初めて経験するような様々なことを経験させられました。では、この試練が終わり、アフター・コロナと呼ばれる時代が来たなら、わたしたちはもう一度、以前の生活に戻るのでしょうか。ウイルスが地球上に存在しなくなることはないでしょうから、以前の生活に戻ると言っても、それはまた新しいウイルスの登場とともに、同じような隔離生活を繰り返すことを意味します。
だとすれば、わたしたちは今回の経験から一体何を学んだと言えるのでしょうか。人と人を互いに隔離し合うこと、そのように互いを引き離すウイルスが新しく登場すれば、同じことを繰り返す他ないということであれば、わたしたちは今回の試練を通して何か、本質的に新しいことを何か学んだと果たして言えるのでしょうか。信仰的に新たに学ぶことは何もなかったということにならないでしょうか。

主イエスに従って宿営の外へ
聖書はヘブライ人への手紙で、1世紀末、ユダヤ教社会の枠の中で生きていたキリスト者に向かって、主イエスに従って宿営の外に出てゆこうと呼びかけています。今の私たちもまた、コロナが終わるとき、コロナ以前に戻るのではなく、新しい生き方を目指して出てゆくことを呼びかけられているのだと思います。それは私たちは地上に戻るべき都を持っていないという意味です。私たちが過去に持っていた生活、それは新型コロナによってそのあり方が変化させられ、続けることができなくなるような生活でした。その意味では、過ぎ行く地上の都だったのです。それは永遠に続く都ではない、目指す都ではない、それゆえに戻るべきところでもないということです。

聖書のみことばが信仰者である私たちに目指すように呼びかけている都は来たるべき都です。わたしたちは後ろに戻るのではなく、前に向かって進むのです。宿営の内側、社会の内側に戻るのではなくて、宿営の外に、社会の外に出てゆくのです。地上にではなく、神様のもとに備えられた永遠にすぎゆかない都を探し求めて、そこを目指して出かけるのです。

イエスの辱めを担って
そのような宿営の外に出てゆく生き方は「イエスが受けられた辱めを担う」生き方だと言われていることに心を留めたいと思います。
イエス・キリストは神の子でありながら、栄光を捨てて、十字架の恥を負われました。主イエスご自身、十字架を負ってエルサレムの門の外に出てゆくとき、辱めを受けられたのです。わたしたちも、新型コロナウイルスの試練が襲う世界、今時代にあって、イエス・キリストの後に従い、イエス・キリストと共に、宿営の外に赴く生き方をしようとするなら、イエスが受けられたのと同じ辱めを受けることを覚悟しなければなりません。

それはどういう辱めでしょうか。祭司長、律法学者は主イエスに向かって、こう言ったのです。「神の子キリスト、自分を救え。他人を救ったが自分を救えない、そんなお前がどうして救い主なのか」。
主イエスが担われた十字架の辱めは、わたしたち、宿営の外に、独り寂しく隔離されているわたしたち、自分で自分を救えないわたしたちを愛するために、自分を救わない者として死ぬことによって受けざるを得なかった辱めであることを、わたしたちは知っています。
主イエスは弱いわたしたちを恥とはなさらなかったゆえに、私たちのゆえに弱くなって甘んじて恥をお受けになられたのです。

ですから、わたしたちは主イエスに倣って兄弟を愛するために、独り寂しく取り残されている兄弟姉妹を愛するために、人々から社会的な非難や攻撃を受けても、また人々から理解されず反対され、孤立したとしても、わたしたちを恥となさらなかった、わたしたちのために辱めを受けることを避けようとなさらなかった主イエスを恥じません。かえって主イエスのゆえに辱められることを喜びとし、誇りとさえして生きてゆくことができます。

わたしたちが自分自身について恥ずべき最大の恥はわたしの罪です。罪はわたしを他者から隔てます。他者の罪も、わたしを他者から遠ざけます。しかし、神はこの世界からその罪を取り除いてくださいました。自分自身を恥じないようにさせ、互いを恥としあわない愛と赦しを与えてくださいました。世の罪を取り除く神の子羊、イエス・キリストによる贖いと愛こそ、わたしたちを神から、またお互いから隔てていた罪の力を取り除き、死にすら勝利させてくださる神の力です。
神の愛がわたしたちを神に結びつけ、イエス・キリストに結びつけ、さらに神とキリストを通して、お互いを一つに結びつけてくださいます。

わたしたちは今回のコロナの試練を通しても、神様への愛と信仰と希望に生きることを学びましょう。苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生むとパウロが言った通り、そしてその希望は、聖霊を通して注がれる神の愛によって支えられ、強められるのです。
聖霊を通して私たちの心に注がれる神の愛によって、わたしたちを隔てるすべての隔離の壁が取り去られて、わたしたちが互いを喜び合い、受け入れあい、共に神を賛美する来たるべき、永遠の都を目指しましょう。

父と子と聖霊の御名によって