聖日礼拝 『愛は滅びない』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩編139編1~10節
新約聖書 コリントの信徒への手紙(1)13章4~13節


『愛は滅びない』
「愛は決して滅びない。」(8節)同じことが13節では、「愛はいつまでも残る」と言われています。

神さまがわたしたちを愛される愛、反対にわたしたちが神さまを愛する愛がいつまでも残る、決して滅びない。とはどういうことでしょうか。
あるいは、夫と妻が愛し合う愛、親が子供を愛し、子供が親を愛する、あるいは友人同士が互いに愛し合う、その人と人を結ぶ愛の絆と交わりが、いつまでも残る、そしてそれが滅びることは決してないというのはどういうことでしょうか。

先週も愛について具体的にお話ししました。例えば、未熟児で生まれた赤ちゃんが、保育器の中で生きるか死ぬかの瀬戸際にいるときに、母親が必死でその赤ちゃんの命を思い、生き延びて欲しいと願う、そして、その赤ちゃんの命が助かったときに、赤ちゃんが生きることによって母親が生きる、母親の祈りや願いが赤ちゃんの生きる力につながる、それが愛ではないかと思います。つまり、相手の中に自分が相手とともに生きることです。また、相手が自分の中に自分とともに生きてくれることです。相手が生きることによって、私が生き、私が生きることによって相手が生きる。これが愛です。

その愛がいつまでも残り続け、永遠に滅びない、なくなることはないというのが、今日の聖書の御言葉であるということになります。

ところで、今日、私たちは20年前の9月11日にニューヨークで起きた恐るべきテロ事件のことを心に刻みながらこの礼拝を守っています。そして、世界中を震撼させた恐ろしい事件から20年経った世界は、今なお、すべての人が新型コロナウイルスに感染する恐怖の中に置かれています。そのような中で、人と人が肉体的にも、精神的にも距離を置くことを余儀なくされ、人と人が親しく会って話をすることも、食事をすることも、こうして礼拝に集まって共に歌い、祈り、聖餐式の食卓を囲むこともできなくなっています。私たちを互いに結びつける愛の絆が断たれ、愛が私たちの間から消えてゆくことに恐れと悲しみを抱いて生きているのではないでしょうか。

ある日突然新型コロナに感染するかもしれないという危険と恐怖に全ての人が晒されながら生きています。もし、ウイルスに感染したら、その瞬間から人々から隔離されなければならない。病院に行って治療を受けられるかどうかも確かではない。せいぜい、自宅で様子をみてくださいと言われて、治療のための飲み薬もない中で、不安な日々を、家族への感染を心配しながら過ごさなければならないかもしれないのです。そして、現実に不幸にして、突然、重症化して、誰にも看取られずに死んでゆく人さえいます。今、私たちの誰しもが、このような心理的恐怖にさらされながら、じっとそのプレッシャーと、ストレスを耐え忍ばなければならなくされています。

ウイルスに感染したときから、私は人にとって危険な存在になる、社会的に歓迎されないどころか、存在自体が否定されるような、いて欲しくない存在に近い存在にならざるを得ません。愛する家族とも面会できない、死ぬときも誰からも看取ってもらえない、死んでも火葬されてお骨になって初めて家族の元に返される。

わたしたちが見聞きするコロナ禍の中での命と死はこのようなもののようです。
そうだとすると、今日、わたしたちが聞いている「愛は決して滅びない、いつまでも残る」という御言葉はどうなってしまうのでしょうか。コロナウイルスに感染する危険と恐れの中で、愛は果たして存在し続けるのでしょうか。

愛は決して滅びない。ここで聖書が「滅びる」と訳している言葉は、新約聖書のギリシャ語の原語ではピプトーで、倒れる、墜落するという意味です。その反対は立つ、存続するです。
また13節の「いつまでも残る」というときの「残る」という動詞はメネインといって、留まるとか滞在するという意味のほかに、ヨハネ福音書15章のぶどうの木の喩えで、枝がぶどうの木に「つながる」というときにもこのメネインが用いられます。その場合、反対語は「離れる」です。

先週の説教で、私が皆さんに、いきなり、皆さんは聖霊を持っておられますかと尋ねたので、礼拝の後で、何人かの方から驚いたと言われました。そういう質問をしたのは、パウロが13章の初めに「愛がなければ」と繰り返し語る時の、「愛がなければ」という言葉が「私が愛を持っていないなら」という言い方だったからでした。そしてその愛を私たちが持つのはどのようにしてかを、パウロがローマ書5章5節で「聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれる」と言っていることから、聖霊を通してであると言っていることから、愛を持つことは聖霊を持つこととイコール、等しい、同じことだと考えたからでした。

でも先週も申しましたように、聖霊は本来、私たちによって所有されうるものではないのです。聖霊は神であられますから世界の創造主であられます。被造物に過ぎない人間が創造主を占有する、独占する、我が物にしてしまうことは不可能だからです。私たちが聖霊を所有し、占有し、わたしのものにするのではなくて、反対に、聖霊がわたしたちを所有される、捉えてくださり、ご自分のものとなさいます。そのとき初めて、私たちは聖霊を持つことを許されるのです。言葉を変えると、神は愛であられ、愛である神さまに愛されるとき、わたしたちは愛を持つのです。

このことを最も明瞭に示すのが、ぶどうの木とぶどうの枝の関係です。神であり、主であられるキリストというぶどうの木には愛が満ちています。そのぶどうの木に植え込まれ、接ぎ木され、ぶどうの木の生きた枝として、キリストにつながっているとき、私たちは愛を持ちます。私たちのうちに愛が宿ります。

愛が滅びない、いつまでも残るのはどうしてか。それは愛である神さま、また神の御子であられるキリストのうちに愛がなくなることはないからです。そして、そのキリストにつながっているとき、なくなることのない、決して滅びることのない愛が、私たちのうちに満ちるからです。そうであれば、愛であるキリストと私たちが離れ離れになることなく、つながることが可能か、私たちはキリストというぶどうの木の枝としてメネイン、つながることができるかどうかが問題になります。

コロナウイルスに感染するとき、わたしはキリストから切り離されるのでしょうか。聖霊はウイルスに感染したわたしを手放されるのでしょうか。いいえ。聖霊がわたしを捉え、わたしをご自分のものとなさる愛は、ウイルスに感染しようとなんら変わることはありません。

今日読んでいる箇所で「一部」とか「一部分」という言葉が繰り返し用いられています。これはすぐ前の12章に出てくる、体と部分と関連することです。原語ではとても似ていますが、別の言葉です。でも指している事柄は同じです。一部分と全体が対比されています。

一部分と全体ということで考えてみたい喩えがあります。主イエスがお語りになった99匹といなくなった1匹の羊の喩えです。羊飼いは99匹を野原に残してでもいなくなった1匹の羊を捜し、追い求めてゆく話です。なぜ1匹にそれほどまでにこだわるのでしょうか。それは、その1匹がいなければ、完全にならないからです。

神は愛です。愛である神が、神であられるということは、先々週、今井長老が「神はある」という説教をされましたが、神がある、神が神として存在するということは、わたしがある、わたしが存在することを欠いてしまっても、実現する、完成するのでしょうか。愛であられる神が、愛の神として「ある」、愛の神として存在されるということの中に、わたしが神の愛の中で、神を愛するものとして立つことが欠くことのできない一部分としてあるのです。わたしが神を愛することなしに、神が愛の神であることは完成しないのです。

わたしが神を愛し、神を愛する枝としてキリストにつながっていることは、神が神であること、神が存在することの中に必要な、欠くことのできないことなのです。わたしが存在しないなら神は神でありえない、神が神であり得るために、わたしが神を愛する存在として残ること、つながっていること、発見されるべき1匹の羊として、神のもとにキリストによって連れ戻されることは必要なことなのです。わたしが神を愛することを神は必要とされる、それほどに、神はわたしを深く愛してくださっているのです。

そのように、一人一人の人間を神様は愛されます。神の愛が完成される、月が満ちるように神の愛が完全に満ちるとき、一人も欠けることなく、神からの愛を受けて、神を愛するようにされます。

今、世界が分断し、愛を見失い、コロナの中で愛が消えてゆくような中にありますが、そのような中で、なお神の愛が勝利します。神は生きておいでになり、その神が愛のゆえに私たちのうちに、わたしたちと共に生きてくださいます。私たちも神様のうちに、神様とともに生きてゆきましょう。
このわたしを燃えるような愛を持って愛される神が、わたしを愛される愛と等しい愛をもって愛している人々を、私たちは愛さずにはおれません。神様が愛しておられる人を愛することは神様を愛することだからです。
「神を愛しているといいながら兄弟を憎むものがいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(1ヨハネ4:20〜21)

愛は決して滅びない。愛はいつまでも残る。

父と子と聖霊の御名によって。