聖日礼拝『自然の法』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記9章5〜6節
新約聖書 ローマの信徒への手紙2章11〜16節

 

後奏 t.m


『自然の法』

三つの聖書の話
別の教会に通っているクリスチャンの方が、教会の前の看板に書かれている今日の説教の題を見られて、「自然の法」と書かれていますが、それはなんのことですかと質問されました。今日の説教の題である「自然の法」の間にある「の」をとれば「自然法」となって、それではまるで大学の法学部の講義か、あるいは法哲学の話でも聞かされるのかと思われても不思議ではないでしょう。今日の説教ではもちろんそんな講義をしようというのではありません。教会の説教というものは、あくまでも聖書に記された神の言葉についての解き明かしでなければならないからです。「自然の法」と申しますのも、それは2章14節に書かれている「律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです」という言葉の、自然に行う律法の行いという意味です。
とは言え、今日読んでおりますローマの信徒への手紙の箇所は多少、硬い言葉が並んでいて、難しく、とっつきにくい印象を受けるのではないかと思います。それで、今日の説教では、これらの聖句を読むときに、それらをとてもよく知られている聖書の物語と結びつけながらお話ししたいと思います。

良きサマリア人の話
14節の御言葉を読むにあたっては、それを良きサマリア人の話を結びつけると明確に理解できるのではないかと思います。
14節「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」
良きサマリア人の話に、サマリア人と並んで出てくる祭司、レビびとは、生粋のユダヤ人であり、彼らはユダヤ人が自分たちの魂として誇る律法に従って生活する代表的なユダヤ人であると言えるでしょう。それに対して、サマリア人はまさに「律法を持たない異邦人」そのものです。しかし、その「律法を持たない異邦人」が「隣人を自分のように愛しなさい」という律法の命じるところを実行したというのが良きサマリア人の話です。13節に「律法を聞くものが神に前で正しいのではなく、それを実行する者が、義とされる」とありますが、祭司やレビびとはそれこそ安息日ごとに会堂で朗読される律法の言葉を聞いていました。しかし、彼らはそれを実行しない人々でした。それを実行したのは、律法を持たない異邦人であるサマリア人でした。サマリア人は律法を持ちませんでしたが、律法の命じるところを「自然に」実行したのです。
15節「こういう人々は、律法の要求する事柄が、その心に記されていることを示しています」。「こういう人々」、すなわち律法を持たない異邦人であるサマリア人は、傷ついて倒れている旅人を見たとき、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法の命じるところを、ユダヤ人のように律法を持ってはいませんでしたが、「自然に」行ないます。それによって、律法を持たなくても、自分自身が律法であり、その心に、律法が記されていることを示すのです。

ノアの箱舟の話
15節の後半から16節の御言葉については先週お話したノアの箱舟の話を結びつけてみようと思います。
15節以下。「彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明しあって、同じことを示しています。そのことは、神が、私の福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」

先週、ノアの箱舟の物語を通してわたしたちが聞いたことと、今読んだ聖句との結びつきはどこにあるかというと、ここで言われている「彼らの良心」と言われるときの「彼ら」というのは律法を持たない異邦人のことであり、ノアの箱舟の物語で言えば、箱舟の外の世界であると言えると思います。
神様はノアと2度、洪水の前と、洪水の後に契約を結ばれましたが、洪水の前と後では、箱舟の中と外の関係が変わっています。洪水の前、箱舟の内側に救いがあり、箱舟の外には滅びがありました。
わたしたちは、しばしば、神の民イスラエルや教会は、箱舟であり、その外、箱舟の外の異邦人世界、異教世界は洪水で滅ぼされる世界であると思いがちではないでしょうか。しかし、それは洪水の前の話です。
洪水の後で神がノアと立てた契約では、世界が、洪水前と同じような、腐敗と無秩序と、堕落の罪を重ねるようなことがあったとしても、今後、神は二度と洪水を起こして世界を滅ぼすことはしないと誓って約束されたという話でした
今の世界、異邦人世界も含めて、箱舟の中にも外にも、悪と罪が満ちていたとしても、神はそれを一度滅ぼしたけれど、再び滅ぼすことは決してしないとご自身をさして誓われ、その誓いのもとに保たれている、それが聖書の語っていることです。
箱舟の中と箱舟の外、イスラエルの民や教会と、異邦人世界、異教世界では違いがあります。それは、ローマ書がここで語っている違いです。イスラエルや教会は律法を守っているのに対して、外の世界には書かれて律法、聖書の御言葉がありません。
それならば、外の世界は律法がない、完全な無法地帯なのかといえば、そうではないということを、今日の聖書の箇所は教えているのです。まずもって、創世記の9章5節6節の戒めがあります。それは神が異邦人世界においても守るよう要求される法です。また、異邦人は確かに十戒を書かれた形ではもっていません。でもその異邦人、異教徒と呼ばれる人たちは、殺してはならない、盗んではならない、嘘をついてはならない、姦淫してはならないということ、それらを犯せば罪であるということを知らないでしょうか。いいえ、神様を知らない異教徒、律法を持たない異邦人も、「自然に」、つまり生まれながらにそれを知っているのです。それは良心に刻まれており、それらの罪を犯せば、良心が責められるのです。
神様は洪水の後、世界と人類をその罪と悪のゆえに滅ぼすことをなさらないと言われますが、だからと言って罪を犯しても良い、罪を犯したものを罰することをなさらないと言われたのではありません。神の裁きは厳然として今も、また終わりの日にもこの世界に臨むのです。

姦淫の罪を犯した女の人の話
その終わりの日の裁きについて記す16節を最後にもう一度読むとき、結びつけて読みたいのはヨハネ福音書の8章に書かれている姦淫の罪を犯した女性のはなしです。
原文では16節は「その日には」という言葉で始まっています。神が人々の隠れた事柄を裁かれる日、その裁きは、箱舟の中と外、イスラエルと教会の臨だけでなく、異邦人世界にも及ぶのです。
「人々の隠れた事柄」が明るみに出されて裁かれると言います。その日まで隠されていた事柄とは何でしょうか。隠れた事柄というのは、裏返していえば、その日まで表に現れていたことがあって、その陰で見えなかったもののことだといえないでしょうか。では何が人々の目に、表の顔として見えていたか。
ユダヤ人、律法を持つ民が、その代表である祭司やレビびとが律法を守っているかのように見えている、その裏で、異邦人、律法を持たない民が、サマリア人が律法を守っているということが見えないでいた。それが終わりの日には、ユダヤ人が律法を守らず、かえって異邦人が律法を守っているという、これまで隠れていたことが明るみに出されるということです。
そのときに、神はその裁きを、「福音」パウロはそれを「わたしの」福音と呼びますが、「福音」にしたがって、「キリスト・イエスを通して」裁かれると言われています。神が福音に従って、イエス・キリストを通して裁かれるとはどういうことでしょうか。
まず、パウロにとって福音とは何か、かれがわたしの福音といってやまない福音とはなんでしょうか。第一コリント15章を引用することもできるでしょうが、今日はテモテ(1)1章15節を引用したいと思います。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしはその罪びとの中で最たる者です。」
箱舟の中である教会、神の民イスラエルの中では、わたしたちはこの主イエスによる罪の赦しによる救いの恵みを喜んでいます。
姦淫の罪を犯した女性を捕えて主イエスのところに引っ張ってきたファリサイ派の律法学者たちは、モーセの律法に従って女性を裁き、石打ちの刑で彼女を死に至らせようとしていました。彼らが主イエスに向かって口々に「あなたはどう思いますか」と詰め寄ったとき、
黙って地面に文字を書いておいでになった主イエスは「あなた方のうち、罪を犯したことのないものが最初に石をなげつけるが良い」と言われました。
主イエスが裁かれたのです。主イエスはこうして姦淫の罪を犯した女性を裁こうとした人々を裁かれました。そして、女性に対しては「私もあなたを罪に定めない」と言って罪を赦してくださいました。
女性にとって主から罪を赦していただいたことは実に感謝すべきことでした。しかし、それとともに、おそらくそれ以上に、再び罪を犯さないようにと言って送り出してくださった主によって、彼女がもう罪を繰り返さない者にしていただいたこと、彼女が自分自身を恥じず、まっすぐに神さまを見上げる正しさを受けたことこそ、彼女にとっての最高の誉であり、神様への感謝であり賛美であり、またそれは神様の栄光であるに違いありません。
箱舟の中である教会、神の民イスラエルの中では、わたしたちはこの主イエスによる罪の赦しと新しい義に満たされた命を救いとして喜んでいます。しかし、その正しさは、箱舟の外である異邦人世界も、自分たちが生まれながらに、自然に、心に記された律法によって願い求めてやまない正しさなのではないでしょうか。
箱舟の外の世界に生きている人々も、教会が受けているのと同じ神の憐れみと忍耐のもとで、最終的には教会の中に生きるものたちが願っているのと同じ願いを抱いて生きているといえないでしょうか。パウロがローマ書の8章で被造物が神の子らの出現を呻きながら待ち望んでいるというのは、このことを指しているのではないでしょうか。実に箱舟の内側の世界も、外側の世界も、正義と平和、愛と慰めを渇き求めています。
わたしたちはイエス・キリストが教会の主、救い主であられるだけでなく、世界の主でもあることを信じています。その世界に住む全ての人々とともに主を愛し、全世界に主の救いが及ぶことを祈り求めてゆきましょう。

父と子と聖霊の御名によって。