聖日礼拝『ノアの契約』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記8章20〜22節
新約聖書 コリントの信徒への手紙(1)2章9〜12節


8月を前にして
7月の第一聖日を迎えました。この日にあたり、創世記のノアの洪水の記事を通してみ言葉に聞きたいと思います。と申しますのは、来月8月を迎えるとき、わたしたちは76年目の敗戦記念日と、その直前に起こった広島、長崎の惨事を覚えずにおれませんが、このノアの物語には平和のメッセージが込められていると思うからです。
ノアは、洪水をもたらした雨がようやくやみ、水が引き始めた時、箱舟の中から鳩を放ちます。その鳩がくちばしにくわえていたオリーブの葉は平和の象徴となりました。また、主なる神が、洪水が終わった後、2度と地上に洪水を起こさないと約束なさり、その誓いの印として与えてくださった美しい虹は新しい平和な世界の象徴となりました。

ノアの物語
ノアの洪水の物語は世界の多くの民族の中に、似たような伝説が数多くあると言われています。特に、聖書が書かれたオリエント世界のバビロンにはこれと全くそっくりな伝承が残されていることが19世紀の考古学によって知られるようになりました。そのことは一体何を物語っているのでしょうか。
あるノアの物語の研究者はそれらの物語に共通していることとして、6つの点を指摘します。一つ、ノアのように誰かが選ばれる、二つ、船が用意される、三つ、人間の悪によって洪水がもたらされる、四つ、人と共に動物も救われる、五つ、船は山に漂着する、六つ、将来の破局が警告される。
こういう物語が言い伝えられたのは、きっと、破滅的な危機が襲い、命を失いそうになった中から、奇跡的に生き延びて助かった人が、自分がどうして救われたかを後世に言い残そうとしたからではないかと思います。2011年3月11日の津波の惨事を生き延びた人は、後の人にそれを言い残すでしょう。また、平安時代、江戸時代にあった津波について、故事として言い伝えられてきたことが、今回の東日本大震災にも教訓として生かされたということがあったと思われます。
創世記でノアの洪水を表すヘブル語「マブール」は、ちょうど津波が、世界中で「ツナミ」と日本語のままで発音されるように、特定の歴史的出来事を指す言葉だったようです。当時の古代メソポタミア世界の人々はこの危機、災害を共通の体験として体験したのでしょう。それを神の民イスラエルが聖書において、神を信じる信仰において書き記したのが「ノアの物語」です。

神の霊が取り去られる
今、改めてこの聖書に記された「ノアの物語」を丹念に読むとき、いくつかの大事なポイントがあることに気付かされます。まず、そもそも洪水はなぜ起きたのか。神はいかなる理由から、世界に洪水を起こされたのかと言うことです。
それは人間の悪、堕落、不法のためでした。主なる神は地に悪と不法が満ちているのを見て、人間を造ったことを後悔し、心を痛めて、悲しまれたと書かれています。
それを3節は「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから」と記しています。霊というのは、何回も申しますが、息のことです。アダムが創造されたとき、土の塊に神が息を吹き込んで、人は生きたものとなったとあるように、人を生かすのは神から送られる息吹なのです。またその神の霊について、コリント(1)2:14に「神の霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。人のうちにある霊以外に、いったい誰が、人のことを知るでしょうか。同じように神の霊以外に神のことを知る者はいません」とあります。神の霊を受けるとは、神の深い御心をわきまえ知ることを意味します。それゆえ創世記6章3節で神が「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきでない」と言われた意味は、人がせっかく神の霊によって、神の思いを知らされているのに、それを無視し続けるなら、神はその霊を取り上げてしまおうとされるという意味でしょう。
主なる神が創造された世界がご自身にとって心の痛み、悲しみとなり、それを造ったことを悔いるようになったとき、神はそれを滅ぼそうと決意されるのですが、ノアとその家族だけは例外的に残されるのです。ノアは生き残るために箱舟を作るよう命じられ、彼とその家族だけでなく、動物たちも生き残ることになります。
今日の説教の題は「ノアの契約」ですが、それは6章18節に出てきます。世界が洪水によって滅ぼされるとき、ノアと家族、また箱舟の中の生き物は滅ぼされないというのが、ここでの契約です。神の霊がノアと箱舟の中には失われずに保たれて、神の憐れみと、慈しみと喜びがそこにとどまったのです。

ノアの契約
さて、洪水が全地を襲い、すべての息あるものが息絶えたあと、神は再びノアと契約を結ばれました。8章21節。これが第二の契約です。第一の契約は洪水の前に立てられた、洪水が襲ってもノアたちは滅ぼされないという契約でした。今度は、2度と洪水によって肉なるもの、地を滅ぼすことはしないという契約を立てられます。しかも、「人が心に思うことは、幼い時から悪い」と言われるにも関わらず、滅ぼさないということは、不思議な思いがします。なぜなら、最初、神が世界を洪水で滅ぼそうと決意されたのは、人間の罪のゆえだったはずです。そして、洪水の後、人間が変わったというのなら話はわかりますが、洪水前と変わらない、依然として罪を持ち続けているにも関わらず、今度は、洪水は起こさない、2度と起こさないというのはどういうことなのでしょうか。
今日の説教のはじめで、この物語は危機を生き延びた人たちが、その体験に基づいて言い残した言葉がもとになっているのだろうと申しました。広島、長崎、あるいは空襲をかろうじて生き延びた人たちは、自分が死んでもおかしくなかった中で、生かされたのはなんのためであり、命を守られたのはなんのためかを考えずにはおれなかったでしょう。
ただし、戦争を生き残った自分は、果たして生まれ変わった自分でしょうか。戦争の悲劇を嫌という程に味合わされた日本の国は、2度と戦争を起こさないような平和な国に生まれ変わったと言えるでしょうか。
広島、長崎の悲劇を生んだ世界はその後、核兵器から遠ざかったわけではなかったどころか、危機はますます深刻化して目の前に迫っています。ノアの洪水の前後で世界が本質的には変わらなかったように、今も世界は戦争の悲劇を経験しても、なんら変わっていないという厳しい現実があります。世界は戦争を境に劇的に変化したわけではない。
にもかかわらず、一つだけ確かなことがある。それは、大きな危機にあったにもかかわらずわたしは今、こうして生かされているということです。わたしはといえば、わたしも決して新しい人間に生まれ変わったわけではない。それでも、ノアとその家族を生き残らせてくださった神が、ノアたちだけでなく、すべての人を滅ぼさず生き永らえさせようと言われるように、わたしたちもまたその神の約束のもとに立たせていただいているということではないでしょうか。
ノアに対するこの契約は神の一方的な契約です。最初の契約の時にはノアには自分で箱舟を作るという神様への応答が求められました。しかし、2度目の契約では、ノアに求められることはほとんど何もないと言っていいくらい何もありません。この約束は一方的に神を拘束する約束事です。神が再びこの世界の悪を怒り、悲しみ、洪水を起こして滅ぼそうとなさったとしても、雨雲の中に立ち上がる虹を見て、神はそれを思いとどまられるという約束なのです。

 契約のしるし
梅雨の最後には集中豪雨が起こります。最近は異常気象のためか、歴史上、経験したことがないような大雨とそれによる河川の氾濫によって水害に見舞われることが繰り返されています。加えて、わたしたちは2年前から続く、新型コロナウイルスによるパンデミックにより苦しめられ、疲れが溜まりつつあります。
にもかかわらず、神がわたしたちの世界をノアの洪水のような滅びに渡すことをしないと誓われた誓いは今なお確かです。洪水が襲います。パンデミックがいつ終息を迎えるのかわからない中で、延々と続いています。そして、わたしたちと、この世界の罪は変わることがありません。それでも神はこの世界を滅ぼすことはなさらないと約束されるのです。
ノアの契約はわたしたちに希望を語りかけています。主なる神はこの厳しい時代にも忠実に、その摂理をもって、昼も夜も、夏も冬も、寒さも暑さも、種蒔きも刈り入れも止むことなく続けさせてくださっています。イザヤ書54章4〜10節のみ言葉を聞きましょう。

父と子と聖霊の御名によって。