聖日礼拝『キリストの霊を持つ者』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩編45編8節
新約聖書 ローマの信徒への手紙8章8〜11節


『キリストの霊を持つ者』

聖霊はわたしたちに正しく知られないことを悲しまれる
先週に引き続いて、わたしたちは今日も、聖霊なるお方について、より深く、正しく知って、このお方を心から信じる信仰と、愛を深められたいと思っています。
エフェソ書4章30節に「神の聖霊を悲しませてはいけません」とありますが、聖霊なる神さまは悲しんだり、嘆いたりなさる人格的存在なのです。
父なる神さまや、御子イエス・キリストがわたしたちから良く知られ、愛され、信頼されているのに、聖霊なるお方については、わたしたちがよく知らないとすれば、聖霊はそのことを悲しまれないでしょうか。聖霊もまた人格であるということは、聖霊はご自身が正しく知られることを期待し、ご自身、わたしたちを愛されるように、わたしたちから愛されることを願われるはずだからです。
今日はローマ書8章9節の「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していない」との御言葉から、聖霊についての知識を深められ、わたしたちが聖霊をいよいよ信じ、また愛して生きてゆくものとされたいと思います。

喜びの油の注ぎ
聖書が聖霊を表すイメージは、第一に、先週学んだ「息」あるいは「風」のイメージがあります。第二には、「光」です。いつも礼拝で聖書朗読と説教に先立って、聖霊の導きを求める祈りを捧げているのは、聖霊はわたしたちの暗く、鈍い心と精神を明るく照らす光であり、御言葉を悟らせ、信仰へと導く灯火だからです。そして、第三に、「油」のイメージがあります。先ほど読まれた詩篇45編8節には「喜びの油」という言葉が出てきました。

聖霊は主なる神が注がれる喜びの油だというのです。喜びの油というのは、まず主がその油を注ぎかける人を喜んでおられる印です。それゆえ、聖霊は、主の喜びを表すと同時に、その油注ぎを受ける人は、主を喜びとします。ローマ書5章5節に「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とあります。聖霊は、神のわたしたちに対する愛を注ぐお方ですが、その聖霊を通して神の愛を受けたわたしたちは、神を愛し返すものたちとしていただきます。
その典型は、父なる神と御子イエス・キリストの関係です。父なる神は喜びの油である聖霊を誰よりも多く、御子イエス・キリストに注がれました。そして、御子イエスは、神の愛に応えて、どこまでも父なる神を愛し通されました。

それゆえ、キリストの霊を持つ者とされるということは、喜びの油である聖霊のそそぎを受けるということになります。8節に「神に喜ばれない」とありますが、そこで言われている「肉の支配下にある者」というのは、喜びの油である聖霊を注がれていない人、それゆえに、神からの愛を受け、神を愛することをしない人のことです。キリストの霊を持たない人はキリストに属さないというのは、ぶどうの木の喩えで言えば、ぶどうの木から離れている人です。ぶどうの木であるキリストのうちには神からの喜びの油が満ちており、それゆえ、キリストというぶどうの木につながる枝は、キリストのうちに満ちている聖霊に預かって、神からの愛を受け、神を愛するようになりますが、一旦、ぶどうの木から離れれば、その喜びを失います。神から喜ばれることもないし、自ら神を喜びこともありません。
そのような生き方をパウロは「肉の支配下にある者」の生き方と呼んでいます。肉というのは、神とキリストを自分の心と思いから閉め出し、自分の欲望、自分中心、自分の考えで生きる生き方のことです。それが神に喜ばれないのは当然です。なぜなら、肉の中には神を喜ぶ思いが全くないからです。神が自分を憎み、敵対し、怒っておいでになると思って、自分も神を憎み、嫌い、敵対するのが肉なる人なのです。

悲しみから喜びへと変えられる
聖霊が喜びの油だというとき、その喜びの反対は、悲しみ、嘆きです。そして、ここでいう、悲しみと嘆きの反対としての喜びを、一番よく示すのはあの放蕩息子が帰ってきたときに、父親が喜んだあの喜びの姿です。父親は「この息子は死んでいいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って喜びました。息子が死ぬとき、父親は泣いて嘆き悲しみます。しかし、遠くへ行ってしまい、二度と戻らないと思っていた息子が戻ってきたとき、死んでいたものが復活したとき、心から喜んだのです。先ほど読んだローマ書5章5節の後に、聖霊を通して注がれる神の愛についてこのように記されています。5章6〜11節。
神の喜びの油、神の愛は誰を喜ぶ、喜びであり、愛なのでしょうか。それは罪びと、神に敵対しているわたしたちを愛する愛であり、喜ぶ喜びなのです。それゆえに、わたしたちはこのお方を「誇り」とします。この「誇り」とするという言葉は、3節にもあって、口語訳聖書では「喜ぶ」と訳されていました。
わたしたちは、それゆえ、自分が苦難の中に置かれていても、悲しんでいても、嘆かなければならないとしても、罪人の友となられたイエス・キリスト、罪びとのために死なれたキリスト、敵をも愛して十字架において和解と平和をもたらされたキリストによってわたしたちを愛される神の愛が、聖霊を通してわたしたちの心に注がれるとき、わたしたちは喜び、誇りを持ち、希望を持つのです。その希望が、わたしたちを忍耐する者、忍耐の中で練達する者として練り清めてくれるのです。

キリストの霊を持つとはどういうことか
9節の御言葉に戻りましょう。「キリストの霊をもつ」とはどういうことかをさらに学びたいと思います。この節の前半に「神の霊があなたがたの内に宿っている限り」とあります。そして、10節前半には「キリストがあなた方の内におられるならば」とあります。ここでわたしたちのうちに宿られるのが、一方では「神の霊」と呼ばれ、他方では「イエス・キリスト」と言われています。イエス・キリストは、ご自身の内に神の霊を宿しておいでになるお方ですから、イエス・キリストがわたしたちのうちにいるとき、キリストの霊である、神の霊、聖霊はキリストを通してわたしたちのうちにいてくださることになります。
「キリストの霊を持つ」とは、それゆえ、キリストがわたしたちのうちにいてくださるということに他なりません。
それゆえ、「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していない」というのは、キリストがその人のうちにいてくださらないので、キリストに属さない人ということです。ぶどうの木の喩えで言えば、ぶどうの木につながらない枝のことです。ぶどうの木であるキリストの中には聖霊が満ちていますが、そのぶどうの木から離れれば、聖霊を失います。

今日の箇所で、聖霊は神の霊、父なる神の霊と呼ばれ、同時にキリストの霊と呼ばれています。父なる神の霊と、御子キリストの霊が、一つの同じ霊なのです。父なる神の霊と、御子キリストの霊が、一つの同じ霊であるということは、どういうことなのかを、先週、聖霊は「息」だと申しましたが、息に結びつけて考えるとわかりやすいと思います。わたしたちはよく「息を合わせる」と申します。息を合わせる二人は、仕事仲間でも、夫婦でも、同じ考え、同じ思いで一つのことを一緒に成し遂げます。イエス・キリストと父なる神の息はいつもピッタリと合っているのです。御子は父なる神の御心に従い、そのみ思いを実現します。その御子を父なる神は助け、愛し、喜ばれます。

この聖霊が父なる神のうちにも、御子のうちにもあって、父なる神と御子を結びつけている姿は、キリストとわたしたちの関係、姿を映す鏡です。キリストのうちに満ちている聖霊は、わたしたちを生かす、命の息吹となってわたしたちにも満ちて、わたしたちはキリストの思い、考えを深く理解し、それに賛同し、力を尽くしてそれを実行しようとしますが、そのとき、キリストは私たちを応援し、力を尽くして助け、ともに働いてくださるのです。

こうして、キリストにつながり、キリストを通して聖霊を受けるわたしたちは、一人一人が個性も、人格も、考えも、生い立ちも様々に異なっていますが、キリストの霊において息を合わせます。それは合唱に似ています。わたしたちは独唱者としてソリストとして神を賛美するのでなくて、デュエットやトリオやカルテットで、またユニゾンでなく、ポリフォニーで歌う合唱団コーラスとして神様を喜び、歌うのです。

終わりに
コロナの中でわたしたちは息苦しさを覚えながら生きてきました。息苦しいということは、神の息吹である聖霊を胸いっぱい吸うことができない、霊的酸欠状態をもたらすということでもあります。また聖霊という喜びの油をかいた状態、喜びの喪失を意味します。実際、コロナになってからわたしたちは愛する家族同士、会うこともできない、喜びを味わえない時をすごしました。
しかし、聖霊は神からの風なのです。風は人の思いを超えて自由に吹きます。パウロは牢獄の鎖に繋がれたとき、自分のからだは鎖に繋がれても、神の言葉は繋がれていないと申しました。それと同じです。わたしたちはどんなに息苦しくても、また喜びを奪われた状態に置かれても、聖霊の働きは繋がれていないゆえに、わたしたちは神からの息吹によって生き返らされ、落胆せずに顔を上げて喜びます。聖霊は、主なる神であり、創造主なる神ご自身なのです。
この喜びの油である聖霊が、苦しみの中にあるわたしたちの希望を支えてくださいます。神は、わたしたちが再び自由に声を合わせて神を賛美する日を来らせてくださるでしょう。父なる神は、わたしたちが喜びをもって主の食卓を囲む日を迎えさせてくださるでしょう。それゆえに、わたしたちは苦しみの中でも、なお聖霊によって喜ぶことができます。神は今日という日に、父と子と聖霊なる三位一体の交わりの中に永遠の喜びを宿しておいでになり、その喜びに、わたしたちが、聖霊によって預かることをお許しくださるからです。神はわたしたちを、今日、聖霊によって神を愛し、神を喜ぶものとしてくださいます。言葉ではいい尽くすことのできない神の恵みについて神に感謝します。(2コリント9:15)

父と子と聖霊の御名によって。