聖日礼拝『喜びの再会』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書66章7~14節
新約聖書 ヨハネによる福音書16章16〜24節


『喜びの再会』

1  離別と再会 その1 昇天と再臨
今週の木曜日は、昇天日です。今年の復活節は4月4日の日曜日でした。それから40日目、主イエスはエルサレム郊外、ベタニアの近くから、天に昇ってゆかれました。
それはお別れの時でした。主イエスの姿が雲に包まれ、もはや見えなくなった後も、ずっとそこに立ち尽くしていた弟子たちの背中には、離別の悲しみが漂っていたのではないかと思います。天を仰いで呆然と立ち尽くしていた弟子たちは、御使からこう語りかけられて、我に返ります。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天にあげられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)
昇天の時は、主が弟子たちのもとを離れ、去ってゆかれる、別離の悲しみの時であったはずでした。しかし、昇天してゆかれた主イエスは、またおいでになる。やがて再臨なさる日が来るだろう。そう御使は弟子たちに告げたのでした。でも、それはいつのことでしょうか。弟子たちは生きている間にその日を迎えることはありませんでした。主が再臨なさる日はやがて来ると言われながらも、もうすでに2千年以上が経ってしまったのではないでしょうか。

2 離別と再会 その2 十字架の死と復活
今日わたしたちが読んでいる16章16節の言葉は、主イエスが間もなく死なれ、弟子たちの前から姿を消されることを告げています。あの十字架の死は、弟子たちたちにとって、それを境に、もう二度と主イエスにお会いできなくなった、永久の別れだと思われた死だったはずです。にも関わらず、主イエスはその別離は、ほんのしばらくの別れであって、すぐに弟子たちは、主イエスの復活によって、主イエスに再会するだろうと言われるのです。
わたしたちは使徒信条で、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちからよみがえり」、と告白しますように、主イエスは確かに死なれ、その遺体は墓に納められましたが、三日ののちに墓からよみがえられたのです。
三日は短い時です。ただし、その三日間には、時間的には72時間の長さで、それは短かったとしても、質的には永遠に、いつまでも終わらない、絶望の時、永久に別離と、悲しみと闇が続くと思われた時だったと思います。
しかし、「しばらくすると」、そうです人間的には永久に続くと思われた時は、わずか三日に縮められ、主イエスは再び弟子たちに会ってくださいました。

17節、18節に、この時、弟子たちが主イエスの言われる意味がわからなかったと書かれています。マタイ、マルコなどの共観福音書でも、主イエスが弟子たちにご自分の身に起ころうとしている受難の死と復活の出来事を予告された時、弟子たちはそれが理解できなかったと書かれています。すなわち、主イエスがエルサレムで祭司長、律法学者から多くの苦しみを受けて、捨てられ、十字架につけられて殺され、三日目に復活すると言われたとき、ペトロなどは、真っ向から反対しました。その後も主イエスが三度繰り返して、ご自身の受ける苦難と十字架の死、そして、三日ののちのよみがえりを弟子たちに告げられたとき、弟子たちはその言葉がわからず、かえって怖くてそれ以上尋ねようとしなかったと書かれています。弟子たちが信じられなかったのは、十字架の死だけではなくて、主イエスがあらかじめ告げられたように復活したことを、復活節の朝、墓を訪れた女たちが天使から聞いて、それを弟子たちに伝えた時も、弟子たちはそれが信じられず、理解できなかったのでした。

19節。主イエスはこの時も、弟子たちがそれを理解できないことを知られます。飛躍するようですが、ローマの信徒への手紙8章26、27節に「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきを持って執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は霊の思いが何であるかを知っておられます。」という御言葉があります。聖霊がわたしたちの心の思いを知られ、見抜かれるお方であるように、主イエスもまた人の心を見抜き、それを知られるのです。
そして、今、弟子たちが直面させられていることが、どういうことなのかを、出産に臨む女の人の喩えによって、非常にわかりやすく、明快にお語りになりました。
20節、21節。弟子たちに臨む悲しみ、嘆きは、妊婦がいよいよ出産に臨んで泣き叫ぶのに似ている。それは束の間の苦痛であって、その泣き叫ぶ声は、やがて喜びに変えられるだろうと言われるのです。

3 離別と再会 その3 昇天とペンテコステ
22節の「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる」とある「今」とはいかなる時であったでしょうか。それは、十字架の死によって、主イエスが弟子たちのもとから奪い去られようとする「今」の時でした。その「今」のときは、「しばらくして」「三日ののち」に主イエスが復活なさり、弟子たちに再び会われることによって、喜びに変えられました。
それでは、復活された主エスが天に昇られ、弟子たちのもとから離れ去ってゆかれたときのさびしさ、喪失感、悲しみはどうなのでしょうか。主イエスは再び弟子たちとあってくださるという再臨の日の喜びは、一体、いつになれば訪れるのでしょうか。
弟子たちにとって、16節の主イエスのお言葉が理解できなかったとように、今の私たちにも、天に昇ってゆかれた主イエスが、再び弟子たちと、またわたしたちとあってくださること、それが決して遠い将来のことではなく、それは「しばらく」したら再び会えると主が約束されるとしたら、その意味は理解し難いのではないでしょうか。
22節で、主イエスはこの出会いは、「私は再びあなたがたと会う」とありますように、主イエスの方から、来られて、わたしたちに会ってくださる出会いなのです。復活節の夜、部屋に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に、復活の主がお立ちになられたように、主が、主の方から来られるのです。
弟子たちにとって、また私たちにとって、昇天なさった主イエスが、やがて再臨なさる終わりの日までの間、その主イエスの不在の悲しみと心細さを埋めるために、主イエスの方からわたしたちに会うために来られるのは、聖霊を通してなのです。昇天からわずか十日後のペンテコステに主イエスが父なる神の右のみ座から弟子たちに注がれた聖霊において、主イエスは弟子たちのもとに来てくださいました。それは22節にある、主イエスとの再会であり、喜びに溢れる出来事でした。
主イエスは16章の5節以下ですでにそのことを弟子たちに告げておいでになりました。弁護者とは助け主、聖霊のことです。このお方は13節以下に言われているように、主イエスとわたしたちを結ぶ絆なのです。
聖霊の絆によって主イエスと結ばれるわたしたちは、ブドウの木である主イエスにつながるブドウの枝として、主イエスによって生かされます。そのとき、主イエスの23節以下の、この約束が実現します。わたしたちはブドウの枝として、主イエスが結ばせてくださる実を豊かに結ぶようになります。

4 離別と再会 その4 コロナの中で悲しむわたしたち
22節の「今あなたがたも、悲しんでいる」とある御言葉は、新型コロナウイルスの試練を受けているわたしたちについても当てはまる言葉ではないでしょうか。わたしたちはもう一年以上、聖餐式が守れないでいます。それは、私たちにとって大きな悲しみです。やがて、もう一度、聖餐式を守ることが許される日が来て、聖餐の食卓を囲む喜びが訪れるなら、そのとき、わたしたちは23節にあるように、きっと何も尋ねようとはしないでしょう。ガリラヤ湖の畔で、復活された主イエスが弟子たちのために準備された朝食をいただいたとき、弟子たちはだれも何も尋ねなかったとあるように、わたしたちの心は喜びで満たされて、何も尋ねることはないでしょう。
でも、そのことをもう一度考えてみたいと思います。それまで理解し得なかったこと、それゆえに尋ねたかったことが、理解できたので、もう尋ねる必要がなくなったのでしょう。では、一体、何を理解するようになったのでしょうか。
第一に、弟子たちにとって、主イエスの十字架の死が、死で終わらず、復活の日が来るということがわかりませんでした。第二には、主イエスの昇天によるお別れは、聖霊によって、弁護者、助け主を通して、主イエスが弟子たちのもとに来てくださる喜びに変えられてゆくことがわかりませんでした。それに加えて、今の悲しみは、いつまでも過ぎゆかない悲しみではない。時間的に短いだけではありません。時間の長さの問題、量的なことではなく、質的なことなのです。苦しみの伴わない、苦しみをくぐり抜けない喜びはないのです。新しい命が誕生したという喜びを味わうためには、産婦は苦しまなければならないのです。必然的に、不可避的に、どうしても伴わなければならない苦しみがあるのです。その苦しみがあったからこそ、迎える喜びは一層大きいのです。

私たちが今、新型コロナウイルスによる様々な苦しみを受けて、悲しんでいる「今」というときもまた、喜びに変えられてゆく「今」なのです。今というときに受けている悲しみは、もう一年以上が経ち、これから先いつまで続くかわからない悲しみの今です。しかし、苦しみを受けなければ、喜びはわからないのです。わたしたちはその喜びに向けて、確かな約束を受けて、祈ることを許されているのです。聖霊が、こうして礼拝において、私たちに臨んでくださいます。聖霊を通して主イエスがここで、今日、わたしたちに出会ってくださいます。
日曜日ごとの礼拝、これもまた小さな離別と再会の繰り返しです。また日々の眠りと新しい朝の目覚めも、小さな離別と再会の繰り返しです。わたしたちは、こうして主イエスに結ばれて、終わりの日の大いなる喜びの再会に向かって歩むものたちなのです。わたしたちと主イエスを結ぶ聖霊の絆は、終わりの日の喜びの保証、手付金、前払いなのです。(エフェソ1:14)
それゆえ、今日という日に聖霊によって、喜びましょう。
「ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜びことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(22節)

父と子と聖霊の御名によって。