聖日礼拝『安息日の主』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エレミヤ書6章16節
新約聖書 マタイによる福音書11章25〜12章8節


『安息日の主』

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(11章28節)この言葉は、原文では「さあ」という言葉、人を食事の席に招くようなときに使う言葉で始まっています。主イエスはすべての人を休息へと招かれます。安息日の今日、わたしたちも安息日の主であられる主イエスに招かれて、主イエスのもとに休むためにまいりました。

主イエスがわたしたちを招かれる、この休みは、重い労働に従事し、長時間休みなしに働いたため疲れている人、たとえば、当直で夜通し働かねばならなかった看護師や介護士の人が、夜勤が明けて、ゆっくり家に帰って睡眠をとって休みたいとか、重荷を背負って険しい山道を歩き続けた人が、休息を取らなければならないとか、ここで用いられているのは、そういった言葉使いの表現です。

バッハの作曲した数ある宗教音楽の中で最高傑作と呼ばれるものに「マタイ受難曲」があります。その最後は、主イエスの遺体がアリマタヤのヨセフの用意した墓に納められる場面で終わっていますが、そこで歌われるのは「イエスさま、お休みなさい」、「どうぞ静かにお眠りください」という歌です。主イエスがわたしたちを招いてくださる休み、魂の平安もまた、静かに眠りにつくことでしょうか。葬儀のときによく読まれる聖句ヨハネ黙示録14章13節にこう書かれています。「わたしは天からこう告げる声を聞いた。書き記せ。今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いであると。み霊も言う。然り。彼らは労苦を解かれて安らぎを得る。」
「彼らは労苦を解かれて安らぎを得る」、つまり人が休みを迎えるのは死を迎えるときだと聖書は言っているかのようです。

しかし、果たしてそうでしょうか。死を迎えることが究極の休みなのでしょうか。
新型コロナが流行するようになって、わたしたちはマスクをしなければならなくなりました。教会に来る坂道はただでさえ登るのに息が切れます。マスクをつけているとなおさらです。新型コロナウイルスのために、仕事量が何倍にも増えてしまったという学校の先生たちがいます。病院の医師や看護師の方達は、通常の医療に加えて、感染症のための予防をしなければならないため、普段の何倍もの神経を使わなければならないでしょう。そのために、心身が疲れ、コロナの流行が始まって一年以上経った今、相当な疲労が蓄積されているのではないかと思います。
それは、程度の差こそあれ、わたしたちみんなに当てはまることだと思うのです。わたしたちには皆、何らかの果たすべき責任や義務があります。それを果たすだけでも労苦し、疲労します。それを十分に果たせない場合は、もっと心が苦しみ、魂が疲れます。ましてや取り返しのつかない失敗をしてしまった場合は、心が責められて、眠れなくなり、体が疲れているのに眠れない人が、どんどん弱ってゆくように、衰弱してゆきます。

そのような苦しみから解き放たれる道は永遠の眠りである死しかない。奴隷が生涯苦しみ続けて、最後にその鎖を解かれるのが死のときであるように、死ねば確かに、もうそれ以上苦しみ続けることはないでしょう。死んだものはもう苦しみからは自由にされるからです。

でも、主イエスがわたしたちを休ませてあげようと言って招かれるのは、死、主と共にある幸いな死、安らかな死でしょうか。はわたしたちをご自身のもとにきなさいと招かれているのです。いいえ、そうではありません。主イエスはわたしたちを主イエスのもとに招いておられます。そして、わたしたちを招かれる主イエスのもとにわたしたちが見いだすのは、死ではありません。復活です。主イエスがわたしたちを招かれる休みは、死ではなく、永遠の眠りではなく、死からのよみがえり、喜ばしい復活の命にあずかる安息です。

安息日というのは、そもそも旧約聖書では土曜日、週の7日目、最後の日でした。それなのに、なぜ、キリスト教会においては安息日が週の初めの日曜日であって、土曜日ではないのか、皆さんは不思議に思われたことがきっとおありでしょう。
新約のキリスト教会はなぜ、週の初めの日を安息日と呼ぶのでしょうか。それはわたしたちにとっての真の安息が、死にではなく、主イエスの復活にあるからです。わたしたちにとって、安息とは、一週間働いて、最後に休むという意味での安息ではなくなったからです。今や、主イエスの復活において始まった本当の喜びに満たされた命こそ、本当の安息なのです。

この安息は何もしない安息ではありません。旧約聖書の安息日が仕事を休む日であるとしたら、主イエスの復活、その復活の命の中に招き入れられて生きてゆくことは、主イエスの負わせてくださる軛を負って生きることです。主イエスと共に復活の命に生きることには軽い荷が伴います。もし、主イエスがわたしたちを招かれる安息、休息が死であったら、死人は軛を負わないし、荷を肩に担うこともしないでしょう。しかし、そうではないのです。主と共に生きることは、喜ばしく軛を負い、荷を肩に担って歩むことです。

軛とはもともと聖書では律法のことを指します。安息日の掟はその一つでした。律法学者たちは安息日にしてはならない行為とは何か、細かく規定していました。そして、それを破る者は死刑に処せられる、それほどに安息日の掟は重い、恐ろしい、厳しい掟でした。
しかし、主イエスは律法の軛から、そのもたらす呪いからわたしたちを解放されるお方です。主イエスは、律法は二つに要約されると教えられました。その中心は愛であることを教えてくださったのです。神から愛されている愛の中で、神を愛すること、神が愛される愛の中で隣人と互いに愛し合うこと、そこに命がある。主イエスを通して、わたしたちはその律法を喜び、愛して生きられるようにされるのです。

主イエスの軛、主イエスがわたしたちの方に背負いなさいと言って与えられる荷とは、神と隣人を愛する愛の重荷のことです。それは難しいものではないのです。守れないものを死をもって脅すような律法ではありません。愛の掟、命の掟です。わたしがあなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさいという掟です。

安息日の掟も同じです。わたしたちにとって、安息日はキリストの復活による命を喜び祝う日なのです。何もしない日、何の仕事もしないで、家で寝ている日に、何か喜びがあるのでしょうか。
安息日はキリストの復活によってもたらされた本当の安息、平安、救いと命を喜び祝う日です。家で、趣味であれ、何であれ自分の好きなことをして楽しむ休日がもっとも幸せな日でしょうか。あるいは、大自然の中に出かけて行って、神様の造られた山々や、海や、大地を眺めて、楽しむ休みが最高の休みでしょうか。
それよりもはるかに優った楽しみと、喜びの安息日の過ごし方があります。主イエスの復活のゆえに、すべての悲しむ人、苦しむ人、病める人、およそ疲れている人々ととともに、共に喜びあい、慰め合い、主の救いを感謝し、賛美をする礼拝の日こそ、最も幸いな日ではないでしょうか。

主イエスこそ安息日の主なのです。その主は今日も、わたしたちを、またすべての人々をご自身のもとに招かれます。「さあ、わたしのもとにきなさい。」
安息日の主、イエス・キリストはよみがえりの主として、わたしたちの罪の重荷を取り除いてくださいます。わたしたちを死と呪いの恐怖から解き放ってくださいます。そして、神と人を愛して、心から、自由に、喜んで仕える者にしてくださったのです。ここに主イエスがわたしたちを招かれるまことの休みがあります。

父と子と聖霊の御名によって。