聖日礼拝『行って実を結ぶ』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書6章8~13節
新約聖書 ヨハネによる福音書15章11〜17節


『行って実を結ぶ』

わたしたちは今、復活節からペンテコステに向かう日々の歩みの中にいます。復活の主は弟子たちを地の果てまで主イエスの証人として派遣なさいます。わたしたちも今の時代に福音を携えて主によって遣わされる教会とされることを願います。
今日の御言葉において、主イエスは弟子たちに、「あなた方が出かけて行って実を結ぶようにと、わたしはあなた方を任命した」と言われました。主イエスが弟子たちを選ばれたのは、彼らをご自分の使者、大使として派遣するためでした。そしてその派遣の目的は実を結ぶことです。

1 弟子たちの派遣に先立つ主イエスの派遣
主イエスは復活節の夜、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる部屋に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立って、「シャローム、あなた方に平和があるように」と言われました。そして、復活の主を見て喜ぶ弟子たちに息を吹きかけ、聖霊で満たし、こう言われました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」。(20:21)

弟子たちの派遣には、それに先立つ、主イエスの父からの派遣があり、弟子たちの派遣は父なる神による主イエスの派遣に倣うものだということが言われています。
15章8〜10節に父なる神と主イエスの関係が、主イエスと弟子たちとの関係に等しいことが言われています。主イエスは父なる神の愛にとどまっているとあります。この「とどまる」という言葉は、ブドウの枝がブドウの木に「つながる」という時の、「つながる」という言葉と原語では同じ言葉です。弟子たちがブドウの木である主イエスにつながるように、主イエスも父なる神につながり、弟子たちがブドウの枝として実を結ぶように、主イエスもまた父なる神につながって実を結ばれると言えると思います。主イエスが結んだ実、それが弟子たちであったということですが、その弟子たちという実を結ぶためには、主イエスは父なる神のもとを離れ、遠くこの世に遣わされなければなりませんでした。そのように父から遣わされ、父のもとを離れて出てゆくことによって、実を結んだのです。
主イエスにとって神の愛にとどまる、父なる神につながっているということは、どこにも出て行かず、じっとしていることではありません。その反対なのです。出かけてゆくことでした。ですから、弟子たちも、主イエスの愛にとどまり、ブドウの木である主イエスの枝として主イエスにつながって実を結ぼうとするのであれば、出かけてゆかなければなりません。でかけて行って初めて実を結ぶのです。

2 派遣の目的は実を結ぶこと
では、出かけて行って結ぶ実とは何でしょうか。先ほど、主イエスが父なる神から遣わされてきて結んだ実とは、弟子たちだと申しましたが、それにならって言えば、弟子たちが遣わされて行って結ぶ実も、新しい弟子たち、主を信じて弟子となるものたちのことだと言えます。弟子となるということは、主イエスが愛されたその愛を受けて、互いに愛し合う者となるということだと言い換えることができます。ヨハネ13:34節以下にこう書かれています。主イエスが与えられた新しい掟を守るものが主イエスの弟子です。

ところで、派遣というのは、遣わされてゆく相手がはっきりしているものです。父なる神様も御子イエス・キリストをこの世に遣わされるにあたり、漠然とこの世の不特定多数の人々に向けて御子を派遣されたわけではありませんでした。ちょうど、郵便物や宅配便の小荷物に届け先の住所と受取人の名前が明記されているように、神様もまた、はっきりとした相手に向けて御子を遣わされたのです。

「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」
主イエスが、わたしが弟子たちを選んだと言われたのは、父なる神が主イエスを遣わす相手として弟子たちを選ばれたからです。神様がイエス・キリストを遣わす相手として選ばれたもの、それが弟子たちでした。

それゆえに、弟子たちが選ばれたということには二重の意味があります。一つは、今申し上げたこと、神様がイエス・キリストを遣わす相手として選ばれたということです。そして、もう一つは、今度は、弟子たちが選ばれたように、弟子たちを遣わす相手として新たに選ばれた人々のところへ主によって派遣される者として選ばれたということです。

派遣される弟子たちは、主イエスが父なる神から派遣されたとき、「わたしを信じるものは、わたしを遣わされた方を信じるのであり、わたしを見るものは、わたしを遣わされたものを見るのである」(12:44)と言われたように、弟子たちは遣わされた者として、あくまでも自分勝手に語ったり、人々が自分に注目するのでなく、人々が自分を遣わした方に注目し、弟子たちを遣わされた主イエスを信じるようになることを追い求めるのです。

愛のわざについてもそれと同じことが言えます。弟子たちが行う愛のわざも、親切な行為、優しい言葉も、それらを通して、それを行う弟子たちが際立ち、注目され、あまつさえ、賞賛を受けるようになるなら、そのとき、その行為はイエス・キリストがブドウの木に連なる枝である弟子たちを通して実を結んだと言えるでしょうか。ブドウの実はあくまでブドウの木である、キリストが結ばせている実のことです。愛を受ける相手は、その愛がキリストからの愛であると認めると言うことです。それを通して、人間や、兄弟から親切にされた、愛されたと言うことを超えて、キリストの愛を知るようになると言うことです。そのとき初めてそれによって父なる神が栄光をお受けになる実を結んだと言えるのではないでしょうか。

3 わたしたちは誰のところへ遣わされるのか
わたしたちは、主イエスが父なる神から遣わされたように、復活の主イエスによって遣わされるものたちです。では、主は私たちを誰のところへ遣わされるのでしょうか。それは先に申しましたように、主がお選びになる人たちのところです。それが誰かは主のみがご存知です。わたしたちにはわからない。と言うことは、それは裏返せばすべての人だと言うことではないでしょうか。

でも、そのわたしたちには誰かはわからない人々の中から、こうして一緒に礼拝を守り、ともにみ言葉に聞き、祈り、主イエスを信じ、互いに愛し合う兄弟姉妹の交わりが生まれているのを、わたしたちは今、目で見ています。わたしたちは、お互いを通して、その背後に主イエスがおられるのを認め合っているのです。ある人が、他の人をブドウの木に連なる枝の一人であると受け入れ、その人を通して受ける愛が、キリストからの愛であると受け入れることができるなら、その人は、主イエスが自分に遣わしておられる主の弟子だと言えます。そのように、今度はわたしたち一人一人が、他の兄弟に対して遣わされている主イエスの弟子であると言うことも言えるのでしょう。わたしたちは互いに、お互いを見ているのではなくて、互いを通して主イエスを見ているのです。そのような形でわたしたちは主イエスからお互いに対して遣わされている者たちなのです。そして、わたしたちの間に主が愛の実を結ばせてくださっているのです。

このような交わりは、広がります。地の果てに至るまですべての人に向けて広げられます。わたしたちにとって思いもよらなかった人との間にも主イエスを通して互いに愛し合う兄弟姉妹としての交わりが広げられ、15章8節のみ言葉のように、父なる神の栄光が現されてゆくのです。わたしたちは互いに愛し合う主イエスの弟子たち、兄弟姉妹とされてゆきます。
主イエスはいと小さい人々、悲しむ人、病める人、孤独な人、助けを待っている多くの人を選ばれます。その選ばれた人々に主イエスの弟子を遣わすために、私たちを選ばれます。そして、主イエスにあってそのひとたちとわたしたちが互いに愛し合う主の弟子となることによって、豊かな実を結ばせてくださるのです。

4 願うものは与えられる
そのような実を結べるようになることはなんと願わしいことでしょうか。その願いが実現することについて、主イエスはわたしたちにこれ以上願わしいものはないほどに最高の約束を与えてくださっています。
「わたしの名によって父に願うものはなんでも与えられる」(16節)。14:13、16:23、24

主イエスは命じられます。17節。わたしたちが、主の命令に従えるようにしてくださいと願うなら、主イエスの名によって、父にそう願い求めるなら、父はその願を実現してくださると主イエスは約束されるのです。
それゆえ、わたしたちがまことのブドウの木である主イエスに繋がる枝として、新しい枝が芽生えて、わたしたちの間に豊かに愛の実を結ばせてくださいと、父なる神に願いましょう。主イエスというブドウの木が枝であるわたしたちを通して豊かに実を結ぶとき、父なる神は栄光をお受けになるのです。

それゆえ、祈りましょう。「天にまします、イエス・キリストの父なる神よ、願わくは、御名を崇めさせ給え」。わたしたちを通して、神様の御名に栄光が帰せられますようにと祈りましょう。この願いは必ず聞かれるのです。

父と子と聖霊の御名によって。