聖日礼拝『遣わされる者』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書45章14b~17節
新約聖書 ヨハネによる福音書12章44〜50節


『遣わされる者』

1 ご自分を隠される神が主イエスによってご自身をあらわされる
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」(44節、45節)

先ほど読まれた旧約聖書のイザヤ書の預言に「まことにあなたはご自分を隠される神」という言葉がありました。八百万の神々と言われるほどに、世界に神と呼ばれるものがあっても、それらはむなしいものに過ぎない、偶像であって、神ではない。まことの神はご自分を隠しておいでになるという意味です。偶像は目に見えます。しかし、まことの神は目に見えません。神は、わたしたちから遠く離れたお方、わたしたちには知り得ないお方である。神は本来、ご自身をわたしたちから隠しておいでになるということ、それは真理だと思います。

しかし、そのご自分を隠される神が、今、イエス・キリストにおいて世の人々にご自分をあらわしておられる。遠くにいますお方が、神から遣わされたイエス・キリストにおいて近くに来ておられると言うのです。わたしを見る者は、目に見えない神を見るのだと言われるのです。隠されていて知り得ない神、あまりに遠くて信じがたく思える神を、主イエスを信じることを通して信じることになるのだと、主イエスは言われるのです。

しかも、そのことを「イエスは叫んで」言われたとあります。主イエスは、それを、静かに、諄々と諭すように語られるのではなく、声を張り上げて、誰一人それを聞かなかったと言わないように、全世界に向けて公に宣言されるのです。マタイ福音書の10章に「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(マタイ10:27)という主イエスのお言葉がありますが、ここでは主イエスご自身が、密かにではなく、公に、囁くようにではなく、屋根の上で言い広めるようにお語りになるのです。

2 遣わされた人間を見て、遣わされた主なる神を見る
教会生活を多少でも経験された方は、こういう言葉を、おそらく一度は耳にされたことがあるのではないでしょうか。「信仰生活を続けていこうと思うなら、人を見てはいけない。イエス・キリストを見上げなさい。人を見ると躓いてしまうから、人を見ないでイエス・キリストにひたすら目を注がなければならない」。そういう忠告の言葉です。

しかし、主イエスは弟子たちを遣わされるにあたって「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(マタイ10:40)と言われました。主イエスと主イエスが遣わされる弟子、ひいてはわたしたちとの間にも、主イエスがご自身について言われた言葉、すなわち「わたしを信じるものは、わたしを遣わされた父なる神を信じるのであり、わたしを見る者は、目に見えない神を信じるのだ」というのと同じことが言われるのです。すなわち、主イエスが遣わす弟子を信じる者は、主イエスを信じるのであり、主イエスの弟子を見る者は、主イエスを見ることになるということです。ということは、もし、主イエスから遣わされている人、主イエスを信じている仲間の信仰者を目に見ながら、その人を信じることができなければ、主イエスを信じることはできないということです。もし、主イエスが遣わされる主の弟子や、主を信じている人を見ることによって、主イエスを見ることができないのであれば、主イエスを見ることはできないし、主イエスを遣わされた父なる神を見ることもできないのです。

3 光として世にこられた主イエス
46節のみ言葉に進みましょう。この言葉はヨハネ福音書8章12節の言葉と重なります。そして、そのこと、すなわち主イエスが世の光であり、この光である主イエスを信じる者が、暗闇の中にとどまらず、命の光を持つということが具体的にどういうことかは、8章12節の言葉の直前に書かれている聖書の記事がはっきりと教えています。その箇所を、聖書を開いて読んでみましょう。(180ページ)

主イエスのもとに一人の女の人が連れてこられました。この女性は姦淫の現場で捕らえられた人でした。この女性を連れてきた律法学者やファリサイ派の人々は、口々にこの女性をモーセの律法が命じる通りに石で打ち殺すべきだと思うが、あなたはどう考えるのかと主イエスに詰め寄りました。すると主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われたのでした。主イエスのこの一言がなければ、その場は陰惨な血が流される世界、暗闇の世界と化していたでしょう。誰一人、石を投げる者はなく、みんながその場を立ち去っていった後、最後にそこに残された女性に主イエスは言われました。「わたしも、あなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」。この罪を犯した女性に対する主イエスの言葉は、罪を犯した女性だけでなく、世のべての人を暗闇の中から明るい光と平和に満ちたところへと導き出す光でした。そして、このお言葉は49節に「私は自分勝手に語ったのではなく、私をお遣わしになった父が、私の言うべきこと、語るべきことをお命じになった」とありますように、父なる神の言葉でした。主イエスが光であるように、父なる神が光であられるからです。主イエスを見る者は、主イエスを遣わされた父を見ているのです。

4 主イエスの言葉を受け入れず、主イエスを拒む者は暗闇の中にとどまる
このように、世の光としてこられた主イエスを信じて、暗闇の中から光の中へと導かれる人がいるのに対して、その光に背を向けて、暗闇の中に留まろうとする人たちがいます。47節から48節に、主イエスの言葉を受け入れない者たちのことが書かれています。主イエスを信じない、主イエスを受け入れない、それによって主イエスを遣わされた父なる神を信じない、父なる神を受け入れない人々です。主イエスの弟子でありながら、夜の闇に姿を消したユダはその一人でした。ユダの他にも、主イエスの言葉を受け入れなかった人たちとして、今日読んでいる箇所のすぐ前にユダヤの議員と呼ばれる人のことが出てきます。この人々はファリサイ派の人々をはばかって信仰を公にいいあらわさなかった人たちです。「彼らは神からの誉れよりも、人間からの誉の方を好んだ」とあります。同じような言葉がヨハネ5章44節にもあります。「互いに相手からの誉は受けるのに、唯一の神からの誉は求めようとしないあなたたち」と主イエスは、人々から尊敬されることを求めるファリサイ派の律法学者たちを批判されました。そこで崇められているのは人間であって、神ではありません。そして、神ではなく人間を崇めるのは、人間である自分が認められ、評価されることを願っているからなのです。

こう言う人たち、律法学者やファリサイ派の人々と主イエスの違いは、まさに、主イエスを見るとき、主イエスを通して、主イエスを遣わされた神が見えるのに対して、律法学者やファリサイ派の人々を見るとき、見えるのはその人たちであって、その人たちを通して神が見えないと言う点が決定的な違いです。この人々は自分の誉を求めていて、神の誉を求めてはいないからです。さらに言うならば、主イエスというお方が自分を愛するよりも神を愛するお方であるのにたいして、この人々は神よりも自分を愛する人々だからです。

5 神と自分のどちらを愛するのか
みなさん、わたしたちは自分と神、どちらを愛しますか。戦争中、特高の刑事は牧師やクリスチャンに対して、キリストと天皇とどちらが偉いかと質問して苦しめたと聞かされていますが、実は、そこで本当に問われていたことは、天皇を取るかキリストを取るかではなくて、自分を取るか、キリストを取るか、すなわち、キリストを愛すると言って自分を失うか、キリストよりも自分を愛して、キリストを捨てるか、二者択一の選択だったのです。

主イエスという方は、ご自分を愛するよりも父なる神さまを愛するお方なのです。主イエスは、自分が自分自身を愛するよりも、父なる神はもっと深く、真実に主イエスのことを愛してくださることを信じておられ、知っておられました。その主イエスを信じるとき、わたしたちも主イエスと共に、神様が、わたしが自分を愛するよりも、もっと深く、真実にわたしのことを愛してくださることを信じるのです。それが永遠の命です。

しかし、その神の愛を信じようとしない人もいます。頑なに神よりも自分を愛そうとし続ける人は、暗闇の中にとどまるほかないし、滅びるほかないのです。

6 遣わされるわたしたち
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」(44節、45節)
こう言われた主イエスは、復活された夜、弟子たちに聖霊の息を吹き入れ、彼らを聖霊で満たして言われました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(20:21、23)

神はこの世界から遠くに、わたしたちから離れたところにおられ、わたしたちが知り得ないお方であられるのではありません。神は主イエスを世界の片隅に遣わされたのでもないのです。主は復活なさり、いまわたしたちを世の真ん中に遣わして語らせようとなさいます。わたしたちは、主に遣わされるものたちとして、主イエスが大声で言われたことを、わたしたちも大胆に、臆することなく、誰をもはばかることなく、全世界の人々に向かって宣べ伝えましょう。わたしたちは世の人々の間にあって、主から遣わされた者として、わたしたちを受け入れる人は、わたしたちを遣わされる主イエスを受け入れるのであり、主イエスを受け入れる人は、主イエスを遣わされた父なる神を受け入れることを声高らかに宣べ伝えましょう。
そのとき、わたしたちは、主イエス・キリストの光によって暗闇を照らす、世の光となるのです。わたしたちを見る人は、主イエスの光を見るのであり、主イエスの光を見る人は、主イエスを遣わされた父なる神が、慈しみ深い救いの神であり、光であられるのを見ることになるのです。

父と子と聖霊の御名によって。