聖日礼拝『わたしのしたことが分かるか』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 サムエル記上15章22〜23節
新約聖書 ヨハネによる福音書13章1〜17節


『わたしのしたことが分かるか』

(1)
13章1節
この夕食は木曜日の夜、ユダヤの暦では日没ともに日が変わるので、正確には金曜日、主イエスが十字架におかかりになった日のことです。この日は主イエスにとって、生涯の最後の日となった日でした。
この週の初めの日曜日、棕櫚の日曜日と呼ばれるその日には、主イエスの公生涯において、これほど、晴れがましく、栄光に輝いていた日はなかったと思われるほど、主イエスの全身を人々の期待と希望が包んでいました。
しかし、その眩しいばかりに光り輝いていた光景が、1週間のうちに一転したのでした。日曜日にホサナ、ホサナと叫んだ群衆の声は、金曜日には「殺せ、殺せ、十字架につけよ」という群衆の叫びに変わってしまいました。日曜日、エルサレムの市街に燦々と日の光を降り注いでいた太陽は、金曜日の午後には全く姿を隠し、闇が全地を覆う中で、主イエスは十字架で死んで行かれました。

今年の年間聖句「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレトの言葉3:1)によれば、棕櫚の日曜日の晴れがましいエルサレム入城も、金曜日の十字架上の死も、すべては定められた時に応じて起こったことになります。そして、その光から闇への暗転の節目となったこの夜に、主イエスはご自分の時が来たことを知って、弟子たちと最後の晩餐と呼ばれる食事をなさいました。そして、その席上、主イエスは弟子たちの足を洗われたのでした。

(2)
この時の主イエスの行為は弟子たちにとってまことに思いがけない、意外な行為でした。呆気にとられ、不可解な思いを抱いていたに違いない弟子たちの足を洗われた後、主イエスは言われました。
12節〜17節。
主イエスがこの最後の夜、光が失われ、すべてが闇に包まれてしまう、そのような暗転の節目の時に当たって、先生であり、主であるお方が、弟子の足を洗うという、弟子たちの考えもしないことをされたのは理由がありました。

弟子たちが心のうちに抱いていた思いを、はっきりと口に出して主イエスに「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったのはペトロでした。それに対して、主は、ペトロに、今あなたにはわからなくても、分かる日が後で来ると言われました。それだけでなく、もし、それを拒否すれば、主イエスとペトロの関わり、繋がりは失われ、断たれてしまうと言われたのでした。

この夜、ペトロにどのような試練が待ち受けているか、まさか、彼がこの直後、大祭司の官邸の中庭で、主イエスのことを三度知らないということになる誰が想像したでしょうか。主イエスは、ペトロにそのことを予告されました。ペトロは自分がそんなことをすることは絶対ないと言い張りましたが、もし、主イエスの予告の言葉がなかったらペトロはどうなっていたでしょうか。その夜、主イエスが言われた通りのことが起こってしまったとき、ペトロは鶏の鳴き声を聞いて、主イエスの言われた言葉を思い起こし、激しく泣き出しました。彼が流したのは、もちろん、後悔の涙、悔恨の涙でした。しかし、それは、途中から冷たい後悔の涙から、温かい涙に変わっていったのだと思います。もし、主イエスが予告しておいてくださらなかったら、彼は泣くどころか、自分に絶望してユダと同じように首をくくって自殺するほかなかっただろうと思います。

自分が、主イエスを三度も知らないという、そんな大それた罪を、実際に犯してしまったとき、ペトロは最初受け入れようとしなかった主イエスの予告の言葉を受け入れざるを得なくされました、それだけでなくて、そこに込められた主イエスのペトロに対する赦しと愛がもろくも崩れ落ちそうになるペトロの支えとなったのでした。それと同じことが、この最後の夜に主イエスがペトロの足を洗われたことにおいても起こったと言えると思います。

ペトロは主イエスから足を洗っていただく必要はない、自分が主イエスの足を洗うならともかく、主イエスがペトロの足を洗うことは受け入れがたいと思います。それは根底では、ペトロが主イエスに対してそんな重大な罪を犯すことなどあり得ないし、あって欲しくないという思いに通じていると言えるでしょう。

しかし、その自分では思いもしないことが起こってしまったとき、ペトロは、自分がそれを必要とすることを認めざるを得なくされます。それだけでなく、自分がそれを認める前に、また自分からそれを求める前に、主イエスが、ペトロのために、それがペトロに必要であることを知って、赦しをさし出していてくださっていたことを知るようになりました。ペトロはそこに込められた主イエスの計り知れない深い愛を知らされるようになりました。

(3)
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)
洗足は罪の赦しをあらわしています。ペトロは三度主イエスを知らないという大罪を犯します。しかし、主イエスは罪を犯すペトロのために祈り、彼の罪を赦されます。
けれども、主イエスがペトロの足を洗う行為は、ペトロの罪が赦されることだけで終わりません。主イエスから足を洗われた者は、互いに足を洗い合いなさいという命令を受けるのです。つまり、主イエスから罪を赦されたペトロは他の弟子の罪を赦すとともに、他の弟子からも赦されるようにならなければならないと命じられるのです。

自分の足を洗っていただくと、人の足を洗わなければならなくなります。それは嫌だから自分の足を洗っていただくことを断わろうとする。
「わたしの足など決して洗わないでください」というペトロの頑強な抵抗の中に、もしも、そのような思いがあったとすれば、主イエスは、そのようなペトロ、自分は主イエスから足を洗われているのに、他の弟子の足を洗うことを拒否するのであれば、そういうペトロとは何の関わりもないと言われ、主イエスとペトロの関係は終わるでしょう。

「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなた方を選んだ。」そう言われる主イエスは、弟子たちが求めたわけでもなく、理解したわけでもない中で、今わからなくても、後で分かるようになると言って、彼らの足を洗われました。そして、主によって足を洗っていただいた以上、主イエスとの交わりを断とうとしない限り、必然的に、兄弟の足を洗わずにおれなくされるのです。それは主イエスの私たちに対する選びであり、愛です。

(4)
4節.主イエスが弟子たちの足を洗われたのは食事の席上でした。当時のユダヤ人社会では、足を洗うのは食事の席に着く前と決まっていました。このとき、主イエスが食事を中断してか、あるいは食事が終わったときに、食事の席についている弟子たちの足を洗われたのは、最後の晩餐の持つ意味をわざわざこの洗足の行為を通して教え、示すためだったと言えるでしょう。
弟子たちはすでに最後の晩餐に預かり、それゆえ、その席上、制定された聖晩餐にも預かっていたはずです。では、弟子たちは自分たちが預かった聖晩餐のことが、このときわかっていたでしょうか。

「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)
弟子たちにとって、聖晩餐についても、洗足と同じことがあると思います。
聖餐式に預かるということは、あなた方が求めたからでも、あなた方がそれを理解したからでもなく、まだ、その時には十分わからなかったときに、主イエスが一方的にわたしたちを主イエスとの交わりの中に招き入れ、わたしたちの体と魂にキリストの愛を刻印してくださったということだと思います。わたしはあなたを一方的に選び、わたしとの交わりの中に置いたのだ、それゆえ、もうあなたはそれ以外の生き方はできない、わたしの弟子として、互いに愛し合い、罪を赦し合う以外の選択肢はない。人を赦したくない、だから赦されることはお断りだし、人を愛したくない、だから愛されることも求めないという生き方はわたしたちにはもうできないのです。そのような生き方ができないものとされていることは幸いなことだということを、あなたが知る日を迎えるだろうという、それは主イエスの愛なのです。

今、しばらく、わたしたちは聖餐式を守ることが許されないかもしれません。しかし、聖餐式が守れない今という時こそ、わたしたちが聖餐式を通して主から受け止めさせていただくことは何か、主が聖餐式において私たちにわからせようとしておられることが何かを、改めて思いめぐらすよい機会ではないでしょうか。

弟子たちの足を洗われた主イエスは、聖餐式の場において、わたしたちが一層互いに愛し合い、赦し合うようになること、わたしたちが求めるに先立ってそのような恵みを備え、招いていてくださることを知るようになりたいと思います。

「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)
わたしたちはそれを今すでに十分、分からせていただいているでしょうか。それとも、それが分かるようになるのは、まだ後でしょうか。後でというのは、天国でということかも知れません。天国における終わりの日に一番はっきりと、その通りだったという日を迎えるのかもしれません。でも、天国における終わりの日を待たなくても、少しずつ、いま、地上の信仰の旅路においても分からせてくださることを感謝しつつ、希望のうちに歩んでゆきましょう。

父と子と聖霊の御名によって。