聖日礼拝『枯れた骨よ、主の言葉を聞け』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エゼキエル書37章1〜14節
新約聖書 ヨハネによる福音書11章38〜44節


『枯れた骨よ、主の言葉を聞け』

今日読まれた箇所のすぐ前、36章の37節、さらに遡って33節以下に、荒れ果てた地、破壊されて、廃墟となった町々が、再び人々の住む町になるという回復の予言、復興の言葉が記されています。これらの言葉を、10年前の東日本大震災を経験した被災地の人々が読んだらどう思われるでしょうか。

今日読んでいるエゼキエル書37章は、バビロン捕囚、すなわち紀元前597年に、ユダ王国の都、エルサレムが、バビロン軍によって包囲され、ユダ王国がバビロンに降伏し、王をはじめ1万人以上の人々が、捕虜としてバビロンに連れゆかれた、その人々がバビロンで、今日風に言えば難民キャンプに収容されて生きていた時、預言者エゼキエルを通して語られた言葉です。
エルサレムからバビロンに捕虜となって連れてこられた人々にとって、唯一の希望は、もう一度生きて故郷の地に帰還することでした。人々はその日を一日千秋の思いで待ち望んで生きていました。

それは原発事故のために、生まれ育った村を離れて生活することを余儀なくされた、浪江村や大槌町の人々と同じ境遇だったと言えるでしょう。しかし、あれから10年の歳月が経っても、今日、それらの人々の願いが実現しないでいるように、バビロンに移住させられた捕囚民の願いも実現しなかったのでした。そればかりか、バビロン捕囚が始まってから10年目に、人々にもたらされたのは、都エルサレムの城壁が完全に破壊され、神殿は焼け落ち、エルサレムは壊滅したとの知らせでした。それこそ、浪江村への帰還を願う人々が、原子力発電所が再度、壊滅的な爆発を起こしたために、もはや帰還の可能性が完全に消滅してしまったと聞かされたようなものです。

バビロンの捕囚民は、もはや帰ってゆくべきところがなくなり、自分たちの将来に対する希望を完全に失ったのでした。それが37章11節に記されている嘆きの言葉です。
「我々の骨は枯れた。我々の望みは失せ、我々は滅びる。」

37章の冒頭に記されている、預言者エゼキエルが見た幻、非常に多くの骨があたり一面に散乱し、それらの骨がことごとく枯れてしまっている枯骨の谷の幻は、希望を完全に失って、絶望しているイスラエルの全家、バビロンの捕囚民のことを象徴的に表しています。

3節「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」

東日本大震災で被災した人たちは多くのものを失い、大きな痛手を受けながらも、その中からなおも希望を持って復興へと立ち上がろうとしている多くの人々がいることを今回様々な形で知らされました。でも同時に、津波で愛する家族を失った人々が、それらの人々の命が戻ってくるわけではないと言って、嘆く声も聞かれました。

「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。
死んでしまった人々が生き返ることなどできるはずがないではないか。
預言者は、捕囚民が、もはやすべての望みは失せた、これらの骨は朽ちてゆくほかない、骨になってしまったものはもう二度と生き返ることは不可能だと言って、嘆き、悲しんでいる中で、果たしてこれらの骨は生き返ることができるかとの問いを、主から受けていたのでした。預言者は答えます。
「主なる神よ、あなたのみがご存知です」。

すると、主なる神は預言者にこう言われます。これらの骨に向かって預言しなさい。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と。
預言者は捕囚民の一人でした。預言者もまた、難民キャンプの中で日々生きていました。そこは、まさに枯れた骨でいっぱいになった谷だったのです。そこで、預言者もまた枯れた一本の骨として自分自身を数えずにおれない状態にあったのでした。

しかし、その預言者に、枯れた骨に向かって預言せよと主がお命じになります。
預言者は彼自身が、枯れた骨だったのでしょうか、そうでなかったのでしょうか。
預言者自身、枯れた骨であったとすれば、主なる神が、まずその枯れた骨である預言者にみ言葉を語りかけられたのでした。

預言者が預言すると言うことは、神の霊によって言葉を語るということです。神から聖霊をいただいて預言者は初めて預言することができるからです。彼もまた一本の枯れた骨だったのです。しかし、その枯れた骨が神からの命の霊を受けて、神のみことばを語るのです。

枯れた骨に過ぎない預言者が神の言葉を語ることは、同時に枯れた骨であるイスラエルの人々が神の言葉を聞くことが可能であることを示します。
そうです。預言者自身、枯れた骨だったものが、命を与えられ、生き返らされていることの証人なのです。
枯れた骨である人々が神の言葉を聞くとき、神は人々に命の霊を吹き込んでくださることによって、人々を生き返らせ、主なる神はイスラエルの民を回復してくださるのです。

わたしたち自身を顧みてみましょう。人々が絶望し、一度失われてしまった命が生き返ることなど不可能だと言うとき、わたしたちは、その嘆きの声に対して何と答えるのでしょうか。人々がこの世界に絶望し、戦争の絶えない世界、環境破壊がどんどん進んでゆくこの世界に希望が持てないと人々が言うとき、わたしたちは何と言うのでしょうか。

預言者エゼキエルは歴史のただ中で、当時のオリエント世界で諸民族の墓場と呼ばれていたバビロンで、イスラエル民族もまた消滅してゆこうとしていたときに、主から「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」と問われて、「主なる神よ、あなたのみがご存知です」と答えました。

わたしたちも、世界に満ちている嘆きの声を聞くとき、預言者エゼキエルと同じ答えをするほかないものたちです。
しかし、そのとき、主は預言者に、語るべき神の言葉を預言させられました。いな、預言者が語る前に、主ご自身が預言者に語られました。預言せよ、骨に向かって、霊に向かって預言しなさいと、神が言われました。

今日の教会も、自分自身が周りの世界と同じような、希望を失った枯れた骨になってしまっていないでしょうか。教会自体が、枯れた骨の谷になってしまい、教会の将来に対する希望を失い、嘆いているのではないでしょうか。しかし、その枯れた骨の谷である教会に、神は命の霊を吹き込んで神のみことばを語らせてくださいます。そうして教会は初めて生きた教会となります。教会が生きた群になることは、それによって、教会だけでなく、世界全体が命に満たされ、世界が神によって創造された世界として、回復されていくことの前触れであり、印なのです。

教会に語るように命じられる神の言葉は、まず。教会が神から聞かされる御言葉です。高い山の上で、ペトロたち三人の弟子は、光り輝く雲の中から、「これはわたしの愛する子、これに聞け」との父なる神からの御声を聞きました。イエス・キリスト、はじめに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった、この言葉に命があったと言われている、生きた言葉、天地は過ぎ去っても、永遠に変わることがないと言われるみ言葉である、イエス・キリストこそ、教会が神から聞く言葉です。
イエス・キリストは死に打ち勝ち、いま生きておられるゆえに、わたしたちもこのお方の言葉によって生きます。たとい死んでも生きます。あらゆる絶望や困難や、障害を越えて生かされてゆきます。今日、わたしたちは自分自身が枯れた骨であることを覚えつつ、そのわたしたちに「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と語りかける主の声に耳を傾けたいと思います。そして、自らの足でしっかりと立って、主の言葉を語る者たち、枯れた骨となって希望を失い、嘆き悲しむ世界に対して、希望と回復の言葉を語る教会としていただきましょう。

父と子と聖霊の御名によって。