聖日礼拝『わたしは福音を恥としない』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇22編23〜32節
新約聖書 ローマの信徒への手紙1章16〜17節


『わたしは福音を恥としない』

恥じる。恥ずかしいと思う。
私たちにとって、この恥じると言う場合、特に信仰者として、神様と人の前で恥ずかしいことが二つあると思います。

一つはアダムとエヴァが、エデンの園で神の言いつけに背いて禁断の果実をとって食べた結果、自分の裸を恥じて身を隠すようになったように、自分の罪を恥じると言うことです。アダムとエヴァ以来、わたしたち人間は、神の前で、またお互いに対して自分を恥じなければならない罪びとです。わたしたちは自ら一点も恥ずることなく、何ら良心の咎めもなしに、神の前に立つことができないし、またお互いに対することもできない者たちだと言うことです。そう言う意味で自分を恥じている、これがわたしたちにとっての恥じとすると言うことの一つです。

第二の恥ずかしさは、第一の意味での恥ずかしさ、すなわち神と人の前で自らの罪を恥じざるを得ないと言う恥は、パウロがここで恥としないと言う福音によって拭い去っていただけるのだと聖書が言っており、福音はわたしたちに、もはや自分が罪人であることを恥じることはないのだと告げるゆえに、わたしたちはその福音によって自らを恥じないようにしていただくはずなのに、自分の信仰が足らないために、信仰がいい加減であるために、自分を恥じている、自分の信仰の弱さを恥じている、自分はクリスチャンですと胸を張って人前にでることが恥ずかしくて、とてもできないと思う、そう言う恥ずかしさです。

今日、わたしたちは「わたしは福音を恥としない」と言う御言葉から、福音は第一に意味での、わたしたちの罪の恥を取り除くだけでなく、第二の意味での、自分の信仰の弱さからくる恥ずかしさからも解き放ってくれること、それが「福音を恥としない」と言うことの意味であることを聞きたいと思います。

「恥としない」という言葉は聖書において、わたしたちは福音を恥としない、またわたしたちはキリスト者である自分を恥としないという風に、「わたしたち」人間を主語として使われる場合もありますが、そのほかに、キリストを、また神を主語として、キリストが、また神が恥となさらないと言う風に使われる場合があります。

今、それを聖書によって見てゆきましょう。いずれもヘブル書に出てきます。
1度目は2章11節です。「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」。
もう一度は、11章16節です。「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。」

私には兄弟が7人いました。もしその中に障がいを持って生まれてきた兄弟がいたとしたら、わたしはその兄弟を、障がいのゆえに恥じたでしょうか。

イエス・キリストがわたしたちを兄弟と呼ぶことを恥とされないと言うとき、わたしたちに神の前で、また人々に目に恥とされることがあっても、なお、主イエスがわたしたちを自分の兄弟と呼ぶことを恥となさらないと言うことです。
そうでなかったら、なんの罪もない神の子が十字架の恥を負われるような事があったでしょうか。神の子キリストは清く、罪なく、それゆえに自らを恥じる理由のないお方であるのに、十字架において恥の極みである死を死んでゆかれました。それは、主イエスが私たちの恥を負われたからです。それによって、キリストは神のみ顔の前で、わたしたちの裸を覆い、罪を覆い、神様の目からわたしたちの恥を覆ってくださったのです。そして神はそのキリストを見て、わたしたちを見ない、いな、わたしたちがキリストであるかのように見てくださるのです。これが、パウロが恥としないといった福音、神の子イエス・キリストの福音です。

ですから福音を恥じとしないと言うことは、そのような罪人である自分をもはや恥じないと言うことです。ハイデルベルク信仰問答が「たとい私の良心が私を責めて、私は神の戒めのどの一つも守ったことがない、また、いまだにあらゆる悪に傾いていると言い立てても、神は一切私の功績なしで、純然たる恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖を私に贈与して、それによって、私は罪など犯したことがないかのように、またキリストが私のために成し遂げてくださったあの服従のすべてを、私自身が成し遂げたもののように見てくださるのです。」(第60問)と告白するように、神はわたしを罪に定めず、キリストにおいてわたしの全ての罪を赦し、キリストにあって義と認めてくださることを信じることです。そのようにして、「心は清められて、良心の咎めはなくなり、信頼しきって、真心から神に近づく」(ヘブライ10:22)ことがわたしたちに恵みとして許し与えられるのです。

これこそが、パウロが恥じることがないと言う福音です。この福音を信じるとは自分を、そうです、信仰の弱い自分をすら恥としないと言うことです。なぜなら、このような信仰が弱く、自分を恥じなければならないようなわたしたちを主イエスが、わたしはあなたを恥じないと断言なさるからです。

主イエスがわたしたちを恥とはしないとそれほどまでに言われるのに、わたしたちが、それでもなお頑なに自分を恥じ続け、あるいは主イエスが恥じないと言われるわたしたちの兄弟のことを、恥ずかしく思うとすれば、そのとき、主イエスはそのようなわたしたちを恥じざるを得ないでしょう。

私たちを恥としないと言って十字架にかかられた主イエスを神の子、救い主ですと信じ、告白する、そのような信仰は、わたしたちの決心によって生じた信念ではなくて、神が聖霊を通してわたしたちに心に働きかけ、わたしたちが心で信じ、口でイエスは主なりと言い表させてくださる、神からの恵み、聖霊による賜物なのです。

ところで、この「わたしは福音を恥としない」と言うパウロの言葉から思い起こすのは、主イエスの語られた「私と私の言葉を恥じるものは、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いてくるときに、その者を恥じる。」(ルカ9:26)という御言葉です。
またそれとの関連で思い起こすのは、「だれでも人々の前で私を認めるものは、私も天の父の前で、その人を認める。しかし、人々の前で私を拒むものは、私も天の父の前でその人を拒む」(マタイ10:32協会訳)と言う御言葉です。ここで「認める」と訳されている言葉は口語訳では「受け入れる」、新共同訳では「自分をわたしの仲間であると言い表す」で、そのギリシャ語の原語はホモロゲイン、「信仰を告白する」とも訳される新約聖書で重要な言葉です。

恥とすることの反対は、誇りとするということもありますが、聖書では、恥とすることの反対は今申しました、ホモロゲイン、告白する、明言するということです。ですから、恥とするということは、ホモロゲイン、告白するの反対語である、拒む、この言葉はアルネオマイ、ペトロが主イエスを、女中に対しても、また他の人々の前でも、三度主イエスを知らないと言った時の「知らない」がこの言葉ですが、主イエスと自分の関わりを否定することです。

でも、主イエスを公然と否定したわけではなく、黙っていた、あえて表には出さずにおいたということは恥じることにはならないのでしょうか。周りの空気を読んで、自分がクリスチャンであることは黙っていた方が得だ、知られるとマイナスになる、自分がいじめられたり、仲間外れにされたりするかもしれない、たとえ自分の不利益にならないとしても、周りの人たちにどうせわかってはもらえないだろう、だから、この世が、また自分の周囲の人たちが、イエス・キリストに対して、またその御言葉について無関心であり、否定的であるときに、あえて自分がクリスチャンであるという必要はない、あえて名乗り出ることはしないという場合が、クリスチャンである私たちが少数者であるこの国においては、しばしばあるのではないでしょうか。

主イエスはこう言われました。「あなた方は世の光である。山の上の町は隠れることができない。ますの下や寝台に下に置くために、明かりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。」それゆえに、自分が信仰者であることを否定はしないけれど、かと言って告白せず、沈黙しておくことも、主イエスと主イエスの言葉を恥じているのに等しいと思います。

パウロがここで「私は福音を恥としない」というとき、彼はすべての人の前で、すべての人に対して、イエス・キリストの名を告白し、自分がイエス・キリストを恥ないということを言い切っています。そして、今、彼はそれをローマ、すなわち、当時、世界を支配していたローマ帝国の首都で、そこにいる最高権威、ローマ皇帝カイザルの前でも、イエス・キリストこそ全世界の王であり、救い主であることを告白するのを恥ないと言おうとしているのだと思います。

福音を恥としない、それゆえ、自分自身を恥としない、それは神がわたしたちを愛し、決して恥じとなさらず、喜びとし誇りとなさるからです。「わたしはあなたの神と呼ばれることを恥としない」と言われる神の前で、なおわたしたちが自分を恥じると言うならば、それは、神を恥じること、聖霊に反論し、聖霊を冒涜することにほかなりません。それを頑なに続ける人は、主イエスと、神と、聖霊から恥じられるでしょう。父と子と聖霊なる神は、そのような人に対しては、終わりに日に「はっきりいうが、私はあなたを知らない」と言われるでしょう。

御子なる主イエスが、私は私の兄弟であるあなたを恥じないと言われます。父なる神が、あなたは私の愛する子であり、喜びとする子である、それゆえ私はあなたの神、あなたの父と呼ばれることを恥としないと言われます。聖霊なる神が、私たちに父なる神を、アバ父よと喜んで呼ばせてくださり、父なる神の子とされたことを、心から喜び、誇り、決して恥じないものとしてくださいます。

こうして、パウロも、私たちも、福音のゆえに自分自身を恥としないものとしていただいたのです。どうしてその福音を恥とすることがあるでしょうか。それゆえ、わたしたしは自分自身を、またこの福音にあずかっているすべての人を、主にあって、互いに心から尊び、自分よりも優れた兄弟姉妹として喜びあうのです。

父と子と聖霊の御名によって