聖日礼拝『聖霊の叫び』 説教 澤 正幸牧師
新約聖書 マタイによる福音書27章45~50節
使  徒  書 ガラテヤの信徒への手紙4章6節

冒頭部分の録音に不備がありましたこと、また音声ファイルが二つに分かれおりますことをお詫び申し上げます。

 


『聖霊の叫び』

あなたはもはや奴隷ではなく子です。4章4節に記された、この宣言がガラテヤの信徒への手紙全体を貫くメッセージです。その前後を読まれても、すべて「あなたがた」という複数形で語られているのに、ここは「あなたは」と単数形で、珍しくストレートに、他でもない、「あなたが」もはやは奴隷ではなく、神の子なのですと、宣言がなされています。

あなたはもはや奴隷ではない、ということは、今は神の子であるあなたも、かつては奴隷であったという意味です。肩には主人から背負わされた軛がずっしりと食い込み、足には自由な方向を妨げる鎖がつながれていた。奴隷として自由がなく、辛く悲惨な日々を過ごしていたと言うのです。

そのような囚われの状態から、あなたは今や解放されるに至った、その変化を一番はっきりと示すものは、「霊」であるとパウロは言います。奴隷の霊から、こどもの霊を持つようになった。ここと並行したことを語るローマの信徒への手紙の8章15節でパウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と言っています。

この奴隷として恐れに陥れる霊は、あの楽園で蛇に騙されたエヴァが抱くようになった霊がそれでした。エヴァは、神の言いつけに背いて罪を犯すまでは、神を愛していました。しかし、罪を犯した後、神の顔を避けるようになり、神を愛することができないどころか、神に裁かれ、神の怒りを買うことをひたすら恐れながら生きる霊の持ち主になりました。

でも、あなたはもう奴隷ではない、エヴァのように神に対して恐れの霊を抱えたまま生きなくて良くなった。それはどうしてか。4節に書かれているように、神が御子を、エヴァの子孫として、恐れの霊を抱いて生きる人間の中に、遣わされたからです。宗教改革者のカルヴァンは、「御子が奴隷の鎖に繋がれた。それによって奴隷の鎖が解けた。」と言いました。
( By putting the chains on himself, he takes them off the other )

6節は、原文を直訳しますと、「あなたがたが子であるので、神は御子の霊を私たちの心に送ってくださった」となっています。
ここで私たちの心の中に、神が聖霊を送られると言う時の「送る」と言う言葉と、4節の、神が御子をこの世界にお遣わしになりましたと言う時の「遣わす」が原語では同じ言葉です。そして、この派遣ということの意味は、この世に派遣されてきた御子において、父なる神がこの世界に現臨される、ここにおられるのです。そして、同じように、御子の霊が私たちの心に派遣されることにより、その霊において、御子が私たちのうちに共におられるのです。

そして、この御子の霊は「アッバ、父よ」と叫ぶと言われます。
私たちが叫ぶと言うとき、悲しみのあまり泣き叫ぶときがあり、反対に喜びのあまり歓喜の叫び声をあげる時があり、命が危険にさらされる中から必死の思いで助けを求めて叫ぶこともあれば、怒って抗議の叫び声をあげることもあるでしょう。
では、御子の霊が、それゆえ、神の子であられる主イエス・キリストが、「アッバ、父よ」と叫ぶのはどう言うときに、どう言う仕方においてでしょうか。

いつかもお話ししたことがあるかと思いますが、私の兄がわずか49歳の若さで、癌で死んでいったとき、いよいよ最期が近いと言う時に、父が兄を見舞いました。その時のことを父がこう書き残しています。

3月25日、彼の意識がまだあった最後の日に、私に会いたいというので、病室に入ると、何とも言えない痛切な声で「お父さん、お父さん、お父さん」と数回呼んだ。それはどういう意味であったのか。「後を頼みます」とも、「お先に行ってごめんなさい」とも取れなくもない。でもそれだけではなくて、「お先に行って待っていますから、心配しないで来てくださいね」という意味だと思いたい。そう考えれば、彼が先立つことは不幸ではない。

「アッバ、父よ」と言うこの呼びかけは、遠く離れている父に向かって叫ぶではないのではないでしょうか。ちょうど兄が父の名を繰り返し呼んだように、父を前にして、目の前の父に語りかけるような呼びかけではないかと思います。お父さん、あなたこそ、私のたった一人の父です、あなた以外に私の父はいません。そして私は本当にあなたの子なのです。

そして、この叫び、この呼びかけに対しては、父なる神からの確かな、はっきりとした応答があるのです。父なる神もまた、お前は私の愛する子だ、私はお前を喜んでいる、お前は私の心に適う子だ。と答えられるのです。

それゆえ、この叫びと、それに対しての父なる神の応答は、私たちと父なる神がしっかりと愛と信頼の絆で結ばれている中で交わされる、互いに対する語りかけ、呼びかけなのです。7節に、子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのですとありますが、父なる神は、私はお前に全幅の信頼を持って、全権を委任しよう。お前を信じている。お前は私の心を知っているし、私の考えも理解しているから、すべてのものの管理をお前に喜んで委ねようと言われるということです。

かつての奴隷だった時とは180度違う関係です。その時は臆病で、いつもおどおどして、いつ叱られるか、いつ怒りを買って鞭打ちの刑罰を受けるか、戦々恐々としていたのでした。今は、仮に、私たちがミスをしたとしても、父なる神は自らが全責任を負う形で、私たちに全てを委ねてくださるのです。

先ほども引用しましたが、今日読んでいるガラテヤの信徒の手紙4章6節と、ほぼ全く同じ言葉がローマの信徒への手紙8章15節にあります。そこを開いて読んでみたいと思います。ほぼ同じですが、しかし、ただ一点違いがあります。「アッバ、父よ」と叫ぶのは、ガラテヤ書では御子の霊ですが、ローマ書では私たちとなっている点です。

「アッバ、父よ」そう呼ぶのは、私たちなのか、それとも神が送ってくださる聖霊なのか、どちらなのでしょうか。ここで大事なことは、それがどちらか一方なのではないということ、16節にあるように、私たちの霊と聖霊が、一緒になって神に「アッバ、父よ」と呼びかけるということだと思います。

例えば、祈りのことを考えてみましょう。私たちの祈りは、聖霊と私たちが一緒に祈っているのではないでしょうか。聖霊が私たちのために執り成しながら祈ってくださる祈りがあり、それと共に、私の霊も祈るのです。そもそも聖霊の祈りの支えがなかったら、私たちの祈りは父なる神様に届くでしょうか、聞かれる保証がどこにあるでしょうか。聖霊が一緒に祈っていてくださるので、その執り成しがあるので、私たちの祈りは父なる神に聞かれるのです。

それは説教も同じです。聖霊が語ってくださらないなら、説教はただの人間の言葉になります。人間が語りますが、人間の言葉を通して聖霊が語ってくださいます。そうして初めて説教を聞く人はそれを神の言葉として聞くことができるのです。

礼拝における賛美も同じではないでしょうか。聖霊が共に父なる神に向かって叫び、歌い、賛美していてくださるので、私たちの賛美は神への賛美となります。聖霊が共にいてくださらない賛美であれば、それはコンサートの合唱や演奏に過ぎなくなってしまいます。それは歌ったり、演奏したりする人間に栄光を帰するわざであって、神に栄光を帰するわざとはならないでしょう。

今日の説教の最後に、「アバ」という言葉についてお話ししたいと思います。教会で用いられる言葉は、聖書からしてヘブライ語とギリシャ語が原語ですけれど、私たちの理解できる言葉に翻訳されていて、教会で私たちが使う言葉は、皆が聞いてわかる言葉が使われます。しかし、その中に数少ない原語のままの言葉が残されています。アーメンがそうです。ハレルヤ、ホサナ、マラナ・タは主イエスの時代の言葉のまま、今に至るまで、全世界の教会で用いられています。そして、この父なる神への呼びかけである「アバ」もまた、主イエスが使っていた言葉がそのままに残され、今尚、全世界の教会でこれが用いられています。

この「アバ」には、私たちの父という意味があります。今日も何億という人々が主の祈りの冒頭で、天にまします我らの父よと、「アバ」と呼びかけながら、私たちの神に向かって祈っています。その叫びを共に叫んでおられるのは私たちの心に神が送ってくださった聖霊です。聖霊が私たちの心に宿り、この礼拝に共にいてくださるのです。そして聖霊において、御子キリストが私たちと共にいてくださり、私たちのうちに生きていてくださるのです。そして御子において、父なる神が私たちと共にいてくださるのです。それが父と子と聖霊の御名によって守られる私たちの礼拝です。

私たちは今日も、私たちの心に宿っていてくださる聖霊とともに父なる神に呼びかけます。その呼びかけに応えて、父なる神は私たちに、あなたは私の愛する子、私の心にかなうもの、私の喜びとするものと言ってくださいます。それゆえに、全世界の兄弟姉妹とともに、心からの信頼と愛と喜びをもって父なる神の子供たちとして神を愛し、互いに愛し合って生きてゆきましょう。父なる神が私たちに対する全幅の信頼を持って委ねてくださるわざを、大胆さと慎みを持って、神様の期待に応えて遂行してゆきましょう。私たちはそれを果たすことができるでしょう。父なる神は私たちを愛する全能の父として、私たちと共にいて、私たちを教え、導き、助けてくださるのです。恐れずに心から喜んで、神の戒めに従いながら生きてゆきましょう。

父と子と聖霊の御名によって。