聖日礼拝『わたしの羊を飼いなさい』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エゼキエル書34章1~16節
新約聖書 ヨハネによる福音書21章15~19節


『わたしの羊を飼いなさい』

主イエスがペトロに三度「あなたはわたしを愛するか」と問われたのに対し、ペトロが、「はい、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えると、主イエスはペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、三度それを繰り返されました。主イエスはペトロに、あなたがわたしを愛するなら、わたしの羊を飼いなさいとお命じになったのです。

「わたしの羊を飼いなさい」。羊飼いとして、牧者として、羊の世話をしなさい。

わたしたちにとって、羊飼はそれほど身近な職業ではありません。皆さんの中にひょっとしてヤギを飼った経験ならあるという方がおられるかもしれませんが、羊を飼われたことのある方はおそらくおられないでしょう。
羊飼いの務めはなんでしょうか。羊に牧草を食べさせ、水を飲ませるため、羊の群れを牧場や水場に導くこと。羊を狼や盗人などの外敵から守ること。病気や傷ついた羊を癒し、元気を回復させること。強い羊が弱い羊をいじめるなら、それをやめさせることなどです。要するに、羊に命を得させ、羊の命を守り、羊の群れを治めることだと言えるでしょう。

主イエスは「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(10:14)また「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を全て連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、他の者たちには決してついてゆかず、逃げ去る。他のものたちの声を知らないからである。」(10:4〜5)と言われました。

主イエスはこのときペトロに「わたしの羊」を飼いなさいと言われたのでした。ということは、ペトロが飼う羊は、ペトロのものではなくて、主イエスのものだということです。「羊は羊飼いを知っており、羊飼いは自分の羊を知っている」と言われるときの、羊飼いとはペトロのことではありません。主イエスです。主イエスの羊は、主イエスの声は知っているので、その声にはついて行きますが、ペトロの声ならついて行かないのです。ペトロが自分の声で羊を導こうとすれば、主イエスの羊は自分たちを導こうとするペトロのその声を聞いて、それを見知らぬ者の声として逃げて行くのです。

だとすれば、ペトロが羊飼いとして、「主イエスの羊」を導こうとしたら、羊の群れを自分の声ではなく、主イエスの声で導かなければならないということになります。では、どうしたら、それが可能でしょうか。そのためには、ペトロ自身がまず、主イエスの羊として、主イエスの声を聞く者でなければならないでしょう。そして、彼を通して、まことの羊飼いである主イエスの声が聞こえるようになるならば、そのときはじめて、主イエスの羊はついてくるでしょう。

ペトロは主から、わたしの羊を飼いなさいと言われて、羊飼いの務めを与えられました。でも、だからと言って、羊をペトロのものと考えるならば、そのとき、彼は羊飼いではなく、まことの羊飼いであるキリストの手から主の羊を奪う強盗になってしまいます。ペトロが主イエスの羊を、主イエスのために、主イエスに代わって飼うためには、ペトロ自身が主の声に導かれる主の羊の一匹とならなければなりません。自分自身が主イエスに飼われることを抜きにしては、主イエスの羊を飼うことはできないのです。

また、主イエスは羊飼いについてこうも言われました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人は狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」「わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11〜15)

主イエスがペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われるとき、あなたは、わたしの羊のために命を捨てますか、捨てる覚悟がありますかと問うておられるのです。主イエスの羊を飼うということは、狼が来たら、羊を守るために自分の命を捨てることを意味しているからです。

でも果たしてペトロに羊のために命を捨てることができるのでしょうか。ペトロは最後の夜に、主イエスのためなら命を捨てると言いながら、いざという時、主イエスを見捨て、置き去りにした人です。その主イエスを捨てたようなペトロに、羊のために命を捨てることなどできるとは思えません。

ペトロが「わたしはあなたのためなら命も捨てます」と言ったとき、主イエスはペトロに「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」と言われたのでした。18節に「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、ゆきたい所に行っていた。しかし、歳を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れてゆかれる」と言われているように、ペトロは若い頃、張り切って、自分の力で主イエスにどこまでも、命を捨てても従ってゆこうと思っていました。でも、自分の決心、信仰の力では、主イエスのために命を捨てることも、主に従うこともできませんでした。それができなかったペトロが、しかし、最後は殉教の死を遂げるようになるだろうと主イエスが言われたのです。自分では主イエスのために命を捨てることも、従うこともできなかった弱い、罪人でしかないペトロが、主に従って命を捨てることが可能にされたのは、御自身、十字架について死なれ、復活された主イエスによってでした。主イエスが、ペトロをご自身に結びつけ、ご自身の中に植え込み、ご自身の死と復活に預からせてくださることによって、初めてペトロは主に従うことも、主のために命を捨てることも可能になりました。そのことはペトロが積極的に自分からしたことではなくて、全く受け身で、主から与えられた恵みによったのです。

マタイ10:34以下にこう言われています。
自分の命を救おうとするのでなく、主イエスのために自分の命を失う者、十字架を背負って主イエスに従う者でなければ、わたしにふさわしくないと、主イエスは言われます。しかし、自分を捨てて、主イエスに従うことは、ペトロにはできなかったし、生まれながらのわたしたちにもできないことです。そうです、ペトロにしても、生まれつきのわたしたちにしても、主イエスにふさわしくないものたちなのです。
なぜなら、わたしたちは生れながらにして、自分の命を愛し、それを一番大切なものとして守り、救おうとするからです。その結果は、ペトロのように、主イエスを捨てることになります。雇い人のように羊を捨てて逃げることにならざるを得ません。

そのようなわたしたちに対して、主イエスだけは、ただ一人そうではありませんでした。主は自分の命を救おうとなさらず、命を失い、わたしたちのために命を与え、死んでくださいました。そして、その主イエスを神はよみがえらされました。主イエスの生と死は、それによって神の栄光が現される生き方、死に方です。神の愛、神がイエス・キリストを通してわたしたちを愛される愛によって、わたしたちが自分よりも、自分の命よりも、神を愛し、キリストを愛し、キリストにあって兄弟姉妹を愛するようになり、わたしたちも自分の命を兄弟姉妹のために捨てることを恐れないものたちとしていただくのです。

わたしたちを創造された神は、御子イエス・キリストを賜るほどにわたしたちを愛される神です。このお方の愛を受けて、神の子とされて父なる神を愛し、同じ神の子である他の兄弟姉妹を愛することが、まことの命、永遠の命なのです。

みなさん、わたしたちにとって、本当に人を愛することはどうしたらできるようになるでしょうか。親子でも夫婦でも、恋人同士でも、本当に愛し合えるようになるためにはどうしたら良いのでしょうか。親は自分の子供を愛するのは当然だ、自分の子なのだからと思うかもしれません。しかし、そう簡単ではないと思います。親の子供に対するネグレクト、実際問題として、子供を愛さない親、愛せない親がいます。そうでない、子供を自分の命のように熱愛する親でも、その愛には限界があります。子供は親のものでしょうか。いいえ、子供は神のもの、神が授け、神が親に託されたものに過ぎない。子も子を愛そうとする親も、神から愛されて、その愛を受けて初めて、互いに愛しあえるのです。わたしたちを創造し、愛される神とその愛を抜きにして、親であれ、子供であれ、恋人であれ、夫であれ、妻であれ、お互いから愛を要求し合うとき、そのとき、それらは偶像になります。自分を愛することもそうです。キリストの愛、神の愛を受け、自分が愛されているものであることを知らないなら、認めないなら、自分からであれ、他からであれ、愛を要求する自分は偶像になってしまいます。偶像はその中に命がないので必ず滅びます。

「わたしよりも父や母を愛するもの、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」と主イエスが何故言われるのでしょうか。この言葉は、父、母、娘、息子を偶像にしてはいけないという厳しい警告です。キリストを通してわたしたちは神から愛されているのに、その愛に目を閉ざして、父であれ、母であれ、息子、娘であれ、それを愛する愛の中に閉じこもることは、一粒の麦が、堅い殻に閉ざされて、ひと粒のままに終わることであり、そこから何も生まれない不毛な愛に終わるからです。

ペトロが、自分の命を惜しまずに捨てても主イエスの羊を愛そうとするのは、自分がまず主イエスから愛されている羊であり、兄弟姉妹もまた、自分と同じキリストに愛されている主の羊だからなのです。わたしの羊を飼い、羊のために命を捨てなさいと言われるお方は、ご自身、わたしたちのために命を捨ててくださるまことの羊飼いなのです。この方の声がわたしたちを命へと導きます。十字架にかかり、わたしたちに罪の贖いを与え、復活して永遠の命を与えてくださるお方の愛が、わたしたちをすべての危険と滅びから守るとともに、わたしたちに何をも恐れず、死すらも恐れないで愛に生きることを得させてくださるのです。

愛する兄弟姉妹、しかし、そのキリストの愛は、どのようにしてわたしたちに届いたでしょうか。目に見えないキリストの愛が今ここに生きているわたしたちのところに届けられるのは、目に見える、兄弟姉妹を通してなのです。キリストというぶどうの木の枝に連なる兄弟姉妹を通してわたしたちは、み言葉を聞き、教えられ、愛を受けました。み言葉の恵みも、キリストの愛も、罪の赦しも、それらはすべて主イエス・キリストのものですが、それは主イエス・キリストというぶどうの木から直接にではなく、ブドウの木に繋がる枝である兄弟姉妹を通してわたしたちが受けたのです。

それゆえ、今日、わたしたちにも、ペトロと同じ務めが与えられます。全員です。キリストの声に聞き従って歩む人々は、みな主イエスから愛されている主イエスの羊です。そして、主イエスの羊は、全員がお互いに対して羊飼いなのです。なぜなら、わたしたちは、兄弟姉妹を通して、主の愛を受け、主から導きを受けるからです。

わたしたちはすべてブドウの枝です。枝はそれぞれ主イエスにつながっているので、主イエスを通して他の枝とつながっています。他の枝を生かしている命、他の枝に注がれている愛と恵み、それは主の枝である自分自身を生かしている命、自分に注がれている愛と恵みと同じ、イエス・キリストの命であり、愛であり、恵みです。それゆえ、兄弟姉妹として互いを愛することは、主イエス・キリストを愛することなのです。

主イエスはペトロに言われました。わたしを愛するならわたしの羊を飼いなさい。
兄弟姉妹、主イエスの羊を愛し、それに仕えることは主イエスを愛することなのです。
主イエスは今日、わたしたちにも言われます。わたしを愛するなら、わたしの羊である兄弟姉妹を愛しなさい。主の羊である自分と、目に見える兄弟を愛することは、目に見えない主イエスを愛することに他ならないからです。

父と子と聖霊の御名によって。