聖日礼拝『別の助け主』 説教 澤 正幸牧師

聖霊の導きを求める祈りと聖書朗読 内田幸子執事
旧約聖書 詩編119編49~56節
新約聖書 ヨハネによる福音書14章15~24節

説教

執り成しの祈り 上野恵子長老

祝福


『別の助け主』
2020年5月17日
ヨハネ14章15〜24節
詩編119編49〜56節
賛美歌  130  337

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしてはおかない。あなた方のところに戻ってくる。」(18節)
主イエスは、十字架の死を前にした、最後の夜に、弟子たちにそう約束されたのでした。

「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」(19節)
主は、弟子たちのもとを去って行こうとされます。主は十字架の死を迎えられるでしょう。しかし、その死は死で終わりません。主は復活されるでしょう。それゆえ、弟子たちは永久に主イエスを失うのではありません。主は弟子たちのもとに戻ってきてくださるのです。
そのことを、主イエスは妊婦に臨む出産に喩えて次のように言われました。

「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時がきたからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。」(16章21節以下)

「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。
この言葉は、復活節の夜、ユダヤ人を恐れて家に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に、復活の主イエスが立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言われ、主が手と脇腹とをお見せになり、弟子たちが、その主を見て喜んだ、あのときに実現しました。

もし、主イエスが復活なさらなかったら、そして弟子たちのところに戻ってきてくださらなかったら、弟子たちはどうなっていたでしょうか。確かに孤児同然になっていたでしょう。しかし、主ははっきりと言われました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしてはおかない。」

孤児になるという経験は誰もがするわけではありません。でも、親を失う悲しみ、辛さ、苦しさは誰でもが想像できるのではないでしょうか。親を失えば、養ってくれる人がいない、食べさせてくれる人がいない、たちまち経済的貧困に直面するでしょう。また保護者がいない、そうなれば、社会的信用が得られず、こどもの将来の結婚や就職といった人生に大きな影響をもたらすでしょう。
そして、孤児になるとは、何より、自分を愛してくれる存在、また自分が愛する存在を失うこと、最も大切な人格的交わりの相手を失うことですが、主イエスは弟子たちを愛し、弟子たちから愛される人格的交わりの相手として生き続けてくださるのです。
「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(19節)

端的に一言で言って、主イエスがいなくなったら、弟子たちは何を失うことになったでしょう。弟子たちが孤児になるということは、何を失うことであり、主イエスが戻ってきてくださったことによって、弟子たちは何を再び得たのでしょうか。
主イエスはブドウの木の喩えでこう言われました。「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(15:5)
弟子たちにとって、主イエスを失うことは、ブドウの枝がブドウの木から離れることなのです。それは弟子たちにとって決定的なことになるでしょう。なぜなら、その結果、弟子たちは何もできなくなると言われるからです。

何もできなくなる? それは、どういう意味で何もできないのでしょう。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(15節)
この言葉は今日読んでいる箇所にあと2回繰り返されています。(21、23節)計3回繰り返されるこの言葉は、弟子たちが孤児になったら、主イエスというぶどうの木から離れることにより、何もできなくなるとはどういう意味かを浮かび上がらせるように思います。

この言葉は、復活の主イエスが、ガリラヤ湖のほとりで、ペトロに三度「あなたはわたしを愛するか」と問われて、ペトロが「はい」と答えると、「わたしの子羊を養いなさい」と言われたことに重なっています。そして、復活の主がペトロに三度「あなたはわたしを愛するか」と問いかけられたのは、主イエスが捕らえられたあの最後の夜に、主イエスのためには命を捨てますと断言していたペトロが、主イエスを三度知らないといったことに対応していました。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」、本当にそう言えるのでしょうか。口では「主を愛する、主のためには命も捨てる」と言いながら、いざとなれば主イエスを知らないと言う、かつての惨めな結末に至ることはもうないと断言できるのでしょうか。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」なぜか。
その第一の理由は、主イエスが「多く赦されたものは多く愛する。少なく赦されたものは愛することも少ない」と言われたように(ルカ7:47)ペトロは多くの罪を赦されたものとして、主イエスを愛さざるを得なくされるからです。しかし、第二の理由として、それ以上のことがあります。それは、主イエスが戻ってきてくださることにより、ペトロがみなしごになることはなく、ぶどうの木から離れることなくしっかりとつないでいただくことによってなのです。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」
この言葉は、実はぶどうの木である主イエスご自身の生き方なのです。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(15章10節)
ぶどうの木であるイエス・キリストの生き方、それは神から愛される、受け身の愛に終始する愛ではなく、ポジティブに自分の方からも、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛することを心からの喜びとする生き方であり、父を愛するゆえに、父の掟を守る生き方でした。そのような主イエスの生き方の中に、ブドウの枝がぶどうの木にしっかりと接ぎ木されるように、ペトロ自身、主イエスを愛するゆえに、主イエスの掟を、誇りとし、命とし、何よりも大切な宝とするものとしていただくようになる、それで主を愛するゆえに、主の掟を守ると言えるようになるのです。

確かに、神の愛には一方的な面があります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:10)と書いてある通りです。
しかし、神の愛は一方通行で終わるものではなく、神から愛されたものが、神を愛するようになるという面を伴っています。愛は一方通行でなく、双方が互いに愛し合うものです。
人から愛されることは喜びであり、感謝ですが、その愛に応えて自らが愛するものとされることは、愛を受けることと同じくらい、大きな喜び、感謝ではないでしょうか。自立した、自らも他者を愛する人間になるよう自分を育んでくれたこと、そこに愛の本当の深さを見出して感謝します。
わたしたちが神から愛される愛、また主イエスから受ける愛も、自らが父なる神を愛するものとしていただくことを喜び、感謝する愛、また主イエスを愛するようにされることへの喜びと感謝を伴う愛です。受け身に終始しないで、積極的に愛するものにしていただいたゆえに、いよいよ神からの愛を深く喜び、感謝するようになるのです。それゆえ、掟は喜びなのです。詩編119編の詩人が歌うように、掟を守ること、守れることは幸いなこと、誇るべきこと、生きがい、生きる意味そのものなのです。掟を守ることは、そのような幸いな生き方へとわたしたちを育んでくれた主を愛することに他ならないのです。

その掟とは何か、それはもうみなさんよくご存知でしょう。13章34節に書かれています。
主イエスはこの新しい掟を最後の夜に弟子たちにお与えになるのに先立って、一つのことをなさいました。それは、最後の晩餐の食事の席から立ち上がり、弟子たちの足を洗われたことです。そして言われたのは、「主であり、師であるわたしがあなたたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにした通りに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(13:14、15)
主イエスが足を洗ったように、あなたがたも兄弟の足を洗いなさい。主イエスが罪を赦されるように、あなたがたも兄弟を赦しなさい。主イエスが病人を癒し、悲しむものを慰め、親切にしたように、あなたがたもそうしなさい。主イエスから愛されたあなたがたは兄弟を愛しなさい。
ぶどうの木である主イエスがなさるように、ブドウの枝である弟子たちがするのは、自然なことであり、可能なことです。でも、主イエスを離れてしまえば、ブドウの木につながっていない枝が何の実も結べないように、弟子たちは何もできないのです。弟子たちが生きて、主の掟を守れるのは、自分の力によるのではなくて、実を結ばせてくれるぶどうの木、主イエスの恵みのおかげなのです。

ぶどうの木である主イエスに、弟子たちがその枝として繋がれるために、主イエスは聖霊を願い求めてくださいます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(16節)
主イエスが復活なさった夜、主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。」と言われました。聖霊は、復活された主イエスと共にこられたお方、主の復活によってもたらされた霊です。聖霊は罪と死にうち勝った復活の主イエスの栄光と勝利を携えてこられる私たちの助け手です。このお方が、わたしたちをぶどうの木である主イエスにつないでくださいます。このお方はぶどうの木である主イエスと、枝であるわたしたちを永遠に離れることなく、切り結んでくださる絆なのです。このお方を通して神の愛がわたしたちの心に注がれます。パウロはこう言っています。ローマ5章3〜5節。

また、聖霊は真理の霊と呼ばれますが、それは聖霊がわたしたちに罪からの自由を与え、(ヨハネ8:32)主イエスの掟を喜んで守って生きるよう助けてくださるお方だからです。

今日の説教をもう一度19節の御言葉に戻って締めくくりたいと思います。
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(19節)
ここで主イエスは「わたしが生きるので弟子たちはわたしを見る」と言われました。確かに弟子たちは復活の主を見ました。見なければ信じないと言ったトマスも、最後に主イエスを見ました。でも、そのとき、主はトマスに「見たから信じたのか、見ないで信じるものは幸いだ」と言われたのでした。主を見ると言うことは、弟子たちが復活の主イエスを肉の目で見たように見ることではなく、主イエスが復活して、今も生きておいでになられるお方であることを見ないで信じること、復活の主を信仰の目で見ると言うことです。

復活の主イエスが生きているので、わたしたちは主イエスを見ます。信仰の目で見ます。それは、わたしたちが聖霊によってぶどうの木である主イエスにつながれ、互いに愛し合い、喜び合うこの交わりの中に、主イエスが生きておられるのを見るということです。そして、この交わりは、父と、御子と、聖霊がわたしたちのうちに生きて、共にいてくださる永遠の命の交わりなのです。

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(23節)

主イエスはサマリアの女性にこう言われました。ヨハネ4:21以下。
サマリアのゲリジム山でもなくエルサレムのシオンの山でもないところで、霊と真理によって父を礼拝する時が来る。今日、わたしたちは父なる神と御子キリストが、散らされている群れの一人一人のところに聖霊において来てくださり、一緒に住まわれる礼拝、神が霊であるから、礼拝するものも霊と真理を持って神を礼拝すると主が言われた礼拝に預からせていただいているのです。

父と子と聖霊の御名によって。