聖日礼拝『神を試みてはならない』

説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 出エジプト記17章1〜8節
新約聖書 マタイによる福音書4章5〜7節によって

  主イエスがうけた荒れ野の試みは、最初が石をパンに変えよと言う試みでした。そして今、第二の試みが主イエスを襲います。悪魔は主イエスを神殿の屋根の端に立たせて、そこから飛び降りてみろといいました。

 最初の試みに際して、主イエスが、人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きると答えられたので、悪魔はその言葉をうけて、第二の試みでは、聖書の言葉を引いてきます。人は神の言葉によって生きると、聖書に書いてあるではないか、だったら、今、神の言葉に信頼して、神殿の屋根から深い谷底に向かって飛び降りてみるがいい、と悪魔は言いました。エルサレム神殿の外壁は、深い谷底に面してそびえたっていたので、そこからは深い谷底が見下ろせたということです。さあ、神を信じるというなら、神の子だというなら、神の約束を信じてここから飛び降りよ。そういう悪魔にたいして、主イエスは、「あなたの神である主を試みてはならない」と書いてあると言って、第一の試みの時と同じように、今度も聖書から神の言葉を引いてきて、悪魔の誘惑を斥けられました。

 主イエスは最初の試みにおいて、神の言葉に聞き従うことにこそ、人の命があると確かにそう言われました。すると、悪魔は逆手をとるように、もし、神の言葉に聞きしたがうのであれば、悪魔の要求を主イエスは拒めないはずだと言って、主イエスを攻め立てようとしました。しかし、このとき、悪魔が神殿の屋根から飛び降りろと言ったことは、本当に神の言葉に聞くことだったでしょうか。神の言葉に聞くということは、人の話を聞くときもそうですが、最後まで、相手の言葉に十分に聞くこと、その言葉を相手の人格から切り離さないこと、それゆえ、神様の言葉を、神の生きたみこころと最後まで結びつけて耳を傾けることです。

 悪魔は、主イエスに、おまえが飛び降りれば、神は必ずおまえを助けてくださると約束しておられる、だから飛び降りなさいと言います。しかし、神は、本当はそんなことは言ってはおられないのです。飛び降りるなら、あなたを救う、だから飛び降りよとは神は言われませんでした。神は御自身の救いの約束を、命令から切り離してはおられないのです。悪魔は神の言葉を持ち出しますが、悪魔が持ち出す神の約束の言葉というのは、神の生きた命令から切り離されています。ちょうど花の咲いている木から、花だけを切り取ってきて、それだけ持ってくるようにして、神の約束の言葉を神の命令から切り離された言葉として持ち出しています。悪魔は神さまのみこころから、神さまの生けるご人格から、はなれたところで、勝手に神の言葉を誤り用いようとしているのです。このような御言葉の使い方は、本当に神さまの御言葉ききしたがうことではありません。
主イエスが神の言葉に聞き従うときは、決して、中途半端に、途中で神さまのことばを遮ったり、端折ったりして、もう分かったと言った仕方で、従われるのではなく、最初から最後まで、神の生きた御心に従うなかで、その言葉に聞き従われるのです。主イエスは神の御言葉を生ける神御自身から切り離すことはなさらないのです。

 悪魔がここで生ける神から切り離された言葉を、神の言葉であるといって誤り用いて、濫用したことは、まさに神の言葉に聞くことをしない罪、神を神としない十戒の第一戒にそむく罪でした。つまり、神の言葉を誤用する、神が言ってない言葉を神の言葉だと言って、濫用して、その間違った神の言葉が実現したら、ここに生ける神がおられると言い立てるのです。しかし、そこで信じられ、礼拝される神は偽りの神です。偽って用いられる神の言葉が実現したら、大成功だ、バンザイ、神が生きていることが証明されたと言う、しかし、これは偶像礼拝です。

 この偶像礼拝の試みはわたしたちを生ける神から引き離して、悪魔とともに滅びへと連れ去ってゆく、恐ろしい試みです。わたしたちの信仰、わたしたちの礼拝、わたしたちの教会生活の中には、この試みがひそんでいます。
 神さまが必ずしも言っておられるわけではないことが、これが神の言葉なのだと勝手に受けとめられて、神が命じてもいないのに、神殿の屋根から飛び降りて、神が奇跡的に救ってくれたら神を信じると言って、神を試みためす。
 それと同じようなことをわたしたちがしようとすること、たとえば、信者の数が増える、教会が大きくなって栄える、若い人が沢山集まる、そういう盛んな教会になること、それが神の約束の言葉だと考えて、そして、それが実現すれば、神は確かに生きている、神の存在は証明された、神は信じられるという。
 しかし、そのようにして信じられたとしても、そこで信じられているのは本当の神ではない。偶像であり、偽りの神なのです。
 わたしたちの教会生活を通して信じられている神が、このような偶像である危険はいつの時代、世界中のどこの教会にとっても実に大きいのです。

 先程の旧約聖書の出エジプト記に出てきた荒れ野のイスラエルが、飲み水がないといって、渇きの中で、神を試みたとき、最終的に、果たして神はわたしたちの間におられるのかといった、もし、本当に神がおられるなら、水を与えよ。しかし、果たして、神はわたしたちとともにおられて、水を本当に与えてくださるのだろうか。そう疑う。これまでも、水はイスラエルの荒野の旅路において、なんども繰り返し与えられました。それなのに、渇くとまた疑う。その疑いはいつまでたっても消えませんでした。神が必要な水を繰り返し与えて下さったのだから、これからも必ずお与え下さるに違いないとは信じませんでした。イスラエルの民の魂の、この神を試み続ける、疑いと不信仰という渇きは、いつになっても癒されることがなかったのです。

悪魔の試みが試みたる由縁は、神は生きておられ、神はわたしたちと共にいますのに、そうです、荒れ野のイスラエルには主なる神が昼は雲の柱、夜は火の柱となって、常に共におられたのです、にもかかわらず、イスラエルの民は悪魔の唆しにあって、それを信じない。主は果たして本当にわたしたちの間におられるのかといって争う。主なる神がイスラエルと共におられるということが真理であることを認めない。そのことを根本から疑ってかかる。その神の真理と真実を否定する。そして、もし、神がいるなら、神がわたしたちから信じてもらいたければ、神御自身の方から、自分でそれを証明しなければならない、さもなければを信じられないのは当然ではないかと主張するのです。人間が納得し、満足し、認めたら、初めて神を信じられる。でも、神が自分を証明しない限りは、神は信じられない、と言う。
 神よ、人間から信じてもらいたければ、自分自身で存在証明をせよ。そう言って、人間の側から神を試し、その試験に合格したら、神を認めてやっても良い。神を信じてやろうと言う。
 しかし、これは神を信じる本当の信仰ではありません。それは神を神とすることではありません。その反対です。そこでは、神が神とされるのでなく、人間が神となっているのです。人間はことごとくこの根本的な罪、真理を逆転させた、逆立ちをしている高慢、高ぶり、不信仰の罪に陥っています。それを人間の原罪とよびます。この原罪、逆転してしまった状態から救われることは、人間が自分の力ではできないのです。この罪の中から人間を救ってくださるには、神の子が人間となってこの世に来なければなりませんでした。神を神とし、神を本当に信じることは、神がイエス・キリストにおいて人と成られたことによって、はじめて可能となり、こうして人は神によって原罪から救われたのです。

 イエス・キリストは神を試みませんでした。イエス・キリストは神の子として、どこまでも神を神とし、神を信じ、神に従われます。神を神として、どんなときにも神を信じ、神を愛するということを、イエス・キリストは生涯貫かれました。
主イエスはたとい、助けと救いを得られないときも、静かに神を信頼し続けました。神が、神の良いと思われるときに、神が良いと思われる方法で救ってくださることを信じていました。イエス・キリストにとっては御自身が神の子であること、そのことが喜びであり、それをもって常に足ることを知り、それを感謝されました。イエス・キリストは最後の最後まで、父なる神のみこころに従われました。そこにイエス・キリストの父なる神への信仰と愛がありました。

 わたしたちにとって、この主イエスの信仰と従順にあずかることがわたしたちの救いです。わたしたちは神を愛するのであって、有形、無形の自分の成功、世の成功を愛しているのではありません。わたしたちはあくまで父なる神とイエス・キリストの人格を愛し、その愛を信じているのであって、自分が立派な、誇るにたる信仰者とされることを喜んでいるのでもありません。神の子として、信仰者として貧しく、取るに足らず、何ら誇るべきものを持たない者であっても、なお、神に愛され、神の子とされていることを喜んでいるのです。わたしたちを愛して下さる父を喜んでいるのです。

 それゆえ、わたしたちは神を試みません。神が父であってくださることがわたしたちにとってはすべてにおいて十分なことだからです。神がわたしたちと共にいてくださり、わたしたちをイエス・キリストにあって愛して下さっていること以上にわたしたちは一体何を求めるでしょう。どんな大きな試練、危機、苦しみ、また死にあっても、神はイエス・キリストにあってわたしたちを愛して下さる、わたしたちの父です。わたしたちと共にいてくださり、わたしたちを離れることはありません。イエス・キリストを賜った父は、御子と共にすべてを賜らないはずがあるでしょうか。しかし、その救いの賜物がわたしたちの喜びではなく、どこまでも、神がわたしたちの生ける父であってくださり、イエス・キリストがわたしたちの生ける主、救い主であってくださることがわたしたちの喜びなのです。
 わたしたちは神に対する試みからこのように神の恵によってしっかりと守られているのです。神にそのことを心から感謝しましょう。
 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。