聖日礼拝 『愛がなければ』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エレミヤ書9章22~23節
新約聖書 コリントの信徒への手紙(1)13章1~3節


『愛がなければ』
パウロは13章のはじめの3節で、「愛がなければ」という言葉を3度繰り返します。

この「愛がなければ」という言葉は原文では「もし、私が愛を持っていないなら」となっています。英語の聖書も「持つ」という動詞 have を使ってここを訳していました。

スポーツ選手などが「持っている」という言葉を使ったりします。実力が同じ選手、チームであっても、勝敗の差がつくのは、実力に加えて何か特別な「運」といったものを持っているかどうかで、それが決まるという意味でしょう。

1〜3節には「持っている」ことがプラスとなり、それが誇りなるようなことが並んでいます。「人々の異言、天使たちの異言を語る」才能、「預言する賜物」、「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じる」知識、「山を動かすほどの完全な信仰」、「全財産」を施す決断、「わが身を死に引き渡す」殉教の志、これらは、みな「持って」いれば、それを誇り得る能力、才能、賜物です。

これを書いているパウロという人が、もともと色々なものを「持っている」人でした。
彼は自分自身のことをフィリピの信徒への手紙の3章でこう言いました。
彼は申し分のない血筋、家柄、学歴、キャリアすべてを兼ね備えていました。それを誇ろうと思えば誇れる人でした。でも、パウロは続けてこう言っています。フィリピ3:7〜9。

ここにおいても、パウロはたとい誇れるような賜物、能力、財産を「持っていた」としても、「愛を持って」いないなら何の役にも立たないし、パウロ自身に何の「益」をもたらすこともなく、むなしいと言います。

ところで、わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは何かを持っているでしょうか。パウロがかつて生粋のユダヤ人として誇りとしたような血筋、学識、キャリアは、生まれながらの異邦人である私たちには到底持ち得ないものです。では才能、財産、信仰的賜物はどうでしょうか。それもほとんどないに等しいかもしれません。

では何も持っていない、それが私たちなのでしょうか。使徒言行録3章に、エルサレム神殿の「美しの門」と呼ばれる神殿に通じる門のところで、施しを乞うていた人に、使徒ペトロとヨハネが言った言葉が書かれています。二人は生まれながらに足が不自由で、そこに座って毎日施しを乞うていた人に向かって「わたしには金銀はない。しかし、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。

わたしには金銀はない。しかし、持っているものがあるとペトロとヨハネは言いました。ナザレ人イエス・キリストの名を、わたしは持っている。
パウロもかつて持っていたもの、誇りとしていたものは、塵芥のようにすべて捨ててしまった。それはキリストを得るためだと言いました。キリストを得た、キリストを持つようになった。
わたしたちも、ペトロ、ヨハネ、パウロに倣って、わたしはキリストを持っていると言えるのでしょうか。

キリストを持つとはどういうことでしょうか。今日の聖書の箇所では、パウロは「愛を持つ」と言いました。では愛を持つとはどういうことでしょうか。
信仰についてはこう言えないでしょうか。信仰は持つことができる。信仰は持つか、持たないか、どちらかだと。希望もそうかもしれない。希望を持っているか、持っていないか、どちらかだと。では、愛も、持つか、持たないかどちらかだと言えるのでしょうか。

そもそも、愛というのは、わたしが愛を持っているとか、持っていないとか言えるものではなくて、すなわち、愛は自己完結しているものではない、愛とは他者との関係ではないでしょうか。

愛とは、相手が生きるので、わたしが生きること、反対に、わたしが生きるので相手が生かされるという関係のことを言うのだと思います。テサロニケの信徒への手紙(1)3章8節。
母親が産んだばかりの嬰児の命が、生きるか死ぬかの瀬戸際にあり、生死の境をさまよっている中から、危機を脱して命が助けられ、生き延びてくれる時、母親はそれを見てどんなに喜ぶことでしょう、赤ちゃんが生きることで、母親が生きます。摂食障害に陥ってしまった思春期の少女が、精神的危機を脱して、また笑顔を取り戻して元気になる、それをみた両親が喜んで生きてゆくようになる。そのような関係は、主なる神とわたしたちの間にあることをエゼキエル書18章31、32節の御言葉が示しています。「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良いだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」。罪人であるわたしたちが死んでゆくのでなく、翻って生きることを主は贖われ、それを喜びとなさいます。ここに主の愛があります。

それゆえに、愛を持つということは、何か持ち物のように愛を持つということではなくて、愛である神さまからの愛を受けて、神さまを喜び、愛する、そのような神さまとの生きた人格関係を持つこと、その交わりに入れられることであると言えます。

それゆえに、愛はわたしだけが持つもの、わたしだけに関わるものではないことになります。目の前の兄弟、姉妹、隣人もまた等しく神からの愛を受けており、わたしと、隣人、兄弟姉妹も同じく神に愛されるもの同士だということです。それゆえに、わたしたちはお互いを喜びとし、愛し合うのです。

ローマの信徒への手紙5章5節でパウロは、そのような神の愛をわたしたちの心に注いでくださるのは聖霊であると言っています。

みなさんは聖霊を持っておられますか。自分自身に、わたしは聖霊を持っているのだろうかと問うてみるなら、なんとお答えになりますか。パウロはこの点について容赦のない、言い方できっぱりと、「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」(ローマ8:9)と言い切ります。
聖霊を持っていないならあなたはキリストのものではないとパウロは明確に言い切っていますが、でも、聖霊は神であられます。神は全宇宙の創造者であられて、天も、天の天もその方をお入れすることはできないお方です。神である聖霊をわたしが所有することは本来不可能なことです。人間が所有できる神なら、それは偶像に過ぎなくなります。聖霊なる神は主です。わたしがキリストの霊である聖霊を持っていると言いうるのは、キリストの霊、聖霊がわたしを捉えておいでになられるからです。このお方によって私たちは所有されている、持たれているのです。そのようにして、その限りにおいて、私たちは聖霊を持つことを許されます。聖霊は全宇宙を満たしつつ、わたしたちの心のうちにも宿り、私たちの体を住まいとなさいます。こうして聖霊は私たちと共にいてくださいますし、私たちは聖霊を持つのです。その聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれて、わたしたちは愛を持つに至ります。

私たちは神から愛され、またわたしたちと等しく神に愛されている兄弟姉妹、隣人と互いに愛し合いながら、愛を追い求めて歩みます。それが、パウロが「最高の道」と呼んでいる生き方です。神とキリストの愛に捕らえられて、神と兄弟姉妹を愛する愛を追い求めてゆく道です。それを、パウロはガラテヤ書の5章で「霊の導きに従って歩む」歩みと呼んでいます。

聖霊において、キリストがわたしたちと共にいてくださり、神ご自身の愛が、わたしたちと共にあるならば、そのとき、わたしたちは「愛を持つ」のです。「愛があれば」たとい私たちは貧しくて、何一つ持たなくても、そうです、異言を語ることも、神秘に通じる知識を欠いていても、山を移すほどの信仰がなくても、十分なのです。反対にそのお方が共にいてくださることを見失い、わたしたちのうちに神の愛がないなら、私たちが全財産を貧しい人々のために使い尽くしても、殉教の血を流したとしても、それは無に等しいのです。

愛がなければ一切はむなしい。その反対は、愛さえあれば、すべては与えられているという確信です。そして、わたしたちが愛を持っていると言うことは、わたしたちが神に愛されている、神がわたしを愛してくださっていると言うことに他ならないのです。

父と子と聖霊の御名によって