聖日礼拝 『天の下の出来事にはすべて定められた時がある』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 コヘレトの言葉3章1~8節
新約聖書 ローマの信徒への手紙13章11~14節


天の下の出来事にはすべて定められた時がある

3章の1節の一行目の「時」は、二行目の「定められた時」とは原語のヘブライ語では異なる、別の言葉が使われています。最初の方の「時」というのは、ある長さを持った時間のことであるのに対して、後の方は時間でなくて、何年、何月、何日、何時、何分というように、ある定まった一点を指す、時刻をいう言葉です。

英語の聖書では最初の「時」をSeason と訳しています。シーズン、帰省のシーズンとか、お中元のシーズンというとき、また春夏秋冬の季節という場合、それには開始のとき、また終了の時があります。その間の期間のこと、シーズンという意味で最初の「時」という言葉は用いられます。それに対して、後の方の「時」は、その期間の開始の時、終わりの時を指しています。

戦争であれ、嵐であれ、始まりと終わりがあります。今日、記念している8月15日という日、これは戦争が終わった日でした。1941年12月8日に始まった戦争が、1945年8月15日に終わりました。その間、4年という長い期間にわたって続いた戦争の歳月が、この二つの定められた「時」で枠づけられています。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」というときの、出来事として取り上げられているのは、2節では、人の命、植物の命です。3節は8節の戦争と平和と結びつけて良いかもしれません。4節は試練と結びつけられるでしょう。5、6節はよくわからない面もありますが、7節は人間関係、民族や国家の関係に結びつくでしょう。こうして読んでくると、一つ考えさせられることがあります。これらの一定期間続く出来事のうち、自分で決めて始めることができ、また自分で終わらせることのできるものとそうでないものがあるということです。
生まれる時、死ぬ時を人は自分では決められません。それに対して、話すことは、口を開いて語り出すことも、口を閉ざして黙ることも、自分で決めることができます。

今日は8月15日、戦争の終結を覚える日です。では、戦争を始めることと、終わらせることは人が決めることができたのかということを考えます。
かつての戦争を経験された世代は少なくなってきましたが、私の父などからも繰り返し聞かされていたことは、戦争はある日突然始まるわけではない。少しずつ、少しずつ傾いていって、気が付いた時にはもう止められなくなっていた。手遅れになっていた。
のちの東大総長南原繁が1941年12月8日の開戦の日に詠んだ歌があります。
「人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ」

南原教授は複数の教授と計らって終戦工作をしました。けれどもその作戦は功を奏しませんでした。
1945年8月15日という日付、この日付は非常な重さを持っています。なぜなら、もし1945年3月にそれが繰り上がっていたらどうだったでしょうか。5月に繰り上がっていたら、6月だったら、いやせめて8月5日だったら、8月8日だったらどうだったのでしょうか。

遅すぎたと思える8月15日は、しかし、来たのです。その終わりは人間が決めたとも言えます。でも、人間が終わらせたというよりも、戦争を終わらせてくださったのは神様であるというべきではないでしょうか。

今日読んだ新約聖書のローマの信徒への手紙13章に、「あなた方は時を知っているのだから」という御言葉があります。
「夜は更け、日は近づいた」。夜の闇に閉ざされているときに、朝がくる、朝の光が再び訪れることを知る人は、どう生きるのでしょうか。
「だから闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身につけましょう。」御言葉はこう勧めます。

パウロが「あなた方は時を知っている」という、その時とはどういう時をさすかと言えば、それは、私たちが使徒信条で告白しますように、イエス・キリストが来られたこと、マリアから生まれて人となられたこと、十字架につけられて殺され、死んで三日目に復活されたこと、今、天におられること、やがてもう一度来られること、そのイエス・キリストの時のことです。
わたしたちはこのイエス・キリストの時を知っている、また昨日も今日もいつまでも変わらない真実をもって、今生きておられ、私たちを支配してくださっている支配のもとで、救いを完成してくださるイエス・キリストの到来を待っているものとして生きるとき、私たちはどう生きられるのでしょう。

戦争は終わる、戦争が未来永劫、ずっと続くことはない、必ず平和がもう一度来る。そのことを知っている人は、どう生きるのでしょうか。状況がどれほど絶望的であっても、闇がどれほど深く、濃かったとしても、なお希望を失わない生き方がここから始まります。

私たちは今、コロナの試練に遭っています。私たちだけではありません。世界中の全ての人が苦しんでいます。それは2020年の1月頃、中国で始まりました。未だ終わりは見えていません。終わりは来るのでしょうか。いつ来るのでしょうか。

私たちは神様の手の中で、終わりの日が定められていること、神様が良しとされる日に必ずそれを終わらせてくださることを信じます。コロナは未来永劫、永遠に続く試練ではありません。
いつそれが来るかはわかりませんけれど、それが必ず終わることを知っている人はどう生きるべきでしょうか。

第一のこと、それはコロナの終わりが来るまで、試練が続く間、現実に目をつぶってはならない、現実に私たちに迫ってきている危険、コロナによってもたらされている苦しみの中で苦しんでいる人々、悲しんでいる人々のことを自分自身のこととして悩み、苦しみ、悲しむということです。

そのような私たちをイエス・キリストが来て、慰め、励まし、助けてくださる日が来ることを信じます。
それを信じるだけでなく、イエス・キリストが終わりの日に再びおいでになることを信じるだけでなく、イエス・キリストが、今日、礼拝に私たちとともにいてくださることを信じます。その主イエスにあって、今日、互いに赦し合うこと、互いに愛し合うこと、互いに仕え合うことを始めましょう。

父と子と聖霊の御名によって。