聖日礼拝 『ユダヤ人の王イエス』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 ゼカリヤ書4章6節
新約聖書 ヨハネによる福音書19章13~22節

 

『ユダヤ人の王イエス』

罪状書き
19章20節に、「イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた」とあります。犯罪を犯した人が刑罰を受け、その刑が執行されるとき、その刑が下される理由を示すのが罪状書きです。このとき、主イエスを真ん中にして3人の受刑者に十字架刑による死刑が執行されましたが、おそらく、主イエスの他の二人の上には、強盗犯という罪状書きが掲げられていたのでしょう。それに対して、主イエスの頭上にはヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で「ユダヤ人の王」と書いてありました。
こうして、主イエスが十字架で死刑になった理由が、主イエスが「ユダヤ人の王」であるためだと言うことが、ヘブライ語でユダヤ人に向けて書かれただけでなく、主イエスに死刑を執行したローマ帝国の言葉であるラテン語と、当時の世界の共通語であるギリシャ語で全世界に公に示されたのでした。
しかし、その「ユダヤ人の王」と言うことが何を意味したかは、ユダヤ人、ローマ人、ギリシャ人それぞれにとって違っていたと思います。それはちょうど、主イエスがフィリポ・カイザリアの地方に弟子たちを連れてゆかれ、そこでペトロが信仰告白をしたときと似ていると思います。その場面がマタイ16章、マルコ8章に記されていますが、そのとき、主イエスは最初に弟子たちにこう尋ねられました。
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」。弟子たちが「洗礼者ヨハネだ、と言っています。他にエリヤだという人も、預言者の一人だという人もいます」と答えたとき、主は「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか」と問われたのでした。
かつて人々が主イエスのことを、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、預言者の一人だと言ったように、十字架につけられた主イエスを「ユダヤ人の王」と人々が呼ぶ場合も、ユダヤ人、ローマ人、ギリシャ人それぞれが、異なった意味合いでそう呼んだと思います。でも、主イエスが最後に弟子たちに「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」と問われて、ペトロが「あなたこそメシア、生ける神の子、キリストです」と信仰の告白をしたように、ユダヤ人が主イエスがユダヤ人の王であると言うことをどう思おうと、またローマ人が、さらに世界中の人々が主イエスがユダヤ人の王であることをどう考えようが、では、あなた方、主イエスを神の子、キリストと信じるあなた方にとって、主イエスがユダヤ人の王として十字架につけられたことを、どう受け止めるのか、それが今日、私たちがみ言葉を通して問われ、また、そのお方こそが救い主であると告白する信仰の告白とは何かを聞き取りたいのです。

ユダヤ人にとっての「ユダヤ人の王」イエス
まず、ユダヤ人にとって主イエスが「ユダヤ人の王」であると言うことは何を意味したでしょうか。ヨハネ福音書6章にこう言う記事があります。主イエスがガリラヤで5千人の大群衆を5つのパンと二匹の魚で養った奇跡の後、人々は主イエスをとらえて王としようとしたと書かれています。
そこで人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れてゆこうとしているのを知り、一人でまた山に退かれた。(ヨハネ6:14〜15)
群衆にとって、ユダヤ人の王とは誰であったか。自分たちにパンを食べさせ、満腹にしてくれる人がユダヤ人の王でした。群衆は主イエスにそれを要求したのです。主イエスが群衆の要求を退けるとき、群衆もまた主イエスを捨てます。最後の最後、エルサレムの群衆が主イエスを十字架につけよと叫んだとき、そしてイエスではなくバラバをと叫んだ、その声には、自分たちの要求を受け入れようとしない主イエスに対する失望と怨嗟が込められていたと言えるのではないでしょうか。

同じユダヤ人でも、群衆ではなく、民の指導者であった祭司長たちにとっては、主イエスが「ユダヤ人の王」であることは別の意味を持っていたと思います。
ピラトから「お前たちの王をわたしに十字架につけろと要求するするのか」と問われて、祭司長たち、ユダヤ人の指導者たちは、「わたしたちには、皇帝の他に王はありません」と言う、聞くひとが耳を疑うようなことばを、ピラトに向かって言ったのには、よほどの理由があってのことだったと思います。誇り高いユダヤ人である彼らが、自分たちのプライドをかなぐり捨ててまで、主イエスの死を要求した、その背後にいかなる理由があったのか。そのことをわたしたちはヨハネ福音書の11章から読み取ることができます。ラザロの甦りの奇跡の後で、多くのユダヤ人が主イエスを信じるようになったのを見た指導者層は、半ば絶望的な危機感に襲われました。
そこで、ファイリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」(12:19)
「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そしてローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(11:47〜48)
祭司長たち、当時のユダヤ人の指導者が一番恐れていたことは、イエスをこのままにしておくなら、メシアを待望するユダヤ人の反ローマ帝国の感情が燃え盛って、手がつけられなくなってしまう、そうなればローマに軍事介入の口実を与えることになって、結果として、今かろうじて大祭司を頂点とする宗教共同体としての自治と存続を許されているユダヤ民族が、神殿も、土地も、宗教共同体としての自治も存続も、いっさいを失うことになると言うことでした。そのような熱狂主義の芽は絶対に摘まねばならない、主イエスがユダヤ人の王であると主張することは、危険極まりない火遊びだとユダヤ人を指導する立場にある彼らは考えたのです。ユダヤ人の指導者にとって、主イエスがユダヤ人の王だと言うことは、あくまで本人がそう自称したに過ぎず、ユダヤ民族に滅亡をもたらす危険な幻想でした。

ローマ帝国にとっての「ユダヤ人の王」イエス
次に見たいのは主イエスを死刑にした総督ピラトにとって、主イエスがユダヤ人の王であることは何を意味したかということです。ユダヤ人の指導者たちが主イエスを危険な人物であるみなしたのに対して、ローマ帝国は主イエスをどう見たのでしょうか。ピラトほどの熟練の政治家であれば、すべての弟子から見捨てられるような主イエスが、ローマ帝国にとって政治的に危険な人物であるかどうか、客観的に判断できたはずでした。また、ピラトは自分の政治的立場を危うくするような厄介な事件には極力関わるまいとしたはずであり、ユダヤ人の宗教に関しては不介入の立場をとり、またユダヤ人内部の勢力争いにも巻き込まれないように日頃から注意していたと思います。それなのに、そのピラトが最終的に自分が望まない裁判へと追い込まれてゆきました。
聖書は、主イエスに最終的に死刑判決を下した裁判が、ローマ帝国の公式な、正規の法廷における裁判だったと記しています。敷石という場所で、過越祭の準備の日、すなわち金曜日の正午に、ローマ帝国のれっきとした裁判官がローマの法に従って死刑を言い渡しました。その理由は、主イエスがユダヤ人の王である以上、ローマ帝国は皇帝以外の王を認めることはできないゆえに、主イエスを死刑に処するというものでした。カイザルは自分と並び立つ王を、それが主イエスであろうと断じて認めることはできないと言うことでした。これは鉄のように厳しい掟であり、ローマ帝国の厚くて重い鉄のような扉でした。

全世界に伝えられた福音
さて、このこと、すなわちローマ帝国の法のもとで、ユダヤ人の王として主イエスが死刑になったことが、ギリシャ語によって全世界に伝えられます。最初、罪状書きにギリシャ語でユダヤ人のイエスと書かせたのはピラトでした。しかし、その同じギリシャ語は、今、わたしたちが読んでいる新約聖書を記す言語として用いられ、今やその聖書が全世界の言語に翻訳されて、文字通り全ての言語、民族、国民がこの出来事を聞くに至りました。そして、東の果ての島国に住むわたしたちにまでそれが伝えられたのです。
新約聖書を書いた人々は、主イエスをキリスト、救い主と信じた弟子たちです。フィリポ・カイザリアで、主イエスから最後に「あなたたちはわたしを何者だというのか」と問われて、「あなたこそメシア、生ける神の子です」と告白した弟子たちが、十字架につけられた主イエスをユダヤ人の王と告白する信仰の告白として、そのことをわたしたちに伝えているのです。
そして、この信仰告白は、フィリポ・カイザリアでペトロが信仰を告白したときに、主イエスが「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16:17)と言われたように、上からの告白、神から示された啓示であり、聖霊によって与えられる信仰の告白なのです。ユダヤ人の群衆も指導者も、主イエスのユダヤ人の王であることの意味を下からしか考えませんでした。ローマ帝国の総督も同じでした。しかし、聖書を通してわたしたちは、この信仰の告白を上から、神から受けた信仰の告白として受け取るのです。
ゼカリヤ書の御言葉に「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(4:6)と言われているように、主イエスがユダヤ人の王であるのは、武力によりません。権力にもよりません。主イエスは武力でローマ帝国の支配を打ち倒す王でもなければ、地上の権力を追い求め、権力によって人を支配する王でもないのです。主イエスの王権はこの世から、下から、人々から受けるものではなくて、上から、神から受けるのです。
主イエスが王であるのはただ神の霊によってです。パウロは言います。「御子は、肉によれば、ダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:3〜4)
主イエスは十字架の死によって罪の赦しを勝ち取ってくださる王、復活してわたしたちを罪の支配から自由にし、霊であられる神に向けて、永遠の命へと解き放ってくださる王として立てられました。主イエスは、わたしたちを神と和解させる平和の王です。霊によって、わたしたちの良心を自由にし、サタンの力も死の力も恐れずに、神と人に愛をもって仕えてゆく命へと導いてくださる王なのです。

今日の説教の最後に考えたいことは、わたしたち日本に生きているものにとって、このお方、ユダヤ人の王である主イエスが、神の子であると言うことが、東の果ての島国に住む私たちにとって何を意味するのかということです。
この知らせ、神が武力によらず、権力によらず、ただ霊によって立てられたイエス・キリストこそ真の王イであるとの福音が日本に入ってきたのは16世紀のことでした。そのあと長いキリシタン禁教の鎖国の時代が続き、ようやく幕末に再び宣教師がやってくるようになりました。その宣教師の到来を待っていたかのように、隠れていた浦上のキリシタンが姿を現したとき、明治政府は浦上一帯のキリシタンを捕えて3千人の住民を全国に島流しにしました。それが浦上4番崩れと呼ばれる迫害、キリシタン弾圧の事件です。それに関わったのは沢宣嘉や木戸考允と言った明治新政府の高官たちでした。全国に島流しになった浦上のキリシタンの中で、最も信仰の固い、指導的信徒たちは山口の津和野藩に預けられたといいます。そこに神道国教主義者であった福羽美鈴という人がいて、キリシタンの無学な農民などすぐにでも改宗させてみせるといって、進んでその人々を預かったということです。
こうして、津和野に連行された163名のうち、心ならずも改宗して浦上に戻ったものが約半数、最後まで信仰を捨てなかったものが半数いましたが、そのうち36名が殉教の死を遂げてついに浦上に戻ることがありませんでした。
先ほどローマ帝国は皇帝カイザル以外に王は認められないという理由で主イエスを十字架につけたということを聞きました。主イエスが王であるなら、ローマ帝国では生きていることができないのです。それと同じ理由で、イエス・キリストの神が日本の国で、唯一の救い主であると告白すること、日本の神々や他の宗教では救われることはできないとの信仰を言い表すことは、死をもって罰せられたのです。しかし、その死は無駄ではありませんでした。今、津和野には、その地で殉教の死を遂げた浦上キリシタンの墓があり、そこにヨハネ福音書の御言葉が刻まれています。
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)

この死は多くの実を結んだのです。この地の迫害がきっかけとなり、欧米を回っていた岩倉具視たちの視察団に対して世界中で巻き起こった抗議運動、明治政府に対して信教の自由を認めるように要求する世界の声が、ついに1873年のキリシタン禁制の高札撤去をもたらしたのです。このお方こそ日本人にとっても、またこのお方のみが、全世界の王として、日本人の、真実な王であると言う信仰告白と証が、日本でも津和野の地において浦上のキリシタンによって立てられるに至ったのです。

最後に、主イエスが「ユダヤ人」の王であると言う、「ユダヤ人」であると言うことの意味に心を向けたいと思います。
ユダヤ人は紀元70年にローマ帝国に滅ぼされたのち長い間、国を失い、世界中に離散させられた民として生きてきました。特に第二次世界大戦の時には600万人が収容所で殺されるという悲劇を経験させられた人々、それがユダヤ人です。主イエスがユダヤ人の王と呼ばれるのは、そのような悲劇の民であるユダヤ人の王であられると言う意味です。

神が主イエスを十字架につけられたのは、それにより、愛する御子を無力で、悲惨な、苦しみと弱さの中に死んでゆく多くの人々、それはまさにアウシュビッツで死んでいったユダヤ人がそうでしたし、ユダヤ人だけでなく、今日、世界中の難民となっている多くの人々たちが、悲惨の中に生き、また死んでいっていますが、神は御子をそれらの人々の一人として数えられることによって、ご自身が、それらの無力な人々の神であり、父であり、味方であることをあらわしておられます。

日本に生きるキリスト者であるわたしたちも、そのような意味でのユダヤ人、難民の一人、地上に都を持たない、旅人、寄留者として、ユダヤ人や難民に連帯する者たちです。しかし、そのような私たちに、頼るべき王、ユダヤ人の王イエスがいます。全世界の貧しい、悲惨なユダヤ人たちの王、私たちを神に向けて真実に生かしてくださる王がいます。

父と子と聖霊の御名によって。