聖日礼拝 『わたしの国はこの世のものではない』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇146編1~10節
新約聖書 ヨハネによる福音書18章28~38節


『わたしの国はこの世のものではない』

地上の権威に服従しなさい
主イエスはポンテオ・ピラトによって裁かれました。先週、わたしたちはペトロの第一の手紙2章13節の御言葉によって、こう勧められているのを聞きました。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者の皇帝であろうと、あるいは、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」。クリスチャンであるわたしたち、主イエスを信じる者たちが、この世の統治者である皇帝や総督に服従するようにと聖書が勧める根拠は、「主のために」、「主のゆえに」と言われるのは、主イエス・キリストご自身が、皇帝や総督の権威に服従なさった、それゆえに、あなたがたも主イエスにならって彼らに服従しなさいと言うことなのです。そして、今日、わたしたちはそのこと、すなわち、主イエスがローマ皇帝からユダヤに派遣された総督ポンテオ・ピラトに服従し、その裁きに服したことを読もうとしています。

しかし、先週も申し上げましたが、主であるお方、王の王、主の主であられるお方が、地上の権威に服従するということは、本来、信じられないような驚くべきことです。皇帝も総督も冠を捧げて服従すべきお方は、この主なるキリストだからです。どうして、神の御子がご自身を低くして地上の権威に服従なさるのでしょうか。主イエスは「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われ、すべての人の僕となられましたが、その自らを低くして服従する姿勢は、政治的権威である皇帝や総督に対しても貫かれたのです。

この驚くべき逆転をどう理解し、受け止めたら良いかについて、先週の説教では一つのたとえを申し上げました。こういうたとえでした。
わたしたちが教師として教壇に立って生徒を教えるとする。そのとき、教室の生徒の席に、例えば自分の恩師のような、自分よりはるかに権威のある人が座ったなら、わたしたちはどうするでしょうか。

ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ
総督ピラトが裁判官として主イエスを裁いた、この裁判はどのようなものだったかを見てみましょう。28節。
ユダヤ人の指導者たちが官邸に主イエスを連行してきます。主イエスをピラトの前で告発し、訴え出るためです。しかし、ユダヤ人たちは官邸の入り口まで来ますが、中に入ろうとしないので、ピラトは官邸の中から出てきます。裁判官のピラトが呼び出された形です。
29〜32節。ユダヤ人がどういう罪で主イエスを訴え出ようとするのか、ピラトには薄々予想がついたと思われます。裁判は、強盗や殺人といった犯罪が犯された場合、犯人を被告として裁きますが、主イエスにそんな犯罪を犯す可能性は皆無でした。ついで、ユダヤ人の間での宗教上の争いが起こり、その解決がはかられなければならない場合があり得たでしょうが、それはローマ総督の裁判の管轄外のことであり、ピラトの関わることではありませんから、そのような訴えは門前払いをするほかありません。ですから、このときユダヤ人が主イエスをローマ総督ポンテオ・ピラトに訴え出て、裁判を求める理由が、今言った二つの理由なら、この裁判は成り立たないでしょうから、それ以外の理由があったに違いないのです。それは、政治的理由でした。主イエスが、自分がユダヤ人の王と主張するとしたら、それはローマ帝国に対しての国家反逆罪、反乱罪になりえます。ローマ帝国としては放ってはおけないはずです。

しかし、ピラトはしたたかな、政治家でしたから、ユダヤ人が主イエスを国家反逆罪で訴え出ても、客観的にみて、主イエスが本当に政治的に危険な人物かどうか、ピラトは容易に判断できたはずでした。
33〜35節。「お前がユダヤ人の王なのか」。お前が? 拍子抜けしたような響きが込められています。 この裁判が行われたのは明け方であったと28節にあります。その朝が明ける前、夜明けを告げる鶏が鳴いたとき、何が起こったでしょうか。27節にある通りです。今、ピラトの前に立っておられる主イエスは、最後の一人の弟子までもが立ち去ってしまい、一人も従うもののない状態でした。そんな王が果たしているでしょうか。そんな人物がローマ帝国にとって一体何ほどの脅威でしょうか。

そこでピラトは改めて主イエスに尋ねます。お前は一体何をしたのか?
主イエスはお答えになります。36〜37a  
37節の問答はマルコによる福音書15章2節と同じです。
ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
この主イエスのお答えの仕方は、質問をはぐらかしているかのように思われても仕方がないような翻訳になっていますが、ここでの真意は何でしょう。
あなたは、わたしが王だと言っている。では聞こう、あなたは皇帝の派遣した総督として、皇帝こそ王だというのではないか。では、皇帝が王なのはどうしてなのか。何をもって皇帝は自分が王だというのか。それは自分以外のものが王であることを主張することを認めないことによってではないのか。自分がナンバー1であって、ナンバー2であることを認めないこと、それが自分は王であるということではないのか。自分以外のものが王であることを認めたら、自分が王であるとは言えなくなる。
そのために王権を主張する王は、実力に訴えて、自分と並び立つものを滅ぼそうとします。

しかし、主イエスがユダヤ人の王であると言うことはどう言うことでしょうか。
主イエスが36節で「わたしの国は、この世には属していない」と言われるとき、この世に属する王が、今申し上げたような意味で、自分に並び立つライバルの存在を認めず、実力で自分の王権を確保する、そのようなあり方が、この世の王、この世に属する王権のあり方ですが、主イエスが王であられるというのは、そのようなこの世の王の王権とは違うという意味です。
主イエスは王です。しかし、主イエスがユダヤ人の王であられると言うことは、その王権が下から、ユダヤ人から、また自分の武力、政治力によって与えられるものではないのです。主イエスが王である、その王権は神から、上から、霊によって与えられるものなのです。
この王は真理によって支配される王なのです。

真理に属する人は皆、わたしの声を聞く
37b〜38節 「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世にきた。」
真理とは神様のことです。
これを聞くとピラトは「真理とは何か」と嘯くように言いました。でも真理とは「何か」ではなく、「誰か、どなたか」と問うべきなのです。真理は生きた人格であるお方、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われる、主イエス・キリストが真理であり、主イエスが導いてくださる父なる神が真理であり、その父と御子が送ってくださる助け主なる聖霊が真理であり、その父・子・聖霊なる神に聞き従うことが真理なのです。

ピラトはその真理であるお方に聞き従ったでしょうか。そうではありませんでした。それを聖書は伝えています。
この後、ピラトの裁判は次のように展開しました。ピラトは主イエスがいわゆる犯罪を犯していないことを認めます。さらに、主イエスは、ユダヤ人が訴え出ているような、ローマ帝国の転覆をはかる政治的脅威でもないことを認めて、主イエスを釈放しようと努めます。しかし、彼は最後に、ユダヤ人の脅迫に屈して、罪のない人を死刑にすることを認めてしまいました。自分自身の保身をはかるために、ピラトは自らの良心に反して、正しいお方を十字架の死に渡したのです。

32節の言葉は、12章31節と結びついています。主イエスの裁判においてだれが裁かれたのか。主イエスではありませんでした。主イエスを裁いた地上の権威が裁かれたのでした。
皇帝も総督も、主イエスを王と認め、この王に従うこと、この王を真理の王として認め、真理に聞き従うことによって、自分の王権を否定されるのではなく、かえってそれによって自らの権威が神から立てられた権威であることが本当に明らかになってゆくのです。

わたしたちもまた、この国の政治的権威に服従します。それは、わたしたちの証を通して地上の王たち、政治的権威が、真理の王であられるお方の声を聞き、彼らもまた真理の王である、王の王、主の主に聞き従うようになるためなのです。

父と子と聖霊の御名によって。