聖日礼拝『預言者に働きかける霊』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エレミヤ書23章21〜29節
新約聖書 コリントの信徒への手紙(1)14章26〜40節


『預言者に働きかける霊』

聖書は書かれた状況と前後の文脈を離れて読むと危険である
今日読んでいる聖書に、信仰者であっても躓きを覚えるような箇所があります。信仰を持たない人なら、なおさら、反発するかもしれません。34節の言葉は、教会において女性教職、女性が牧師になることを禁じる根拠とされる場合もあります。
しかし、一般に語られる言葉にせよ、書かれる文書の中に出てくる言葉にせよ、皆同じですが、聖書の言葉もまた、その言葉が発された状況や、発言の前後の脈絡から切り離して、それだけ取り出すことは、本来、その言葉が持っている真意とはまったく別の意味で受け取られてしまう危険を生みます。それを語った本人、その言葉を記した本人にしてみれば、全くの誤解としか言えない受け止められ方がされる場合があります。
そうならないためには、冷静に、落ち着いて前後の脈絡を確かめながら、その言葉が持っている本来の意味を正しく読み取るように努めなければなりません。そうすることによって、相手が本当に言いたかったことを正しく理解したなら、そこに込められている大切な意味や教えを発見できるかもしれません。そうしないで、いたずらに感情的に反発し、また教会の外の一般の人が誤解しかねないから、いっそ、このような箇所は聖書から削除すべきだと考えるなら、聖書が語ろうとしている大事な真理に耳を傾け損なうことになってしまいます。

丹念に文脈を追って読む
26節.パウロはコリント教会の礼拝で具体的に起こっていた問題について、これまで述べてきました。その問題というのは、礼拝における「霊的賜物」に関わる問題でした。26節でも「あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが」とありますが、これらは礼拝で歌ったり、教えたりする、賛美や教えに関することで、それらはみな「聖霊の賜物」の現れとして行われます。
「詩編の歌」を例にとってみましょう。これは私たちが礼拝で声を合わせる賛美歌とは違っていて、いわば即興で、聖霊に感じて歌う歌のことだと言われています。それについて、ある注解者が大変面白いことを書いていました。旧約聖書の出エジプト記15章21節に「ミリアムの歌」が出てきます。エジプトを脱出したイスラエルが紅海を渡ったとき、タンバリンを手にした女たちがミリアムを先頭に歌った歌、それが「ミリアムの歌」と呼ばれる、聖書で最も古い、最初の賛美歌ですが、これは「彼女がその数日前に作詞、作曲して用意しておいた歌をそこで歌ったのではない」と。そのとき、その場で、感動して歌った賛美の歌です。
そういう即興の歌を、今日の礼拝において、誰かが、聖霊に満たされて突然歌い出したらどうでしょうか。私たちだったら、礼拝順序の中にもなかった歌が、突然、私たちは前もって知らされないで、歌ったこともない、だから一緒に歌うこともできない賛美歌として賛美されることを喜ぶでしょうか。たとい、それが聖霊の賜物の現れだと言われたとしても。
教えに関しても、同じような問題があります。27節。異言というのは聖霊に満たされた人が、理解できない言葉を語ることです。「二人かせいぜい三人が順番に語り」と言われています。ということはそれ以上、五人も六人も、我も我もと言って異言が語られたらどうでしょうか。「順番に」ということは、それがいっぺんに語られたらどうなるのでしょう。さらに「一人に解釈させなさい」ということは、解釈する者がいなければ、わけもわからない言葉を延々と聞かされて、それが語られっぱなしで終わり、結局何が語られたかわからないで終わるなら、他の人たちはあっけにとられるだけでしょう。異言は聖霊の現れだからそれで良いのだと果たして言えるでしょうか。
29節.預言というのは、理解できない言葉を語るのではない点で異言とは違います。その場合でも、二、三人が限度で、長々と、次々と語られたのではどうしようもないし、それがまさかいっぺんに話すようなめちゃくちゃは許されることではありませんから、せいぜい、二、三人が交代で話すことになります。問題はむしろ、そのような形式上の無秩序より、内容上のことです。預言する人が本当に聖霊の語らせるままに御言葉を語っているかどうか、その内容が検討され、吟味されなければなりません。
異言であれ、預言であれ、ここでは主の御言葉が解き明かされ、教えられるのですが、そこには共通したことが言われています。順番に語ること、必要な時は黙ること、語られたことが後から解釈されたり、吟味を受けたりすることです。これはマナーとして、また常識として当然と言えば当然のことです。しかし、最大の理由は別のところにあると思います。それは、異言や預言が「聖霊の賜物」だと言われる、その賜物を与える聖霊ご自身が、順番を守り、必要な時には黙り、自分から語らず、キリストから聞いたことだけを語られる方として、キリストと父なる神の前で自ら申し開きをなさるお方だからです。
もし、自分は聖霊に迫られて語るのだ、だから黙ることはできない、私が真っ先に語らなければならない、待てないと主張する人がいるなら、そして、それがために礼拝が混乱しても仕方がないというなら、また、わたしは聖霊によって語っているのだから、その内容について責任を負われるのは聖霊であってわたしではないと言うとしたら、そもそもその人に預言や異言の賜物を与えられる聖霊が、ご自身黙るし、人に順番を譲るし、自分の語ることを絶対化はしないお方なのですから、その人は聖霊に聞き従っているとは言えなくなるでしょう。
33節.神は無秩序の神ではなく、平和の神です。礼拝において人々が騒々しく、無秩序で、互いに言い争ったりするなら、たといその人々が自分は聖霊によって語っているのだ、賛美の声を上げているのだと主張しても、それは、聖霊の導きに従っているとは言えないのです。神は平和の神であり、それゆえ、聖霊によって導かれる礼拝には、本来、静かな喜びと平和が満ちているはずなのです。聖霊は語ることよりも聞くことを喜びとするお方、黙って、他者に耳を傾け、他者である父なる神とキリストとわたしたちを喜ぶお方なのです。

パウロはここで何を命じているのか
34節.黙っていなさいと命令されているのは、それゆえに、婦人たちだけではありませんでした。異言を語るものも、預言をする者にもパウロは黙りなさいと命じています。そしてそれは聖霊が黙るお方だからなのです。黙ることなしに、キリストに聞くことができるでしょうか。聞くことなしに、正しく語ることができるでしょうか。
「婦人たちには語ることが許されていません」とありますが、11章5節では、同じパウロが、はっきりと女性でも公の礼拝で祈り、預言することを認めています。ですから、ここで黙っていなさいと婦人たちに命じられているとしても、すべての婦人が礼拝で沈黙を命じられているのでもありませんでした。パウロはそれゆえ、女性が教えること、牧師となることを禁止していると言うのは間違いだと思います。
ところで「婦人」と訳される言葉は「女性」とも訳せますし、「妻」とも訳することができます。35節に「夫」という言葉が出てきますから、ここは「妻」と訳すべきではないでしょうか。そうなってくると、女性の信者の中には、結婚していない女性もいますし、また夫が信者でない女性もいますから、ここで問題となっているのは、すべての女性とは言えない、ある限定された女性ではないかと言うことになります。すなわち、ここでは信者である夫を持つ、信者である妻に関して言われていると受け取れます。信者である夫を持つ妻が、公の場であからさまに夫に反論したり、夫を無視するような発言をすれば、それは家庭内の不一致をそのまま教会に持ち込むことにならないでしょうか。妻が、あるいは夫もそうかもしれませんが、何かを発言するのであれば、二人がまず家庭内できちんと語り合ってから発言すべきであり、それまでは黙っているべきであることは当然だと思います。それは教会の平和に関わることです。

何のための説教か
私たちの教会は2021年度の目標の一つとして、牧師の交代に向けて、次の牧師を招聘するための準備にかかるということを掲げて、すでに半年が経ちました。その意味では、29節の御言葉は非常に重要なことを教えています。主なる神の御言葉を取り次いで語る説教者として、二人または三人の候補が立てられ、それを他の者が検討すると言うのは、まさに牧師の選考、招聘の作業そのものだからです。
説教者はその語る説教について「検討」を受けなければなりません。牧師は説教を聖霊によって語らなければなりませんが、その語られた説教が本当に神の言葉に適っているかどうかについて、検討が必要です。「検討」というのは、原語では「ディアクリネイン」、よくよく「クリネイン」される、すなわち裁かれる、吟味される、判断されるということです。誰によって? まず仲間の牧師たち、教師たちが審査します。それが中会の審査です。次に長老たちが「検討」します。それが小会による審査です。そして、最後に教会の会衆が審査します。それが教会総会における招聘決議です。そのように中会、小会、教会総会と何段階にも重ねられる審査、検討、判断があります。それに加えて、聖霊により「検討」「吟味」されることがあります。すなわち、聖霊が自分から語らず、聞いたままを語るように、説教者も自分の考えを語らず、ひたすらキリストに、聖書の語ることに耳を傾けるかどうかが、聖霊による吟味であり、審査です。また、説教者は自分で自分を審査します。自己吟味をします。自分で自分を検討できない説教者は説教者としての資格を欠いています。
実際に中会で新しい教師を試験するとき、長年、経験を積んできた先輩教職たちが新しい教師候補者の説教に黙って耳を傾けます。そのとき、先輩教職たちが、それぞれに黙って聖霊に耳を傾けて聴き続けてきた賜物を持って、教師候補者の説教を審査すれば、その人がみ言葉の説教者としてふさわしいかどうかは自ずと判断できます。
その意味において、新しく教会に牧師が招聘される時、その候補が説教者としてふさわしいかどうかを最もよく検討し、判断し、吟味する賜物を誰が持っていると言えば、それは主のみことばに長年耳を傾け続けてきた信仰者であり、会衆なのです。
14章最後の言葉は、教会規則の冒頭に掲げられる御言葉です。「適切」というのは、原語では「美しい形」という言葉で、「秩序正しく」は、これも原語では「順番に」という意味です。牧師にも順番があるのです。牧師の交代は、順番が回って、次の牧師がくるということです。そこには本来、聖霊による静かで、平和で、喜びと感謝に満ちた導きがあるのです。

父と子と聖霊の御名によって。