聖日礼拝『聖霊によって導かれる者』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記2章7節
新約聖書 ローマの信徒への手紙8章14〜16節


『聖霊によって導かれる者』

聖霊というお方を知っているか
19世紀のイギリスに、スポルジョンという有名な説教者がいました。この人がある書物にこういうことを書いていました。あなたは父なる神を知っていますか。また、あなたはイエス・キリストを知っていますか。そう問われたなら、父なる神について、知っている、単に知識をもっているだけでなく、父なる神を信じ、このお方を愛し、父なる神に祈るという仕方で、人格的に知っている、生きた交わりの中で知っていると答える人が多くいるでしょう。イエス・キリストについてはなおさらでしょう。2000年前、ナザレのイエスとして地上を歩まれたお方を知っている以上に、今も、復活して、天に昇られ、御父の右の座にいます生ける主として信じ、愛し、このお方との交わりの中にあることを喜びとしている、そのようなお方として知っています。
では、あなたは、聖霊についてはどうですか。あなたが父なる神を、またイエス・キリストを信じ、愛し、その方を人格的に知って、深い交わりをもっているように、聖霊というお方についても、そのお方を深く知っており、信じており、愛している、そのお方との生きた交わりの中に生きていると言えますか、そう問われたときに、どう答えることができるでしょうか。
スポルジョンは言います。あなたは聖霊なるお方を知っていますか。誰々さんを知っていますというように、聖霊を知っているでしょうか。そのお方の性格、考え方、行動の仕方を熟知しているとは言えないのではないか、残念ながら、聖霊というお方をよくは知らない、クリスチャンとして長く生きてきた人であっても、聖霊について深い知識をもっていない人は少なくないと。
わたしたちは先々週、ペンテコステの礼拝を守り、主なる神の「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル3:1)という預言の言葉が成就する日が来たということを聞きました。今朝、わたしたちは改めてみ言葉によって、聖霊というお方を知るものとされたいと思います。御言葉が聖霊について教える教えをご一緒に聞きましょう。

大文字と小文字の霊
今日読んでいるローマの信徒への手紙の8章16節に、「霊」という言葉が2度出てきます。最初の「この霊こそは」とある、「この霊」とは聖霊、神の霊のことです。2度目の霊は、「わたしたちの霊」、人間の霊です。英語で書けば、前の霊は大文字で書かれるSpirit 後の霊は小文字で書かれるspiritです。
パウロがこの二つを意識して、区別していることがわかる聖書の箇所があります。ガラテヤ書6:18を見ると「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」と書かれています。フィリピの手紙の最後4:23も同じ言葉になっています。
大文字で書かれる神の霊と小文字で書かれるわたしたち人間の霊が区別され、対比されますが、その二つの間には関係があります。旧約聖書が書かれたヘブライ語でも、新約聖書が書かれたギリシャ語でも、「霊」という言葉がもともと「息」とか「風」いう意味の言葉であることを聞かれたことがおありでしょうか。先ほど読まれた創世記2章7節で、主なる神がアダムの鼻に命の息を吹きいれられたとありましたが、神の息、神の霊が人に吹き込まれて、人の命の息、人間の霊になるのです。
わたしたちが今、生きているということは、息をしている、呼吸をしていることであり、息をすることをやめるときは死ぬときです。わたしたちは今日も皆マスクをして礼拝を守っていますが、今はとても息苦しい時代です。それは人が吐く息を通して、コロナウイルスの感染が起こることを警戒しなければならないからです。それで、わたしたちは自由に呼吸ができなくなってしまいました。そもそも、高山に登ったりして酸素が薄ければ、それこそ水中に潜って、酸素が全くなくなったら、息は続きませんから、人は生きられないわけですが、神わたしたち人間は、神の息である神の霊がわたしたちを包んでいるからこそ、命の呼吸をすることができるのです。神の息である、神の霊がわたしたちを包むことがないなら、わたしたちは霊的酸欠状態になるでしょう。

神の霊は、神の深みさえ究める
聖書で、霊は息であり、わたしたちの命に関わるものだということを申しましたが、さらに大事なことを教える御言葉があります。コリントの信徒への手紙(1)2章10節、11節です。神の霊は、神の深みさえも究め、神のうちにある一切のことを明らかに示すと言われています。それゆえ、わたしたちは神の霊によらなければ霊的酸欠状態になって生きることが困難になると申しましたが、それだけではありません。神の霊によって、神はわたしたちにご自身の最も深い思い、みこころを打ち明けてくださるのです。その神の深い、隠されていた思い、それが神の霊によって明らかにされるのです。それは光に照らされるのに等しいと言えるでしょう。裏返せば、神の霊が神の深い思いと、御心を明らかに示してくださらないなら、わたしたちは暗闇の中に留まらざるを得ないのです。では、神の霊が明らかにされるその御心とは何でしょうか。それは、神が私たちの父となり、わたしたちをご自身の愛する子として受け入れてくださるということに他なりません。主イエスがヨルダン川で洗礼をお受けになり、水から上がられたとき、天が開け、聖霊が鳩のように主イエスの上に降りました。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神の声が、天から響いたのでした。そのことが、聖霊を通して、わたしたちにも明らかに示されるのです。それが今日読んでいる、15節、16節において語られている「聖霊を通して、神がわたしたちを神の子としてくださる」ということの意味です。

神の霊とわたしたちの霊
聖霊というお方について深く知ってゆくために、皆さんに一つ質問をします。15節に「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。「この霊」とは聖霊、神の霊、それゆえ大文字のSpiritですが、では、「アバ、父よ」と呼ぶのは、大文字の霊でしょうか、小文字の霊でしょうか、「アバ、父よ」と神に呼びかけているのは人間の霊、わたしたちの霊でしょうか、それとも神の霊、聖霊がそう呼びかけているのでしょうか。
質問に答えられない方があるかもしれません。それはきっと、質問の意味が掴めないからだと思うので、同じ質問なのですが、別の箇所からそれを考えてみたいと思います。それは
コリントの信徒への手紙(1)12章3節です。「イエスは主である」という信仰の告白は、聖霊によらなければ告白できないと言われていますが、その信仰を告白しているのは、聖霊でしょうか、わたしたち人間でしょうか。

答えを出す前に、ヒントとなればと思ってエピソードをおはなししたいと思います。
わたしの兄は牧師をしていましたが、若干49歳の若さで、惜しまれながら亡くなってゆきました。その最後の別れのことを父がこう記しています。
「3月25日、彼の意識がまだあった最後の日に、私に会いたいと言うので、病室に入ると、何とも言えない痛切な声で『お父さん、お父さん、お父さん』と数回呼んだ。それはどう言う意味であったのか。『後を頼みます』とも、『お先に行ってごめんなさい』とも取れなくもない。でもそれだけではなくて、『お先に行って待っていますから、心配しないで来てくださいね』と言う意味だと思いたい。」

兄に「お父さん、お父さん、お父さん」と呼ばせたのは、父が病室に入ってきた、その父の存在だったと思います。会いたいのに、会えない、その中から父の名を呼ぶと言う場合もあるかもしれませんが、父がそばに来てくれた、その父の存在が、父への呼びかけを呼び起こしたのです。

先ほどの質問に対するわたしの答えは、「アバ、父よ」と呼びかけるのは、わたしたち人間だと思います。聖霊は、その呼びかけを呼び起こす、神の臨在をもたらされるお方だと思います。聖霊はむしろ、神さまからの語りかけの言葉そのものです。主イエスがヨルダン川で洗礼をお受けになった時に天から響いた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」との語りかけが、聖霊の、また聖霊を通しての神のみ声ではないでしょうか。そのみ声にわたしたちは答えて、神さまに「アバ、父よ」と応答するのだと思います。

このこととの関連で、聖霊というお方についてさらに深く知ってゆくために、聖書をもう一箇所読みたいと思います。コリントの信徒への手紙(1)14章14〜19節です。コリントの教会の礼拝で異言を語る人たちがいたようです。パウロは17節以下で言っていますが、教会で大事なことは「他の人が造り上げられること」であって、兄弟の建徳に役立たないことは、勧められないと言っています。異言は霊的な賜物だと言われています。わたし自身、これまで異言は最も端的な聖霊の現れであると思ってきました。しかし、よく考えると、異言で語っているのは果たして聖霊なのか、人間の霊なのかどちらなのでしょう。14節で「わたしの霊」と「わたしの理性」が対比されています。ここを読むと、異言で語っているのは「わたしの霊」、人間の霊であるとはっきりと言われているのではないでしょうか。

その点で、今日のローマの信徒への手紙8章16節でパウロが、「わたし」ではなく「わたしたち」と言う複数形を用いていることはとても深い、大切なことを物語っているように思います。神の霊、聖霊は、「わたしの霊」ではない、すなわち個人の霊ではなく、「わたしたちの霊」、つまりお互いを兄弟姉妹として結びつけ、共同体を形づくる、教会の霊だと言うことです。言葉を変えると聖霊は自己愛、閉ざされた愛ではないと言うことです。聖霊は、わたしたちを開かれた兄弟愛へと自由にし、解放する霊であると言うことです。
「異言で一万の言葉を語るより、理性によって5つの言葉を語る方を取る」のは、聖霊が互いに愛し合う愛の霊だからではないでしょうか。

ペンテコステに聞いた預言者ヨエルによって語られた終わりの日に実現する神様の約束は「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」でした。主なる神は、今日、ご自身の最も奥深くに隠されていた御心を、聖霊を通して、すべての人に対して明らかになさいます。
あなたはわたしの愛する子、わたしの喜びとする者である。
親が、幼くして短い生涯を閉じる子に対して、それでも生まれてきてくれてありがとう。わたしの子であってくれたことを感謝すると言います。父なる神がわたしたちにそのように語りかけてくださることは驚きでしかありません。
わたしたちは、聖霊による神の導きに、ただ感謝し、喜んで従うほかない者たちです。その感謝を、聖霊に導かれて、互いに愛し合い、互いを喜び合い、あなたがいてくれてありがとうと互いに言って表したいと思います。  

父と子と聖霊の御名によって