ペンテコステ礼拝『すべての人にわが霊を注ぐ』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 ヨエル書3章1~5節
新約聖書 ローマの信徒への手紙10章9〜13節


『すべての人にわが霊を注ぐ』

1 三大礼節としてのペンテコステ
今日はペンテコステです。クリスマス、イースターと並んで、聖霊降臨節であるこのペンテコステは、キリスト教会の暦の上で、三大礼節の一つとして重んじられてきました。3つの中で一番よく知られているのは、クリスマスですが、クリスマスが現在のように12月25日に祝われるようになったのは3世紀の末頃からだったことが物語っているように、元来、教会ではクリスマスよりも復活節の方がはるかに重んじられてきました。そういたしますと、今日、迎えているペンテコステは、クリスマスのように世間的に知られているわけでもなく、イースターのように教会において歴史的に重んじられてもこなかったので、三大礼節の中で、最も影が薄いというか、軽く受け止められているのではないか、実際、わたしたちの教会においてもペンテコステは、三大礼節の中ではクリスマスやイースターほど重んじられていないのではないでしょうか。
だからと言って、聖書もまたそういっているかどうか、それは別問題です。果たして、聖書もペンテコステはクリスマス、イースターと比べて、それほど重要ではないと言っているのでしょうか。

2 どの日が最も意義ある日、重んずべき日なのか
みなさんは、今から2千年前、主イエスが地上においでになった時代、ナザレでお育ちになり、ガリラヤで教え、様々なしるしや奇跡をなさったあの時代に、自分もめぐり合わせて生きていたらどんなに幸いだっただろうと思ったことはないでしょうか。ましてや、主イエスが死者の中から復活なさった日に、自分もまたその出来事の証人の一人とされたなら、あるいは、主イエスが復活されたのち昇天なさるまでの40日間、繰り返し弟子たちに現れて、ご自身が生きておいでなることを示された日々を、自分が生きて体験できたらどんなに良かっただろうと思ったことはないでしょうか。
主イエスが地上においでになった日々が、恵みと栄光に満ちた時であったとすれば、主イエスが天に行かれた日、そしてなお天におられる今という日は、主イエスが地上におられた日々と比べて、今の方がはるかに優って、大きな恵みと栄光がもたらされる日なのだと言われたのは、誰であろう、主イエスご自身にほかなりませんでした。
主イエスは言われました。「実を言うと、わたしが去ってゆくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」
(ヨハネ16:7)。
主イエスがこの世に来られたクリスマスは栄光に満ちた日でした。主イエスが死者の中から復活されたイースターも、クリスマスに優るとも劣らない輝かしい栄光の日でした。それに対してペンテコステは、クリスマスにもたらされた恵み、復活節にあらわされた栄光、それが、主イエスが言われた、「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである、だが死ねば多くの実を結ぶ」と言うお言葉の通り、イエス・キリストという一粒の麦の栄光と恵みにとどまらないで、主イエスという一粒の麦から、多くの実が結び、また主イエスという初穂に続いて、多くの収穫となって広がっていった日なのです。
この日、主イエスが父なる神の右の御座から注がれた聖霊は、キリストのうちにある恵みと命と栄光を、すべての人々に分け与えてくださったのです。こうして、主イエスという一人のお方が、2千年前、パレスチナの一角で生き、死なれ、復活し、成し遂げられた救いの業、その恵みと栄光は、聖霊によって、2千年の歴史を経て今日にまで及び、地理的にも地の果てまで世界中に及ぶようになりました。聖霊は、そうです、文字通り「すべての人」に注がれます。一つの民族だけでなく、あらゆる民族に、一つの言語だけでなく、何千という異なった言語に、限られた文化圏だけでなく、ありとあらゆる文化に属する人々に聖霊は浸透してゆきます。
「息子、娘は預言する」とは、未来の世代がこの恵みを受け継いでゆくという、常に新しく歴史の将来が開枯れてゆくことを約束しています。「老人が夢を見、若者が幻を見る」というのも、老人と若者が世代の違いを超えて、互いに尊び合いながら、一つに結び合わされてゆくということです。「奴隷となっている男女にもわが霊が注がれる」というのは、主人と奴隷という経済的・社会的分断が、すべての人が神の子とされる中で、乗り越えられてゆくということです。
これは、人口の何%がクリスチャンになるかという量的な事柄ではなく、それゆえ、数とか規模の問題ではなくて、質的なことだというべきでしょう。人と人を分け隔てる様々な分断の壁が取り除かれて、神がすべての人に霊を注がれることによって、人々が一つにされてゆくのです。神が聖霊を注がれるとき、それを妨げる力はこの世にはないのです。それゆえ、神が人々を一つにしてゆくことを誰も止めることはできません。神が聖霊が注がれることによってもたらされるペンテコステの栄光と恵みは、クリスマスよりも、イースターよりもさらに豊かであり、重いのです。三大礼節の中で、ペンテコステこそ、最も輝きと恵みに満ちた日だということができます。

3 コロナのパンデミックの中で迎えるペンテコステ
わたしたちは今年のペンテコステを、昨年に続いて新型コロナによるパンデミックが今なお世界中を襲っている中で迎えました。今日わたしたちが読んでいるヨエル書にはイナゴの襲来による被害が出てきますが、イナゴの害は古代以来、人類の歴史において、疫病によるパンデミックと並んで、人類がコントロールできない、食い止めることができない天災の一つでした。今日、わたしたちはコロナによるパンデミックの只中で、イナゴの害について語るヨエル書からみ言葉に聞きたいと思います。最初のペンテコステの日に使徒ペトロが読んだ御言葉、そして、このペンテコステに成就したのは、このヨエルの預言の言葉であると使徒ペトロが語ったからです。
ヨエル書は非常に明快なメッセージの書です。1章からその預言の言葉を辿ってみたいと思います。2〜4節。中近東から北アフリカにかけて、イナゴの害は広さ千平方キロメートルという広い範囲に及んで、凄まじい勢いでありとあらゆる植物をすべて食べ尽くすことによって破滅をもたらします。人も家畜も食べるものがなくなります。飢えと飢饉に襲われますが、それは神さまに捧げる献げものもなくなるということです。16〜20節。
その災いの中で、預言者は民に、断食と悔い改めを呼びかけます。2章12〜14節。
泣き悲しみ、主なる神に立ち帰るとき、主は答えてくださいます。2章18節。
主はイナゴを遠くへと追いやってくださり、民はその救いを喜び、主なる神をほめたたえるようになります。

4 「すべての人にわが霊を注ぐ」
最初のペンテコステに使徒ペトロが、その日にヨエルの預言が成就したといって引用したのは、ヨエル書の3章です。
1節.「その後」。その後とは、イナゴの害が襲い、イスラエルが疲弊し、滅亡寸前にまで追い込まれたとき、主なる神の憐れみによって、その災いと苦しみから救われ、イスラエルの民が神の御名をほめたたえるようになる、その後にということです。
イナゴの災害が過ぎ去った後、世界は元の状態に戻るのでしょうか。
それは今のわたしたちへの問いでもあります。新型コロナウイルスのパンデミックが収まったなら、世界は、社会生活は、わたしたちの生き方は、コロナのなかった元の状態に戻るのでしょうか。
イナゴが襲って、食べるものを食い尽くすとき、イナゴによってそれまであったものが失われます。それまで当たり前だったことが当たり前ではなくなります。
2章10節に、「太陽も月も暗くなり、星も光を失う」とあります。朝とともに太陽が昇り、太陽の光が世界を照らすのは当然のことではないでしょうか。夜になれば、月や星が光を放つのは当たり前ではないのでしょうか。しかし、そうではないことが起こるのです。
わたしたちもコロナで、当たり前であったはずのことがそうでなくなる経験をしました。日曜日になれば礼拝があると思っていたのが、礼拝がなくなるということが起きました。それを通してわたしたちは何を知ったのでしょうか。
太陽が輝くのは何故なのでしょう。月や星を輝かせているもの、それは何なのでしょうか。
わたしたちが今日という日に生きているのは、主なる神によっています。神がわたしたちを生かしてくださって、初めてわたしたちは今日の命を生かされるのです。太陽も、月も、星もそれを創造された神が、それを保ち、輝かしておられます。
イスラエルの民は、イナゴの災害を過ぎ去らせていただいたとき、2章27節にありますように、主なる神が自分たちのうちにいますことを知るようになるのです。
そのことを、イナゴの害を受ける中で、知らされます。イナゴの害を受けて、様々なものを失って初めて、これまで受けていた恵みは主からのものであったことを知らされます。当然だと思っていたものを失って初めて、それらが当然なのではなく、一つ、ひとつ、一日、1日、神からの恵みとしてそれがあることを知るのです。そのことは逆境において明らかにされます。イナゴが西に、東に神から送られた風にのって遠ざけられるとき、神の憐れみと救いのわざを目の当たりにします。神は逆境のときにも、わたしたちのうちに共にいてくださることを知ります。そして、そのことは逆境の時だけでなく、順境のときにも同じなのだということをわたしたちは知るようになります。
イナゴが過ぎ去ったとき、イスラエルの民は元に戻るのではありません。わたしたちもコロナが過ぎたとき、コロナがなかった以前の状態に戻るのではないでしょう。コロナの試練の時も、それ以前の順境のときも、わたしたちのうちに主なる神がともにいてくださることを知るようになるからです。わたしたちは元に戻るのではありません。
「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」。
注ぐというのは、まさにバケツに中に溜まっているものを全部流し出すということです。霊とは、神ご自身の最も深いところにある心、思いのことです。神が御自分の霊を注ぎ出されるということは、わたしたちに神さまの本心を、何一つ取っておくことをしないで、あからさまに、隠さずにすべてを打ち明けられるということです。
それを神さまは、限られた一部の人に対してだけなさって、後の人には依然として隠しておくというのではないのです。すべての人に対してなさると言われているからです。
神さまはご自分の心を打ち明けて、わたしたちに呼びかけられます。
なんと呼びかけられるのでしょうか。27節の言葉こそ、聖霊を通して神様が語りかけられる、神さまの思いであり、神さまの本心です。
その呼びかけに応えて、主の御名を呼ぶ者は皆、神によって救われるのです。

5 「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」
主の御名を呼ぶ者、すなわち主からの呼びかけに応えて主を呼ぶ者とは、わたしたちのことです。わたしたちは、人々からクリスチャンと呼ばれていますが、そのクリスチャンというわたしたちの呼び名の別名は「主の名を呼ぶ人」です。主からの呼びかけを聞いて、主の名を呼ぶ人がクリスチャンなのです。
神は今日、すべての人に向かって、わたしを呼びなさい、あなたのうちにともにいるわたしに助けを求めて呼びなさいと、呼びかけておられます。ということは、すべての人に向かって、あなたもクリスチャンになりなさいと神が呼びかけておられるということです。
その神からの呼びかけ、それが聖霊の注ぎです。その聖霊を神は今日、すべての人に注がれます。すべての人がその聖霊を注がれることによって、神の名を呼ぶ者とされ、救われるためです。

父と子と聖霊の御名によって。