聖日礼拝『主は天に昇られた』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 出エジプト記17章8~14節
新約聖書 ルカによる福音書24章44〜53節


『主は天に昇られた』

主イエスは天に上げられました。主イエスの復活について聖書は繰り返し語り伝えています。それに比べて、主イエスが天に昇られた、主イエスの昇天については、僅か3箇所にしか書かれていません。しかし、主イエスの昇天は、復活と同じくらい重要な出来事です。なぜなら、復活なさった主イエスが、今、どこにおられるかに関わるからです。
復活節の朝、墓を訪れた婦人たちに御使はこう告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:5)主イエスは復活なさってここにはおられない。では復活なさった主は、今どこにおられるのでしょうか。

50節、51節.
主イエスはベタニアのあたりまで出てゆかれたとルカは記します。50節に「そこから」とある「そこ」とはエルサレムのことです。復活された主イエスはエルサレムで弟子たちにご自身を現されました。その後、そこから弟子たちを「連れて行き」と訳されている言葉は、原語では「導き出す」、「連れ出す」と言う言葉です。主イエスは弟子たちを、エルサレムからベタニアまで導いてゆかれ、そこで、手を上げて弟子たちを祝福なさいました。

手を上げて祝福する行為、それは私たちの礼拝の最後にある祝祷が、派遣の行為であるように、主イエスが弟子たちをこのとき、派遣されたことを意味しています。弟子たちはどこに向けて送り出されたのでしょうか。弟子たちは52節に、「大喜びでエルサレムに帰り」とあるので、主イエスは弟子たちを、エルサレムに向けて送り出されたのです。
その派遣が何を意味したかを知る上で、主イエスがこのとき、どこから弟子たちを送り出されたかは重要です。主イエスはわざわざエルサレムから弟子たちをベタニアまで連れ出して、再度ベタニアから弟子たちをエルサレムに送り返されたことになるからです。

ベタニアはルカでは19章29節に出てきます。そこは、主イエスがエルサレムに入ってゆくために出発したスタート地点でした。今、復活なさった主イエスが弟子たちをエルサレムからベタニアへと導き出して、そこから再度エルサレムに向けて派遣なさるのは、主イエスがエルサレムでの十字架の死に向かってベタニアから出発したのと同じように、弟子たちの派遣も、彼らがこれから受ける苦難と迫害と十字架に向けての派遣であることを意味していたのです。

しかし、その派遣は、主イエスのエルサレムへの出発が十字架での敗北の死で終わらず、復活の勝利に至ったように、弟子たちもまた、主によって復活の勝利に向けて派遣されたのです。先ほど出エジプト記の17章の記事を読みました。モーセの手が上がっている限り、イスラエルは勝利したのです。そのように、主イエスの手が上がっている中で、そして二度とその手が下がることはないゆえに、弟子たちは出て行き十字架の苦難と死を通って、復活の勝利へと導かれてゆくのです。

さて、主イエスは「彼らを離れ、天に上げられ」(51節)ました。主イエスは弟子たちを連れてエルサレムからベタニアへと出てゆかれましたが、さらに、この地上の世界からも離れて、天へと上げられました。それゆえに、今や、主イエスが地上のどこかに、「ここにいる」とか「あそこにいる」と言う人がいれば、それは嘘なのです。主はもう、地上にはおられないのです。エルサレムにも、ガリラヤにも、ローマにも、ソウルにも、東京にも、福岡にもおられません。天に上られたからです。
しかし、天に昇って、天におられると言うことは、地上の、限定されたどこかの場所にいるということはないけれども、その御言葉と聖霊による支配と力と恵みは地上のあらゆるところに及ぶと言うことです。

52節、53節.弟子たちがエルサレムに帰って行ったあと、彼らは喜びに満たされ、絶えず神殿の境内にいて、神を賛美していたとあります。先ほど、弟子たちがベタニアからエルサレムに遣わされる意味は、主イエスが辿られた十字架の死から復活へと向かう道を弟子たちもまた辿るためだと申しました。早速、ペンテコステの日に弟子たちはエルサレムで主イエスの復活を説教しましたが、その日、その説教を聞いたエルサレムの住民は心を刺され、悔い改めて3千人もの人が、主を信じて洗礼を受けたことが使徒言行録2章に書かれていますけれども、やがてその説教はエルサレム神殿をつかさどる大祭司や指導者たちによって禁止されるようになります。当局者から説教を禁じられても主イエスの復活を語り続けようとした使徒たちはついに投獄され、鎖に繋がれるに至りました。
52節、53節に書かれている弟子たちの喜び、また神への賛美は、苦難や迫害と無縁な喜びではなくて、使徒言行録5章41節に書かれている「イエスの名のために辱めを受けるほどのものとされたことを喜ぶ」喜びでした。

この弟子たちの派遣、復活の主イエスが手を上げて弟子たちをエルサレムから始まって、地の果てにまで送り出された派遣は、主イエスが天に昇ってゆかれたことに対応としています。主イエスは地上から天へと、下から上へ垂直方向に移動したのに対して、弟子たちはエルサレムから地の果てにまで水平方向に移動してゆくのです。空間的にそのような移動が起こるとともに、時間的にも変化が生まれます。礼拝の場所が空間的にエルサレムの神殿に限定されなくなり、全世界に広がってゆくように、神を喜び、讃め称える礼拝の時間も、日曜日の朝の限られた時間のみではなく、絶えず、いつ、いかなる境遇においても、私たちにとって、神を喜び、褒め称える時間となります。

説教の最後をこの、昇天される主イエスが弟子たちを派遣される派遣が、父なる神による御子キリストの派遣から始まったことを覚えたいと思います。主イエスは復活節の夜、弟子たちがユダヤ人を恐れて、自分たちのいる部屋の戸に鍵をかけて閉じこもっていたときに、彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われた後に、こう言って、弟子たちを派遣されました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。
主イエスが昇天される直前、手を上げて弟子たちを祝福し、エルサレレムへ、さらにエルサレムから地の果てにまで送り出された派遣は、それに先立つ、父なる神による御子の派遣を受けてのことでした。父なる神もまた、自らのみ腕を上げて、御子を祝福し、この世界に派遣なさったのです。その父なる神による御子の派遣において、御子を祝福する祝福のみ腕が上がり続けていたので、主イエスは、地上にあって、人々からの反対を受け、多くの苦しみを受けながらも、そして最後には十字架につけられて殺され、黄泉にまで下されても、最後には、ついに輝かしい勝利者として復活なさり、天に上げられてゆかれたのです。
そのように、今、御子はご自身の父なる神の派遣においてと同様に、弟子たちを派遣なさいます。弟子たちを派遣される主イエスの手は上がり、その祝福のみ手は二度と下げられることはないのです。それゆえに、弟子たちは孤立し、散らされ、迫害され、命を失うことがあっても、そうです、パウロがローマ書の8章35節以下で「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、劔か、『私たちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてある通りです。しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。死も、命も、天使も、支配者も、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:35〜39)と言い切っているように、すべての困難に打ち勝つ確かな勝利が約束されています。それゆえに、いつも、どんな時も喜んでいることができ、感謝をもって祈ることができ、神様を讃えることができるのです。

主イエスによって派遣されて行った弟子たちは、派遣されていった先々で、自分たちもまた手を上げて、人々を祝福しました。テモテ(1)2:8。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマ12:14)
わたしたちも主イエスの昇天を覚える今日、私たちの上に手を上げて、私たちを祝福される主から送り出されて、わたしたちもまた、私たちの手を上げて、わたしたちを迫害する敵のために祝福を祈りましょう。

父と子と聖霊の御名によって。