聖日礼拝『ぶどうの木につながる枝』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エレミヤ書2章21節
新約聖書 ヨハネによる福音書15章1〜17節


『ぶどうの木につながる枝』

今日は今読まれたヨハネ福音書15章1〜17節に書かれている内容について学びたいのですが、そのために、最初の3節の言葉に集中することによって、ここで聖書が語っていることを聞き取りたいと思います。

1節。ここで、父なる神とイエス・キリストと私たちの関係が示されます。すなわち、父なる神は農夫であって、その農夫である神さまは、御子イエス・キリストというブドウ木を通して、その枝であるわたしたちを生かされるということです。
ブドウの木は、その枝先に実を結びますが、イエス・キリストというブドウの木の枝であるわたしたちが結ぶ実とは何でしょうか。

8節に「あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」とあります。
ここでは、実を結ぶことと、わたしたちが主イエスの弟子となることが一息に結び付けられる形で語られています。わたしたちが主イエスに倣って、主イエスがなさったようにするなら、すなわち、主が弟子の足を洗ったように、互いに足を洗い合い、主がわたしたちを愛されたように、互いに愛し合うこと、それが実を結ぶということだと言えるでしょう。
13章34節、35節に「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とあります。
わたしたちが互いに愛し合う愛は、わたしたちが主イエスの弟子であることの証しです。
わたしたちが互いに愛し合い、それによってすべての人が、わたしたちを主イエスの弟子であると認めるようになること、それが、それによって父なる神が栄光をお受けになる実なのです。

2節。「わたしにつながっていながら実を結ばない枝」があるということが言われています。
5節、6節に繰り返されていますように、そもそも枝はブドウの木につながっていなければ、自分では実を結べないのです。では、反対に、ブドウの木につながっていさえすれば、実を結べるのでしょうか。いいえ、そうではありません。ブドウの木につながっていても実を結ばない枝があり得るのです。
農夫はその手に鋭い剪定バサミを持って、バッサ、バッサと枝を落としてゆきます。木というのは、枝を落とさないとどんどん繁って手に負えなくなります。ましてや果実を豊かに実らせようとすれば、また良い実を実らせようとすれば、無駄な枝葉は切り落とさなければなりませんし、摘果も絶対に必要です。そうしないと木は野生化してしまって、豊かに良い実を結ぶことはできないのです。

では、農夫である父なる神が、イエス・キリストというブドウの木の枝にふるわれる剪定の鋏とは何でしょうか。それは3節で、キリストが話した言葉だと言われています。「既に清くなっている」というのは原語では「手入れをされている」という言葉と同じです。

この鋏であるキリストの御言葉とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉がそれであると言えます。

わたしたちは神さまから、イエス・キリストを通して愛を注がれています。それがキリストというブドウの木に、わたしたちが枝としてつながっているということです。しかし、わたしたちが、その愛をただ受けるだけで、兄弟を愛そうとせず、その愛を自己愛にとどめてしまうなら、それは実を結んでいないのであり、醜い、悪い実を結んでいるのです。神の愛を受けながら、それを間違って自己愛に変えてしまう、そのような罪を両刃のように鋭いみ言葉が、その罪をえぐり出し、切り落とすのです。

そもそも神の愛は、閉ざされた、自分だけを愛する愛ではありません。神の愛はその反対です。神は最愛の独り子をわたしたちに惜しみなくお与えになりました。神の愛は、開かれた愛、他者を自分と等しく、あるいは自分以上に愛する愛です。
イエス・キリストも、その父の愛に満たされて、わたしたちをご自身の体のように愛して、ご自身の命を与えてくださったのです。

神がこの世に送られた主イエス・キリストは「まことのブドウの木」と呼ばれます。その枝がわたしたちです。このキリストと、そのキリストに連なる者たちの共同体を教会と呼んでいますが、それが「まことのブドウの木」と呼ばれる理由はなんでしょうか。その「まことの」というのはどういう意味でしょうか。

もし、わたしたちの教会が閉ざされた共同体、自分たちの富と繁栄を追求するだけの共同体であったら、それはキリストのからだなる教会と言えるでしょうか。そのとき、わたしたちの教会は、まことのブドウの木ならぬ、まがい物のブドウの木、野生化してしまったブドウの木、枝も葉もボウボウに繁っている、けれども実はなっていない。実がなっていても、父なる神の栄光を表すような実とは程遠い、恥ずべき実としか言いようのない実をたくさん結んでいると言わざるを得ないでしょう。

つながっているとは、両方向のことだということが4節、5節でわかります。主イエスがわたしたちにつながり、わたしたちの方からも主イエスにつながるのです。握手とか、電話とかを考えてみればよく理解できるのではないでしょうか。相手がこちらの手を取ってくれたら、こちらから握り返さなくても、握手は成り立つように見えます。電話もこちらからかけなくても、向こうからかかってくる電話に出れば、繋がります。でも、ここで主イエスとわたしたちが繋がるというのは、ただ、主イエスが一方的にわたしたちの手を取ること、一方的にかかってくる電話を受けることではありません。
洗礼は受けた、でもそれっきりというクリスチャン、聖書も読まない、礼拝にも出ない、お祈りもしない、それでも主イエスはその人を見捨てないから、主イエスはわたしと繋がっていてくださるというクリスチャンがいるとしたら、果たして、そんな繋がり方で実を結ぶようになるでしょうか。それでは実を結べるわけがありません。実を結ばないなら、神さまはその枝を取り除かれるでしょう。

主イエスは熱心にわたしたちに働きかけておられます。み言葉を与え、聖霊を注いで、愛を示しておいでです。しっかりと手を取り、握られます。そして言われます。わたしはあなたがたにつながっていると。と同時に、主はわたしたちにも、わたしにつながっていなさいと言われるのです。それゆえに、わたしたちの方からも、主の手を握り返すべきです。
それは具体的には、祈るということです。願い求めるということです。主に対して、「あなたがわたしを愛される愛に応えて、わたしもあなたを愛し、あなたの与えてくださった掟を守って、互いに愛し合う者にならせてください」と祈りましょう。7節に言われていることは空しい、空約束ではないのです。

主イエスの枝として、わたしたちの方から主イエスにつながるということ、それは主イエスに対して、恵みと愛を感謝するということです。主イエスの恵みと愛を喜ぶということです。そして、主の戒めを守り、服従するということです。主イエスに愛されるだけでなく、主イエスがわたしたちを愛してくださるように、主イエスを愛し、主イエスが愛される兄弟姉妹を愛し、兄弟姉妹として互いに愛し合うことです。賛美歌487番3節「主の愛された、すべての人が、わたしの隣人」と歌いつつ、隣人を愛することです。

神様の愛が真実な愛である由縁は、わたしたちを愛する人にしてくださったところにあるのではないでしょうか。自ら、神さまを、人を心から愛することができる人にしてくださったこと、それが神様の最大の愛だと思います。受け身に終始せず、自ら立って、能動的に、神さまを愛し、人を愛する人にしてくださったことです。そのような愛の神さまを喜び、誇りとするものとしてくださった、そこに神さまの愛があると言えます。

そして、今、隣にいる人が、わたしたちの喜びであり、誇である兄弟姉妹であること、それらの兄弟姉妹との間に、お互いに心から愛し合い、尊敬しあい、喜び合える交わりをいただいていること、それは神様の栄光です。

農夫である父なる神さまがまことのブドウの木であるイエス・キリストの枝えだであるわたしたちを通して、ご自身の栄光をあらわすとは、そのようなことなのです。

父と子と聖霊の御名によって。