復活節礼拝『死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 ホセア書11章1〜9節
新約聖書 ルカによる福音書15章1〜32節


『死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった』

今日読んでいるルカ15章には3つの喩えが書かれていますが、その3つとも最後の言葉は同じです。そうです。3つとも「喜び」という言葉で締めくくられているのです。7節「大きな喜びが天にある」、10節「神の天使達の間に喜びがある」、そして32節「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。

(1)
「見出される喜び」と「見出す喜び」
今日の説教ではまず、これらの3つの喩えに出てくる喜びを、互いに比べてみたいと思います。
最初の99匹と見失われた1匹の羊の喩えでは、その喜びを「見出される喜び」と表現できるように思います。たった一匹、群れを離れて迷い出てしまった羊は、その羊を捜し回ったあげく、ついにその羊を見つけ出した羊飼いによって連れ戻されます。迷い出た羊が発見されたとき、どれほど喜んだか、連れもどされる道すがら飛び跳ねんばかりに喜ぶ、その羊の喜びが伝わってきます。羊飼いも嬉しかったに違いありません。でも、ここでは見出された羊の喜びの方が大きくクローズアップされるように思うのです。
それに対して、二番目の無くした銀貨の喩えでは、無くなった銀貨を女の人が「ともし火をつけ、家中を掃いて」一生懸命捜した挙句、とうとうそれを「発見した喜び」が書かれています。銀貨には感情がありませんから、ここでは「見出される喜び」ではなくて、無くした銀貨を見つけた女の人の「見出す喜び」の方にアクセントがあると言えるでしょう。
そうだとすると、第三の放蕩息子の喩えでは、第一の喩えにある「見つけられる側の喜び」と、第二の喩えにある「見つける側の喜び」の両方があると言えるでしょう。家を出たまま行方が分からなくなっていた息子は父によって見出されます。思いもしない仕方で父によって家に迎え入れられます。そのとき息子が味わった喜びは群れから迷い出た1匹の羊が見出され、連れ戻されるときの喜びと同じ喜びです。羊が喜ぶように、この息子も立ち戻り、迎え入れられたことを喜ぶのです。他方、いなくなっていた息子、もう二度と帰ってこないのではないかと思っていたその息子の姿を遠くに見出したときの父親の喜びは、銀貨をなくした女の人が、それを発見した喜び、失ったものを取り戻した喜びと同じです。

(2)
悔い改め・立ち返り
喜びという面から3つの喩えを比較しましたが、それとの関連で付け加えたいことがあります。3つの喩えに「喜び」という言葉が共通していると申しましたが、もう一つ全部に共通していることがあります。それは「悔い改め」です。7節、10節に「悔い改め」という言葉が出てきます。最後の喩えには「悔い改め」と言う言葉は出てきませんが、息子は父のもとに帰ってゆきます。悔い改めは旧約聖書ではシューブという言葉で表されますが、シューブは文字通り、戻ること、立ち返りという意味です。
ただ、この3つの喩えで、悔い改め、立ち戻るということがどうなっているか比べるとき、見えてくることがあります。第一の喩えでは迷い出た羊には、自力で戻ることができたかというと、果たしてそれは可能だったでしょうか。羊には自分の力で戻ってゆくことは不可能でした。その点では、銀貨はもっとそうです。銀貨自体に立ち返る可能性など存在しないのです。銀貨は見つけてもらうしかありません。その点、最後の放蕩息子は自分の足で、父のもとに帰って行くことができました。
放蕩息子は放蕩の限りを尽くして、全てを失い、どん底まで落ちてゆきます。落ちるだけ落ちた、そのところで、彼は「我に返った」(17節)と書かれています。彼の回心、彼が心を入れ替えて、悔い改めたこと、そして父の家に帰ろう、父に謝ろうと思ったこと、それはすべて、この息子の決心によったように受け止められます。

(3)
悔い改めは神から賜る恵みの奇跡 死人が生き返ること
そうだとすると、第三の喩えは、第一、第二の喩えとは非常に大きく違っていることになります。銀貨には、回心もありえないし、戻ることもありえません。羊にはたとい迷い出てしまったことへの後悔はあっても、放蕩息子のように、自力では歩いて戻ることはできないのです。見つけられた羊は自分の足では歩けずに、羊飼いの肩に担がれて戻ります。しかし、それに対して、放蕩息子は自分の心で回心したのです。また自分の足で父の家を目指して帰ってゆきました。
しかし、ここで注意しなければならないのは、第三のたとえでも、父親は最後にこう言っていることです。「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった。」
父親にとってこの息子は死んでいたと言われています。息子が死んでいたとはどういうことでしょうか。父親にとっては、銀貨が命のない、死んでいる「物体」であって、自分の意思を持たないように、この息子からも回心を期待できなかったのでした。死んだものが回心することはあり得ません。また羊がたとえ、寂しく、羊飼いの名を呼んで泣いても、自力では戻れないように、この息子が戻ってくることは、とうていあり得ないことだったのです。死んでしまった息子が自分の足で帰ってくることもあり得なかったのです。
それゆえ、それが起こったのは奇跡としかいいようのないことであり、まさに死んでいたものが生き返ることだったのです。息子の回心、息子がトボトボと家に向かって歩き出したことは神さまの恵みの奇跡のわざでした。

(4)
主イエスのもとで「祝宴」が始まった
いなくなった羊、無くした銀貨、父親のもとから家出してしまった息子、これらは具体的に誰のことを例え、誰を指していたのでしょうか。それは15章1、2節に記されている人たちです。ファリサイ派の人々や律法学者たちから、罪人たちと、あからさまな非難を浴びていた人々です。
その人たちが今、主イエスの話を聞き、主イエスとの交わりを喜び、食事を共にしていたのでした。放蕩息子の父親が23節で、「肥えた子牛を連れてきて屠りなさい、食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言うときの、死んでいたのに生き返った息子というのは、まさに、それらの罪人たちでした。そして、その放蕩息子の父親とは主イエス・キリストの父なる神ご自身に他なりませんでした。
いなくなっていた羊が見つかった時に羊かいが友達や近所の人を呼び集め、一緒に喜んでくださいと言い、無くした銀貨をみつけた女の人も同じようにして一緒に喜んでくださいと言うように、父なる神もまた、いま、すべての人に向かって、「私の死んでいた息子が生き返り、いなくなっていた息子が見つかった、さあ、一緒に祝ってくれ」と呼びかけられるのです。

(5)
主イエスは死人の中からのよみがえりの初穂となられた(1コリント15:20)
今日は復活節です。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って最初に喜ばれた父親は、御子を死者の中から引き上げられた父なる神様です。
パウロは、その主イエスの復活を、眠りについた人たちの初穂と言いました。初穂はその後に多くの収穫が続くことを示します。今日の復活節の喜び、それは神様が主イエスの復活を「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って喜ばれる、その喜びの声が、主イエスの後に続く私たちの上に、また私たちを超えて全世界の隅々にまで響き渡る喜びです。
主イエス・キリストを死者の中から復活させ、眠りについた人たちの初穂とされた神は、今日、御子キリストのゆえに、また御子イエスと共によみがえりに預かる全ての人々のゆえに、全世界に向かってこう呼びかけられます。

「この息子・娘は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった。さあ、食べて祝おう。私と一緒に喜んでくれ。」

父と子と聖霊の御名によって。