聖日礼拝『主よ、お話しください。僕は聞いております』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 サムエル記上3章1〜21節
新約聖書 マタイによる福音書12章31〜32節

 


『主よ、お話しください。僕は聞いております』

「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」

今週、東日本大震災から10年目の3月11日を迎えようとしています。10年前の大地震だけでなく、1995年の阪神・淡路大震災のときも、福岡におります者たちは大地の振動を体感していないだけに、実際に地震を体験させられた方達の衝撃が実感として掴みにくい面がどうしてもあろうかと思います。それでもテレビに映った、津波によって町々、家々が飲み込まれてゆき、多くの人命が失われ、津波の去った後、町が破壊され、瓦礫と化している光景は私たちを心底、震撼させるに十分でした。また、原子力発電所の爆発による過酷事故からも、それにまさるとも劣らない衝撃を受けました。
あの日の出来事は何であったのか。10年前のあの日、あの時もまた、天の下のすべての出来事に時を定めておられる神の御支配のもとにあったとするならば、一体、あの日はあの時は、いかなる時だったのでしょうか。
そして、それから10年経った、今という時は、いかなる時なのでしょうか。

今日読んでいるサムエル記上3章において、少年サムエルは主から3度、呼びかけられています。
10年前の出来事はわたしたちに対する主からの呼びかけであったのではないでしょうか。わたしたちは、あの日の出来事を通して主から呼びかけを受けたのではないでしょうか。

しかし、10年前の出来事が主からの呼びかけであったとしても、また今日遭遇させられているコロナの出来事が主からの呼びかけであっても、少年サムエルが、サムエルを呼んだのが主であったのに、そうとは分からずに、祭司エリのもとに繰り返し走っていったように、人々は、そして、わたしたちも、それを主からの呼びかけとして聞くことはできていないのではないでしょうか。

今年も、これまで繰り返されてきたように、東北の地で、福島の地で祈りが捧げられることでしょう。被災した人々が、未だ癒されない悲しみと嘆きを抱えながら、無言でこうべを垂れ、黙祷を捧げるのではないでしょうか。

そのようにして捧げられる東北の祈り、福島の祈りは誰に対して祈っている祈りなのでしょうか。ひたすら沈黙の祈りを捧げている人々は、自分を呼んでいるのが誰かを知らない点で、少年サムエルの姿に重なるように思うのです。サムエルはエリのもとに走って行って言います。「あなたがお呼びになりました」。エリは答えます「私は呼ばない。」

エリは3度目にサムエルに言います。「それは主だ。また呼びかけられたら言いなさい。『僕は聞いております。主よ、お話しください。』と。」
東北や福島の人々が自分たちに呼びかけておられるのが、主であるのに、それが主からの呼びかけであることがわからない時に、それは主だと東北の人々に告げるエリの役割を果たすことのできる人は誰でしょうか。それは教会、日本に預言者として遣わされている、日本にたてられている教会だと思います。

10節にこう記されています。
このとき、サムエルが主から聞いたこと、主がサムエルに語られたこと、それは何だったでしょうか。
それは恐るべき裁きの言葉でした。それを聞くものの両耳が鳴り、その耳鳴りのために頭が割れそうになるような言葉でした。それを聞いたサムエルは、その言葉をエリに告げるのを恐れます。それはエリの家を情け容赦なく滅ぼすという裁きの言葉だったからです。

サムエルの聞いた言葉がエリの家に対する裁きの言葉だったとすれば、今、東北や福島の人々が聞かされるのは、今の日本でエリの役割を担っている教会に対する恐るべき裁きの言葉となるということだと思います。

エリの家の罪、エリが自らに恐るべき裁きを招くことになった罪とは何だったか。
それはまず、エリの息子のホフ二とピネハスがならず者で、主に対して罪を犯していたということがありました。それ自体非常に大きな深刻な罪でした。それに対してエリは息子たちの罪を知り、彼らを戒めましたが、彼らが聞く耳を持たずに罪を犯し続けたとき、それに対して何もできず、神の聖所の無秩序を放置していた責任を問われざるを得ませんでした。

エリの家に対する裁きが下された場面が4章に入って印象的に描かれていますが、そこで鍵の役割を果たしているのが「神の箱」、「主の契約の箱」であることに気付かされます。祭司であるエリの家が大切に守り預かっていたのが、十戒の二枚の板が納められた神の箱でした。エリの家が裁かれ、罪を犯していた二人の息子が二人とも戦いで命を落とし、その知らせがエリにもたらされ、それを聞いたエリが椅子から転げ落ちて死んだ日、イスラエルが失ったのは、エリの家に託されていた神の箱だったのです。エリの嫁は出産に及んで、イカボテ、神の栄光は失われた、栄光はイスラエルを去った、神の箱が奪われたと言いました。

エリの家は、これまで主の契約の箱を保管してはいたものの、その中身である十戒の二枚の板に対しては、あからさまに背き続けていました。契約の箱は持っていましたが、実際には、それを持っていないに等しかった。いな、それを所持していたがゆえに、その十戒の二枚の板の戒めによって自分自身に裁きを招く仕方で、それを持っていたと言えるでしょう。
ちょうど一年前、3月に沖縄で開かれた九州中会の開会礼拝で、わたしは「アカンの罪」という説教をしました。その中で、バプテスト教会の木村公一牧師の言葉を引いて、1890年に起こった内村鑑三の教育勅語参拝拒否事件を契機として、日本のキリスト教会が日本の社会から受けた非難と攻撃、すなわちキリスト教は天皇を神とする日本の国体に反する非国民の宗教だという攻撃に対して、教会が、そうではない、キリスト教と日本の国体は矛盾しない、天皇を神とする国体とキリスト教信仰は両立すると言ってしまったことが、日本のキリスト教会の歴史において、聖書がもっとも重い罪として警告している「聖霊を瀆す罪」となったということを申しました。

日本の教会は神の箱、十戒の二枚の板を預かる教会でしたが、それを持ちながら、持たない、いな、自分を裁く言葉として持ってしまった点でエリの家に似ていたのです。

祭司エリは主のみ言葉を見張り、主のみ言葉を聞く務めを負わされていました。しかし、彼の目かすんでしまい、ほとんど見ることができなかった姿は、彼が主のみ言葉を聞くことも、イスラエルに主のみ言葉を取り次ぐこともできないことを象徴的に示していました。その時、主が選ばれたのがサムエルです。主はサムエルを主の言葉を聞き、語る預言者として召されたのでした。

今、日本の国が、東北、福島の人々が神から聞くべきみ言葉を、既存のエリの家である日本の教会から聞けないなら、神様はそのみ言葉を聞かせるために預言者をお選びになり、お召しになります。
サムエルは石女のハンナの嘆きと悲しみの祈りの中から生まれました。サムエルの誕生は主がハンナの祈りを聞いてくださったことの証です。そうして生まれたサムエルは、やがて主の声を聞いて、全イスラエルに神の言葉を語る預言者として立てられました。そのような預言者は、この世的な繁栄と幸福を謳歌するペニンナからは生まれませんでした。

エリの家を裁かれた主が、今という時に語りきかせておいでになる御言葉、東日本大震災を経験し、今なお、コロナで苦しむ日本の人々に主が呼びかけ、聞かせようとされるみ言葉も契約の言葉、十戒の言葉ではないでしょうか。
すなわち、主なる神のみを、まことの神として礼拝し、主なる神以外のものを神としないということです。繁栄を、富を偶像として拝む生き方をやめ、悔い改めて主を神として知り、全存在をかけて主なる神を愛し、主に従って、隣人同士、すべての人と互いに愛し合うことです。

父と子と聖霊の御名によって