聖日礼拝『カインへの約束』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記4章1~16節
新約聖書 ヨハネの手紙(1)3章11~17節


『カインへの約束』

昨年のクリスマスに「最後の訪問者」というフランスのクリスマス物語を紹介しました。
クリスマスの夜、ベツレヘムの馬小屋に嬰児の主イエスを羊飼いや、博士たちが訪ねた、その最後に不思議なシワだらけのお婆さんが訪ねてくるという物語でした。そのお婆さんというのは、エデンの園で神様の言いつけに背いて禁じられた木からその実を取って食べてしまったエヴァであり、彼女は長い、長い間、抱え持っていた罪のリンゴの実を携えて、それを主イエスに捧げにやってきたという話でした。
「最後の訪問者」というその物語は、創世記の3章15節を基にして作られたものでした。

エヴァが蛇の唆しによって罪を犯してしまい、その結果、自らに招いた悲惨を描く創世記3章の記述は、全てが暗く、闇に閉ざされていますが、その中で、ただ一点、闇と絶望の中に灯る救いの光、希望の光があります。それが3章15節の言葉であると言えるでしょう。エヴァの子孫としてやがて生まれてくるお方が、サタンを滅ぼし、罪の支配を終わらせ、人類を罪から救ってくださるとの約束をここに見出すからです。

創世記の4章は、その前の3章と構造が全く同じだと言われます。3章で、エヴァが蛇に騙されて罪を犯します。すると神様から、あなたは何をしたのかと尋問を受け、罪が明らかになると、神様から裁きと呪いの言葉が告げられます。エヴァと神様の関係が損なわれると、エヴァとアダム、人と自然の関係も破綻してゆきます。そのように、4章でも、カインが神に対して顔を伏せ、神とカインの関係が失われたとき、カインとアベルの関係が破れ、カインはアベルを殺してしまいます。神様はカインにあなたは何をしたのかと問われ、その罪が明らかになり、神様はカインに裁きと呪いの言葉を告げられるのです。

このように3章と4章は構造が同じですが、3章では16節において、罪を犯したエヴァに、神様の救いの約束が告げられたのに対して、4章ではそれに相当する救いの言葉が罪を犯したカインに対して語られるのでしょうか。

今日の説教は4章の7節後半の「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」、この言葉を、3章の16節に匹敵する4章における救いの約束として聞いた人のことをお話ししようと思います。

みなさんは「エデンの東」という映画があることをご存知ではないでしょうか。どこかで聞かれたか、あるいはご自分でも見たことがあるか、その「エデンの東」というタイトルはまさに4章16節から取られています。映画が有名ですが、原作はスタインベックという作家の書いた小説なのです。

スタインベックは、「エデンの東」という小説のキーワードとして、4章7節を取り上げます。その小説の最後の場面で、二人の兄弟の父親、その名前はアダムと言うのですが、彼はいまわの息で、ヘブル語でティムシェルと呟いて死んでゆくのです。ティムシェルと言うのは、4章7節の「支配」と言う意味です。

スタインベックは英語の聖書でカインとアベルの物語、創世記4章を読んで衝撃を受けます。それは彼の読んだ英語の聖書はキング・ジェームズ・ヴァージョン、17世紀に作られた英国欽定訳聖書だったのですが、その訳では4章7節後半は、thou shalt rule over him お前は彼を支配するだろう、つまりカインは罪を支配し、罪の誘惑に屈服しないであろうと言う訳になっていたからです。

カインは怒りに駆られて、その衝動を抑えることができず、弟アベルに打ちかかって彼を殺してしまったのに、なぜ、それと正反対のことばが書かれているのか、スタインベックは驚くのです。

そして彼は20世紀になって出版された、米国標準版聖書American Standard Version を比べて読むのです。するとそこには、命令形で Do thou rule over him つまり、お前は罪を支配しなければならないと訳されているのを見ます。そして、欽定訳と新しい標準訳では、一方では約束になっているのが、他方では命令になっているその違いに注目するのです。

カインには罪を犯す以外の選択肢があり得るのか、カインのような立場に立たされたら、人間は誰だって、弟を殺すほかないではないか。カインが罪を支配する可能性など、どこにもないはずだと思われるのではないでしょうか。
だとすれば、神はカインに向かってできないことを命令しているのだ、お前は罪を支配しなければならないと言う命令は、神がカインに不可能なことを命令しているのだと解釈することになります。

しかし、これが命令形でなくて、神がカインにお前は罪を支配するであろう、お前には罪を支配することができるのだと言う約束であるとしたら、それは、果たしてどのような形で可能になるのでしょうか。神の約束はいつ、どのように実現するのでしょうか。

スタインベックは、アダムがいまわの息で、ティムシェルと呟いて死んでゆく姿を描くことによって、その希望を表したのだと思います。

カインが弟アベルを憎み、殺す、それ以外の道、それは弟アベルを愛する道です。
わたしたちはどうしたら、心から兄弟を愛することができるのでしょうか。

新約聖書のヨハネの手紙は、「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。」と言います。
自分は死から命へと移ったと言うことは、かつては死の中にいたと言うことです。かつての自分は弟アベルを殺したカインと同じような人殺しであったと言う告白です。そのような自分が死から命へと移された、兄弟を愛せなかったものが、兄弟を愛せるようにされた、それはどのようにして可能になったのでしょうか。3章16節にこう記されています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」

主イエスは、わたしたちを、自分の兄弟として、自分よりも愛してくださったのです。主イエスは私のことを、自分よりも優先し、喜び、愛されるゆえに、自分の命をわたしのために差しだされたのです。そのようにしてキリストはわたしの兄弟となってくださいました。

主イエスがわたしの兄弟として、わたしを愛される、その愛を知ったことによって、わたしは主イエスをわたしの兄弟として愛さずにおれなくされます。その兄弟である主イエスに倣って、わたしも兄弟を愛し、自分の命よりも兄弟の命を優先し、喜び、愛するのです。聖書は言います。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」

しかし、本当にわたしたちは兄弟のために命を捨てることができるのでしょうか。

わたしたちがわたしたちを愛して、わたしたちの兄弟となられた主イエスを愛するならば、そして、わたしたちが心からその兄弟主イエスを愛し、主イエスを喜びとするならば、わたしたちも主イエスに倣って自分の命を兄弟のために捨てることができるようになるでしょう。なぜなら、主イエスを愛する人は、主イエスが愛する人を愛するからです。主イエスが命を捨てて、その人のために死なれた人を、わたしたちが兄弟として愛して、その人のために命を捨てようと思うでしょう。

カインが弟アベルを愛すること、カインが自分よりもアベルを優先させ、喜び、祝福し、愛することは可能でしょうか。そうして罪をティムシェル、支配することは可能でしょうか。

罪人カインを愛し、カインのために死んでくださり、カインの兄弟となってくださったイエス・キリストによって、カインもまた罪を支配し、兄弟を愛する命をいただくことができるのです。  父と子と聖霊の御名によって