聖日礼拝『満ち足りることを知る信心』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 コヘレトの言葉5章14~19節
新約聖書 テモテへの手紙(1)6章6~8節


『満ち足りることを知る信心』

今日は「満ち足りることを知る信心」という題でお話をいたします。
6章6節に「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」とあります。

信心とは、神を畏れ敬うことです。信心が大きな利得の道だとは、5節にありますように、心得違いというか、たとえば信心の行為である礼拝、それを商売道具とするというのは、明らかな間違いです。でも、この手紙を書いている使徒パウロはそれを認めた上で、なお、神を畏れ敬って生きる人の生涯には大きな利得、益がもたらされるということを肯定するのです。

最近出た、新しい聖書翻訳によれば、6節は「満ち足りる心を伴った敬虔は、大きな利得の道です」となっています。信心を敬虔と言い換えていますが、それを形容する言葉として「満ち足りる心を伴った」という言葉を付して、信心でも「満ち足りることを知る信心」こそ人生にとって大きな利得の道だというのです。

神を敬い、畏れつつ生きる人は、またそのようにして生きた信仰者は、その一生を振り返るとき、満たされた思いをもって世を去ることが出来る。本当に幸いな生涯だった、感謝だった、何も後に思い残すことはないと言える。そういうことは確かにあることです。
パウロがここで言おうとしているのは、そういうことなのでしょうか。

と申しますのは、直ちにこういう疑問が湧いてくるからです。神を信じて生きるなら、物質的に恵まれ、何不自由ない生活が保証されるというのであれば、また、神を畏れ敬って生きる人は、病気知らずで、健康な生涯を送り、天寿を全うすることができるというのであれば、この世には、若死にする人、若くして不治の病に冒されて、惜しまれつつ世を去るもいるのです。そういう人のことをどう考えたら良いのでしょうか。不慮の事故で、幼い子供達、最愛の伴侶、年老いた両親を後に残して、心残りな中で突然世を去らねばならなかった人のことはどう考えたら良いのでしょうか。皆が皆、本当に幸福な生涯を送れて満足だと言って死んでゆくわけではない中で、そういう人は、信心を欠いていた、そのために信心のもたらす利得を得ることができなかったということになるのかという疑問です。

神を信じること、それが幸いな人生を送る条件だということ、神への信心の見返りとして幸せで、悔いのない、満足した生涯が約束されるということを聖書はわたしたちに教えているのでしょうか。その反対に、信心を欠けば、不幸にして、悔やまれるような生涯を送ることになるということを言っているのでしょうか。
7節の言葉「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときには何も持ってゆくことができない」は、先ほど読まれた旧約聖書のコヘレトの言葉と、内容が一つです。
「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で行くのだ。労苦の結果を何一つ持って行くわけではない。」(コヘレトの言葉5:14)

わたしたちは確かに、何一つ持たずにこの世に生まれました。そして世を去る時には何一つ持って行くことはできません。裸で生まれ、また裸で死んでゆきます。それはその通りです。でも、コヘレトの言葉が「来た時の姿で行くのだ」といいますが、こういうことはないでしょうか。
先週、敬愛する藤島弘子さんをお送りした時、最後、火葬が終わって、お骨になってしまった藤島さんを、小学生の小さなひ孫の女のお子さんが、信じがたいような表情を浮かべて、収骨室の中で呆然と立ち尽くしていたのが心に残りました。愛するひいおばあさんが白骨に化してしまったことをどう受け止めて良いかわからなかったのでしょう。

生まれるときと死ぬとき、新しい命の誕生と白骨と化した死、それは同じ姿でしょうか。命が生まれでることは輝きに満ちた、命の躍動する瞬間であり、それは命が失われる死にはるかに優っているのではないか。
しかし、命の輝きと祝福に満ちていた誕生、生まれ出ることもまた、最終的にはむなしい、死に行き着くとすれば、死にはるかに優るはずの誕生もむなしい、それが虚しくないはずだと思われた分、それだけ一層虚しいのかもしれません。
同じコヘレトの言葉の中に、生まれる日が死ぬ日にまさるのではなくて、その反対、「死ぬ日は生まれる日にまさる」(コヘレト7:1)という言葉があります。

何れにせよ、人の生涯はここに言い尽くされているように、何も持たないで裸で生まれることと、何も持たないで裸で死ぬことに挟まれたものです。その生涯がいかに華々しい業績や経歴に満たされていようが、その反対に不幸なあっけない短いものであろうが、この生まれることと死ぬことという2本の柱、二つの門にはさまれていることは、何人も免れない定めです。

この7節の言葉を外国での生活をする人に重ねて受け止める注解者もいます。皆さんの中にも戦前、満州の大連、中国の上海、青島、あるいは台湾、朝鮮で過ごされた方もおられると思いますが、戦争が終わったとき、引揚者となった方達は、外地で営々と築いた財産、土地、家屋一切を失い、ある意味、裸で何一つ持たないような形で日本に帰ったのではないでしょうか。

それと似たことが人生にも言えます。地上で生きる時の長いか短いかに関わらず、死ぬときは、何一つ携えてゆくことはできません。そういうわたしたちにとって、この地上で生きる間に「満ち足りることを知る」信心を持つとはどういうことなのでしょうか。

聖書は続く8節で、食べる物と着る物があれば、それで十分、満足すべきだと言います。空腹を満たし、裸を覆うものがあれば良いと言います。実際、地震や水害で避難した人にとって、何も食べるものがない中で、空腹を満たすためのおむすび一つ、温かいいっぱいのスープがあれば、また裸で凍えそうな中で、着るものや、眠るための一枚の毛布があれば十分でしょう。でも一時的にそのような必要を満たすものが与えられる、それが満ち足りることを知ることの全てでしょうか。わたしたちを本当に満ちたらせてくれるもの、信心が、神を畏れ敬うことがもたらす益はそれに尽きているのでしょうか。

人生において、人の手を通してであれ、自らの手で働いた労働の報酬としてであれ、多くの助けと恵み、良いもの、感謝すべきもの、その全ては父なる神から来ること、父なる神がわたしたちに惜しみなく良いものをそなえ与えてくださることを知って、神に信頼し、いつも感謝し、平安であることができること、それは信心が与える大きな利得への道を歩むことです。
それだけではありません。わたしたちにとって、コヘレトの言葉が言うように「死ぬ日が生まれる日にまさる」、死が誕生にはるかに優ることを知ること、それが信心のもたらす大きな利得なのです。なぜなら、イエス・キリストがわたしたちのために、死んで、復活し、永遠の命への道を開いてくださったからです。わたしたちが地上に生きている間に、このイエス・キリストの福音、このお方によって永遠の命への扉が開かれたことを知ること、それが信心のもたらす大きな利得であるのを知ると言うことなのです。死は地上の命にはるかに優る永遠の命への門出なのです。信心はわたしたちに、この世の命と来たるべき世での命をもたらします。(1テモテ4:8)

神から与えられるこれらの恵みは、信心の見返りではありません。信心を条件として、信じた結果、信じた人がその信心の報いとして与えられるものではありません。これはまさに、恵み、見返りなしに無償で神がお与えくださる一方的な愛の贈り物なのです。それを知って、満ち足りた心を持っていき、死ぬことができる、それが信心のもたらす大きな利得の道です。

使徒言行録の3章にこういうことが書かれています。エルサレム神殿の美しの門に、生まれつき足の不自由な男の人が物乞いをしながら座っていた。その人が、祈るために神殿にきた使徒ペトロに施しをこうたとき、ペトロは「金銀はわたしにはない。しかし、あるものをあげよう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって立って歩きなさい。」
わたしたちは、自分自身、不足のないものではありません。日々の糧を必要としており、健康だと言っても、誰も明日の命、いや今日の夕方どこにいるかわからない儚い命を生きています。自分自身、助けを必要とする貧しいものである以上に、わたしたちには困っている人を助けようとする上で、絶対的に貧しいのです。19世紀のイギリスにジョージ・ミラーという牧師がいました。この人は「祈りの人」と呼ばれました。この人は孤児の世話をしましたが、孤児を養うためのお金も、収容する施設も、神様に祈って与えていただくほかない、貧しい牧師だったのです。

今日のこのテモテへの手紙を書いている使徒パウロもそうでした。そのパウロがフィリピの信徒への手紙でこう書いています。4章11節以下(366ページ)。
いついかなる場合にも対処する秘訣、自分の置かれた境遇に満足することができるようになった、それは、ペトロが言ったように、金銀はなくても、何をも持たなくても、イエス・キリストを持っているということです。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(2コリント8;9)

わたしたちがこのお方を持っていること、豊かさの中にあっても、貧しさの中にあっても満ち足りることを知る秘訣です。いや、それ以上に、わたしたちが、生きるときも、死ぬときも、わたしたちのものではなく、イエス・キリストのものである、これが満ち足りることを知る信心の中心なのです。

裸で生まれたわたしたちを地上で生かしてくださった神は、もう一度裸でこの世をさるわたしたちを、来たるべき世においてさらにまさった命に生かしてくださるでしょう。
わたしたちは、イエス・キリストのものなのです。このお方がご自身の死と復活にわたしたちを結びつけてくださって、生きるときも、死ぬときもわたしたちをご自身のものとしてくださり、わたしたちを通して神の栄光を表してくださるのです。

そのことをパウロは力強くこう語りかけます。ローマの信徒への手紙8章35〜39節。

わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことのできるものは何一つないことを知って、心から神を信じて、神を崇めて生きること、それが「満ち足りることを知る信心」です。

父と子と聖霊の御名によって。