聖日礼拝『弟子たちを遣わす』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エゼキエル書37章1~6節
新約聖書ヨハネによる福音書20章19~23節


『弟子たちを遣わす』
ヨハネ20章19〜22節
エゼキエル書37章1〜6節
讃美歌 366 467

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」19節
「その日、すなわち週の初めの日の夕方」というのは、その日、すなわち週の初めの日の朝
早く主イエスが墓からよみがえった日の夕方、イースターの夕方のことです。この日は、主イエスが死に勝利され、復活された日だったのです。にも関わらず、そのイースターの日曜日の夕方、弟子たちは「ユダヤ人」からの迫害を恐れて、戸に鍵をかけて、ひっそりと隠れるようにして、家の中に閉じこもっていたのでした。
弟子たちの愛してやまない主はユダヤ人に捕らえられ、十字架につけられ、殺されてしまいました。その恐れが弟子たちの心に残り続けていたのです。弟子たちは主イエスが捕らえられた最後の夜、ゲッセマネの園でユダヤ人の祭司長の手下が主イエスに手をかけるのを見ると、全員、蜘蛛の子を散らすように、主イエスひとりを後に残して、逃げてゆきました。
主イエスが「あなたがたは散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」(ヨハネ16:32)と言われた通りになりました。
弟子たちは主イエスを一人きりにして、それぞれ自分の家に、自分の命が守られる安全なところに帰っていったのです。そして、この週の初めの日の夕方に、弟子たちが閉じこもっていたのは、主イエスを一人きりに後に残してそれぞれの家に帰った、その延長線上にある家でした。

今日は、今年のイースター復活節から6週目の日曜日です。先週の木曜日、5月21日は、復活節から数えて40日目に主が天に昇られたことを記念する昇天日でした。イースターからの40日間、主イエスは度々弟子たちに現れ、ご自身の生きておいでになることを示され、彼らと食事を共にされたと使徒言行録1章は記しています。今年、わたしたちは4月12日の復活節から今日までの6週間、どのように過ごしてきたでしょうか。昨年までは、イースターからペンテコステまでの7週間、毎週、礼拝の中で聖餐を守り続けました。しかし、今年は一度も聖餐を守れなかったどころか、教会に集まって礼拝を守ることさえできませんでした。こんなことは、長い信仰生活の中でこれまで一度も経験したことがありませんでした。ステイホーム、外出を自粛するようにと言われる中で、礼拝に集まることも控えました。それは何のためだったかといえば、集まることによって、自分の命を危険に晒さないため、それ以上に、弱い人、大切な人々の命を危険に晒さないためでした。
この復活節の日の夕方、家に閉じこもっていたあの弟子たち同様、わたしたちもまた不安と恐れに捕らえられていました。それは死に対する恐れです。自分の死、また愛する人々の死を恐れる恐れです。でも、わたしたちは家に閉じこもっていれば、安全で安心できたかといえば、そうではありませんでした。家の中にも、わたしたちの心の中に恐れがあったからです。そして、今日、わたしたちは再び、この礼拝堂に集まって礼拝を守っていますが、わたしたちはマスクをつけ、互いに距離を置いて座っています。わたしたちを取り囲む新型コロナウイルスによってもたらされる死の危険と恐れは過ぎさっていないからです。

しかし、その死の恐れに閉ざされていた家の中に、復活の主イエスが平和を携えて入って来られたのです。「あなたがたに平和があるように」。
「そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」20節
復活の主イエスの手には釘痕が刻み込まれ、脇腹には槍で刺し貫かれた深い傷跡が残っているのを弟子たちは見たのでした。
主イエスが弟子たちにもたらされた平和、それは万事、何事もなく、平穏無事に過ごすという平和ではありませんでした。主イエスの言われる平和とは、主イエスの手と脇腹の傷跡が物語っているように、主イエスの受けた傷、トラウマが癒された平和だったのです。弟子たちが主イエスを一人きりにして家に帰っていった、その後に残された主イエスが味わった孤独、裏切りによって受けた悲しみと心の傷、それは癒され、乗り越えられたのです。
どのようにしてそのトラウマは乗り越えられたのか、それは主イエスが「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、わたしは一人ではない。父がわたしと共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」と言われるように、人々が去ってゆき、もっとも信頼し、愛する弟子たちまでもが主イエスを見捨てて、主イエスだけが一人きりに残されても、なお、父なる神さまが共にいてくださる平和のことです。この平和によって支えられ、主イエスはこの世の苦難に勇気を持って立ち向かい、ついに死の恐怖と絶望に勝利してゆかれました。

弟子たちは主を見て喜んだ。20節後半。この弟子たちの喜びは、主が先に言われたように「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が産まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜びことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(16:20以下)との約束の実現でした。

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす」21節
弟子たちの主イエスとの再会の喜びは、その喜びの時が時計の針が止まって、ずっと続くような喜びではなく、その場に満ちた平和も、その場所に永遠にとどまり続けるような平和ではなかったのです。弟子たちは平和を受けつつ、それを携えつつ、その場から外へと、その瞬間から将来へと派遣されるのです。

先ほど見たように復活の主が携えてこられた平和は、傷跡、トラウマをくぐり抜けてきた平和、主イエスがたった一人になっても、ともにいてくださる父なる神のゆえに、勇気を出して十字架の苦しみに耐え、あらゆる試みに打ち勝っていった平和であったように、弟子たちを新たに、恐れに満ちた外の世界へ、不安に満ちた将来へと送り出すものだったのです。

主イエスは弟子たちを派遣されるにあたって、父なる神が御子をこの世に派遣されたように、主イエスも弟子たちを派遣されると言われました。弟子たちの派遣と、父なる神による主イエスの派遣がどの点において同じであるかといえば、主イエスが父なる神から派遣された時、父なる神は、ご自身が派遣された主イエスの背後にあって、いつも主イエスと共に働き、主イエスの語られること、なされる業全てを全面的に支えておいでになった、そのように、主イエスも、弟子たちを派遣されるにあたり、彼らとともにいて、彼らの業も言葉も全面的に主イエスが支えられると言うことです。
派遣する主イエスと派遣される弟子の関係は、ぶどうの木とぶどうの枝の関係です。弟子たちが主イエスによって派遣されるとは、ぶどうの木である主イエスが、ブドウの枝である弟子たちを生かし、ぶどうの枝である弟子が、ぶどうの木である主イエスがなさるように、主イエスの模範に倣いつつ、人の足を洗い、罪を赦し、友のために命を捨てるほどに友を愛するために生きてゆくということです。

主イエスは弟子を派遣することと並行するように、弟子たちに約束の聖霊を送り、聖霊を遣わされます。
「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」22節
弟子の派遣と聖霊の派遣が並行すると言う意味は、弟子をブドウの枝としてぶどうの木に接ぎ木されるのが聖霊によってであるからです。
聖霊は神の息であり、神から吹いてくる風です。弟子たちはヨットのように、聖霊の風を帆に受けて大海原へと押し出されてゆくのです。

ところで、先ほど読まれた旧約聖書のエゼキエル37章に、枯れた骨が出てきます。枯れた骨とは罪のうちに死んでいる者のことです。その枯れた骨とは、ちょうどぶどうの樹の枯れた枝に似ています。主は預言者に、枯れた骨が生き返ることができるかと問われます。それは、枯れてしまった枝がもう一度、生きることができるかというのと同じです。枯れた骨に聖霊の息が吹きかけられると、枯れた骨が生き返ります。そのように、聖霊が、枯れてしまったブドウの枝を、ぶどうの木に再び接いでくださることによって、ブドウの枝は生き返り、豊かに実を結ぶようになるのです。

「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」23節
主イエスのところに床に乗せられて運ばれてきた中風の人に向かって、主イエスが「あなたの罪は赦される」と言われた時、それを聞いた律法学者が、主イエスは神を冒涜している、「神お一人の他に罪を赦すことはできない」と心の中で主イエスを批判しました。それに対して、主イエスは「人の子は地上で、罪を赦す権威を持っている」と言われたのでした。
父なる神が主イエスを派遣されたのは、地上で罪を赦す権威を行使させるためでした。
主イエスが、地上であなたの罪は赦されたと言われるとき、主イエスを遣わされた父なる神は天においてわたしたち人間の罪を赦されるのです。
そして今、父から地上で罪を赦す権威を持つものとして遣わされた主イエスが、弟子たちを遣わされます。そして、弟子たちがあなたの罪は赦されたと告げるとき、今、天におられる主イエス、弟子たちを派遣された主がわたしたちの罪を赦されると言われるのです。そして主イエスがわたしたちを赦されると言われるとき、主イエスをお遣わしになった父なる神がわたしたちの罪を赦すと宣言し、わたしたちを天国に迎え入れてくださるのです。

罪の赦しとは何でしょうか。弟子たちがここで「あなたの罪は赦された」と言うとき、その赦される罪とは一体なんのことでしょうか。わたしの罪とは、わたしが神との交わりを失っていることです。神から離れてしまっているということです。ぶどうの枝がぶどうの木から離れてしまっているために、何の実も結べず、枯れて死んでゆく他ない姿のことです。神から離れた人は、何一つよきことができないままに、死んで滅びてゆくほかありません。それゆえ、罪が赦されるとは、ぶどうの木から離れている状態から、ぶどうの木に繋がれて、もう一度生かされ、良い実を結ぶ枝とされることです。キリストという木の中に、自分の場所を与えられ、神から愛される者として、神を愛し、兄弟を愛して生きるようになることです。

わたしたちは、今年、しばらく主イエスから切り離されたような時を過ごしましたが、今、もう一度、聖霊によって主イエスにしっかりと接ぎ木していただきましょう。そして、主イエスから遣わされる弟子たちとして、すなわち、主イエスというブドウの木に連なる枝として、ぶどうの木である主イエスの命によって養われ、生かされて、主イエスの語られる言葉を語り、主イエスのなされるわざをなして行きましょう。

主は言われます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい、互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34)

父と子と聖霊の御名によって。