聖日礼拝『わたしの平和』 説教 澤 正幸牧師

聖霊の導きを求める祈りと聖書朗読  
旧約聖書 詩編25編4~11節
新約聖書 ヨハネによる福音書14章25~31節

説教

執り成しの祈り 内田 聡長老

祝福


『わたしの平和』
ヨハネ14章27節  
詩篇25編4〜11節
賛美歌 149  532

27節「わたしは、平和をあなたがたに残す」。
主イエスは「シャローム!」と言い残して弟子たちのもとを去ってゆかれます。「わたしは、平和をあなたがたに残す」とは、弟子たちに別れを告げると言う意味です。
わたしたちは別れに際して、「さようなら」と言いますが、主イエスがここで「平和をあなたがたに残す」というときの、平和というのはシャロームという言葉で、それは、ユダヤ人の間で別れの際に用いる挨拶の言葉です。シャロームは、もともと平和という意味です。
でも、ユダヤの人は別れに際して、なぜ平和というのでしょうか。別れの時は、別離の悲しみを味わう時であり、心は平安であることはできないのではないのか。ましてや、もはや地上では二度と会うことの叶わない永遠の別れであれば、涙に暮れて、泣き悲しむほかないでしょう。ですから、シャローム、平和、魂の平安は別れのときの心情と正反対のものではないのだろうかと思われます。

そもそも、主イエスは、どうして弟子たちを後に残して去って行かれるのでしょうか。弟子たちが願うように、いつまでも弟子たちと共にいてくださらないのでしょうか。
十字架の死を間近にされた主イエスに、一人の女性がナルドの香油を注いだとき、それを非難した弟子たちに向かって、主イエスは「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われました。「わたしはいつも一緒にいるわけではない」というこの言い方はギリシャ語の原文では、あなた方はいつも私を持っているわけではないという言葉になっています。

平安、平和とはどういうことでしょう。それは安全を保障されていること、安心、安全を保有していること、核兵器で武装し、敵を殲滅する武力を持っていることだと考えられています。健康を持っている、お金を持っていて、生きてゆくのに困らないだけの保証があるなら平安でいられる。おおよそ、何かを所有していることが平安であり、それとは反対に、お金もない、健康もない、武器もない、将来に向けて何の保証もないならば、人は平安であることはできず、恐怖に怯えるしかないと思われています。

それゆえ、弟子たちにとって主イエスが共にいてくださることは安心であり、いなくなることは不安です。しかし、主イエスを持つことはできない、弟子たちにはいつまでも主イエスを自分たちの元に引き止めておくこと、主イエスを持ち続けることはできませんでした。

28節「わたしは去ってゆくが、また、あなた方のところへ戻ってくる」。
主イエスが去られるとは、端的に言えば、主イエスが死なれるということです。主イエスは死ぬために弟子たちのもとを去られます。しかし、主が死なれるのは、弟子たちのもとへ戻ってこられるためなのです。死んで弟子たちのもとから去って行かれる主イエスは、死を克服された方として、再び弟子たちの元に戻ってくるため、そのために弟子たちのもとを去ろうとされたのでした。主が弟子たちのもとに戻って来られる日には、今度は、いつまでも、永遠に弟子たちと共にいてくださるのです。

27節「わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」
わたしの平和、すなわち主イエスが与えてくださる平和は、世が与えるような平和ではないとは、どういう意味でしょうか。
世が与える平和、それは先ほど言ったように、何かを所有することによって実現される平和のことでしょう。主イエスがお語りになった愚かな農夫の喩え(ルカ12:16以下)に出てくる農夫がそうでした。倉庫一杯に山のように積み上げた食糧の備蓄が彼の命を保証すると考えて、我が魂よ、安心せよと言いました。しかし、神はこの愚かな農夫の命を、一夜にして取り上げてしまわれたのでした。
この喩えは、この世の与える平和は、見せかけの平和であって、真の平和ではあり得ないことを教えています。

世の平和が所有する平和であるのに対して、主イエスの平和は、何も持たない平和です。カラスが種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たないけれども、神に養われている、その空の鳥を見、野の草を見て、父なる神に信頼して、何を食べようか、何を飲もうかと思い煩うことのない平和、父なる神における平和のことです。しかし、主イエスの与えてくださる平和は、思い煩うことのない平和にとどまりません。

主イエスの平和は、危険と恐怖を知らない平和、危険と恐怖に襲われることのない安全地帯に置かれる平和ではなかったのです。
主イエスはここで弟子たちに「心を騒がせるな。怯えるな」と言われますが、そう言われる
主イエスご自身、「心を騒がせた」とヨハネによる福音書は記録しています。(12:27、13:21)主イエスの平和とは、ご自身、恐れと不安を味われたお方が、なお恐れと不安のただ中にあって抱いておられた平和であり、それゆえに、今なお不安と恐れの中にあるものに与えてくださる平和なのです。

ところで、わたしたちは、今日も礼拝を「わたしたちの父なる神と主イエスキリストから恵みと平安があるように」との挨拶を受けて始めました。この礼拝は、主イエスによって与えられる平和のもとに守る礼拝です。
しかし、ここにある平和、わたしたちが守る礼拝にある平和とは、どのような平和かを省みるとき、私たちは何に気づかされるでしょうか。例えば、沖縄の宜野湾告白伝道所の礼拝に参加すると、その礼拝はしばしば普天間の米軍基地を飛び立つ戦闘機の轟音で継続できなくされ、中断を余儀なくされることを経験します。
また九州中会には、また、全国の教会にも無牧の群れがいくつもあります。無牧の教会の礼拝は、文字通り、牧師を持たない教会の不安と恐れの中で守られています。
さらに、いま、わたしたちは礼拝に集まることができない状態が続いています。集まったら、集まったで、恐れと不安があります。しかしまた、このように散らされ、集まれない状態がいつまで続くのかということはさらに大きな不安です。

復活節の夜、その朝にマグダラのマリアから「わたしは主を見ました」と主イエスの復活の知らせを聞かされても、弟子たちは、主イエスが復活されたという喜ばしい知らせを聞いたはずなのに、なおもユダヤ人を恐れて、扉を閉じて、鍵をかけて集まっていました。弟子たちは「心を騒がせ、怯えていた」のでした。それは今の教会、わたしたちを映す鏡でもあります。

主イエスの平和は、死を知らない、死の脅かしを知らない平和ではありません。主イエスご自身、死を前にして、心を騒がせ、マルコによれば「悲しみのあまり死ぬほどである」(マルコ14:33以下)と極限の恐れに満たされていた心の内を吐露されました。主イエスの平和とは、そのような試練と危機の中にあった主イエスが、それでもなお父なる神に向かって、アバ父よと祈りつつ、父なる神により頼んで、ついに勝ち取られた平和です。

30節「世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」
世の支配者とは、死の力を持つ者(ヘブル2:14)、サタンのことです。死の力をもつサタンはひたすら滅ぼします。サタンは絶対に人を救いません。命を助けたりはしません。悪魔は無慈悲に冷酷に残酷に破滅をもたらす支配者です。いっぺんの憐れみも愛もありません。敵に情け容赦なく襲いかかり、抵抗しようとするものを脅迫し、屈服させます。

しかし、サタンは主イエスに対して何をすることもできないのです。わたしたちがサタンに反抗し、抵抗したいと思っても、わたしたちはサタンに対して無力です。なぜなら究極的にサタンに弱みを握られていて、逆らえないのです。それはわたしたちには罪過があるからです。過去に犯した罪をサタンは容赦なく暴きたて、処罰を要求します。サタンはそれゆえ、罪あるわたしたちを滅ぼしても当然なことをしたまでだと神様に主張するのです。

けれども、主イエスは違います。主イエスには罪がないからです。サタンは主イエスに手をつけることはできません。サタンは主イエスを殺すでしょう。しかし、主イエスを滅ぼすことはできません。主イエスの正しさは最終的に勝利するからです。

主イエスはこうして、死の力をもつ、滅ぼす者であるサタンを、ご自身の死をもって滅ぼされました。そして、わたしたちのもとに、罪の赦しを携え、愛と命に満ちた勝利を携えて、戻ってきてくださいました。そうです。主イエスは死を克服した者として、ご自身の勝利を携えるだけでなく、わたしたちの罪の贖いを成し遂げられた方として、わたしたちの罪の赦しによる永遠の命、わたしたちのためにも、死に対する勝利を携えて、戻ってこられたのです。

このような平和、それが、主イエスが弟子たちのもとを去るにあたって、弟子たちに残された平和でした。主イエスが復活されたいま、主がわたしたちにくださる平和も同じです。今日も、この礼拝において与えられている平和も、そのような主イエスの平和です。すなわち、わたしたちを取り囲む、不安と恐れ、そのただ中にあって、貧しい、罪びとの群れである私たちが、何も持たないけれども、主によって与えていただく平和、すなわち罪の赦しによっていただく神との平和、罪赦されたものとしての喜びと主に対する愛における平和、罪赦されたものとして兄弟同士、互いに赦し合う平和、そして主が約束してくださる復活の命、永遠の命における平和です。

わたしたちは主イエスを所有することはできません。主イエスを意のままにすることなどできません。もし、主イエスがわたしたちに所有されるお方だとしたら、それは、マスコットのような主イエスであって、偶像に他なりません。

主イエスは生きておられます。神であられ、主であられ、創造主であられます。その主がわたしたちをご自身のものとしてくださり、わたしたちの元に来られ、わたしたちと共にいてくださいます。わたしたちが主を持つのではありません。主がわたしたちを「造り、担い、背負い、救い出される」(イザヤ46:4)のです。この主イエスこそわたしたちの平和、全世界のすべての人の平和です。

父と子と聖霊の御名によって。