聖日礼拝『シャローム、あなたがたに平和があるように』 説教 澤 正幸牧師

聖霊の導きを求める祈りと聖書朗読  澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記2章7節
新約聖書 ヨハネによる福音書20章19~23節

説教

執り成しの祈り  谷村禎一長老

祝福


『シャローム、あなたがたに平和があるように』
2020年4月19日 礼拝説教
ヨハネ20章19〜23節
創世記2章7節
讃美歌 321 334

20章19節の冒頭にあります「その日」とは、「その日」に、弟子たちが集まっていたその集まりの真ん中に復活された主イエスが立たれた日であり、主が恐れる弟子たちに「シャローム!あなたがたに平和があるように」と平和を告げられた日であり、弟子たちが主を見て喜びに満たされた日であり、主が聖霊を受けよと言って、弟子たちに息を吹きかけてくださった日、そして彼らに罪の赦しの恵みを与えてくださった日でした。

それゆえここに記されている「その日」とは、わたしたちが今、週ごとに礼拝を守る「主の日」の原型です。なぜなら、わたしたちの集まる礼拝に、主イエスが、復活の主として臨んでくださって、わたしたちに平安と喜びを満たしてくださり、罪の赦しにあずからせてくださるのが「主の日」であり、「その日」はそのような「主の日」の原型だからです。

ところが、そのような、わたしたちの「主の日」の原型である、「その日」に、弟子たちは「ユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と書かれています。

これはどういうことなのでしょうか。つまり、この「週の初めの日の夕方」に集まっていた弟子たちは、その日の朝、復活の主がマグダラのマリアに現れてくださり、弟子たちのところを訪れたマグダラのマリアの口から「わたしは主を見ました」と告げられるのを聞いていたはずでした。そうだとしたら、その日の夕方、弟子たちが、閉ざされた戸の後ろで、ユダヤ人を恐れつつ集まっていた、その集まりは、主イエスが復活されたという知らせを聞いていなかった集まりではなくて、すでに主イエスの復活の知らせを聞いていた集まりだったはずです。それなのに、弟子たちは閉ざされた戸の背後に隠れるようにして集まっていたことを意味します。

そうだとすれば、ここに書かれている「その日、週の初めの日の夕方」の礼拝、それがわたしたちの「主の日」に守る礼拝の原型であるということの意味は、先ほど言った弟子たちが復活の主を見て喜びに満たされたというだけではなく、弟子たちが抱えていた恐れ、彼らがマグダラのマリアから主の復活の知らせを聞き、それゆえに、主の復活を信じる信仰なしにではなく、その信仰を持って集まっていたにも関わらず、その礼拝が、閉ざされており、外部に対する恐れを抱えていたということ、そのことをも含むことになるでしょう。

一体それはどういうことなのでしょうか。本当にそんなことがあるのだろうかと思われるかもしれません。でも、それが本当のことだと思います。このとき、弟子たちは主イエスの復活を聞かされてなかったために、恐れて部屋に閉じこもっていたのではなく、主イエスの復活を知りながらも、なお恐れて自分たちのいるところに鍵をかけて隠れていたのです。
現に、今年、復活節の礼拝を守ったわたしたちがそうでした。

しかし、みなさん、主イエスは、閉ざされていた恐れの壁を通り抜け、不安と恐怖の障壁を突き破るようにして、復活されたお方として、弟子たちのところに来てくださり、彼らの心から恐れを取り去り、恐れを平安に変え、彼らの心を喜びで満たしてくださいました。これこそが復活節の出来事であり、わたしたちが守る「主の日」の礼拝の原型なのです。

弟子たちがこの夜、抱えていたのは、「ユダヤ人に対する恐れ」だったと書かれています。最後の夜、ペトロを震え上がらせた、あの「あなたもイエスと一緒だった」というユダヤ人からの追及と迫害の恐怖は続いていました。外から来るユダヤ人による迫害の恐れは、弟子たちの内部に、お互いに対する疑心暗鬼を生み出しかねませんでした。自分たちの間から、第二のユダが出はしないか、現にその夜、トマスの姿が見えなかったのでした。それは弟子たちの心に不安を掻き立てずにはおかなかったことでしょう。まさか、トマスまでが、弟子たちをユダヤ人の指導者に売り渡そうとしているのだろうかと。

主イエスが復活しておられる、そうマグダラのマリアから聞かされたとしても、それだけでは、弟子たちがこのとき抱えていた恐れは解消しなかったのだと思います。

しかし、弟子たちにとって、自分たちの力では解消するすべのなかった恐れのゆえに、戸を閉じて、部屋の中に閉じこもらざるを得なかった弟子たちの、そのただ中に主が、主の方から壁を通り過ぎて来てくださったのでした。復活の主が弟子たちのところに来ることを妨げることは、どんな力を持ってしてもできなかったのです。弟子たちを主イエスから遠ざける力、それは物理的な力であろうと、心理的な力であろうと、政治的な力であろうと、いかなる力を持ってしても、復活された主イエスが、すべての力に勝利された主として、弟子たちの元に来ることを阻むことはできなかったのです。最後の夜「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなた方のところに戻ってくる。」(ヨハネ14:18)と言われた主は約束どおり、弟子たちをみなしごのままにしておかれませんでした。彼らの元に戻って来てくださいました。「あなたがたは、今、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16:22)と言われた通り、主は弟子たちの心を喜びで満たしてくださいました。

先週の説教で、わたしたちには「聞いても聞かない、見ても見ない」ということがあること、それが復活節の日、最初に主イエスがその姿を現されたマグダラのマリアや、エマオ途上の二人の弟子においてあったということを聞きました。マリアもエマオの弟子たちも復活の主イエスを見ても認めることができず、その声を聞いても悟ることができなかったのでした。今日の箇所でも、弟子たちはマグダラのマリアから主イエスが復活されたことを聞いていたはずでした。それでも、弟子たちの心から恐れが消え去ることはありませんでした。彼らは自分たちを取り囲む、自分たちの力では如何ともし得ない不安と恐れのために、戸の後ろに隠れるようにしている他なかったのでした。そのような彼らの不安と恐れを、ただ、復活の主が取り除いてくださったのでした。弟子たちはマリアから聞いた言葉を疑わずに信じたとしても、主イエスの復活の出来事は彼らの理解を超えていました。主イエスの復活は、彼らの不十分な信仰、限界ある理解をはるかに超えた出来事だったのです。

22節で主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われます。これは最初の人アダムに、神が息を吹き込まれたことに対応する、わたしたち人間の新たな創造の出来事を示しています。復活の主キリストは、わたしたちを新しい人間として生まれさせてくださるのです。
聖霊は神の息吹であり、また、ギリシャ語で息はプニュウマと言いますが、それは風とも訳されます。神の息吹、神の吹かせたもう風である聖霊。みなさんがご存知のように、心地よい春のそよ風であれ、あるいは夏の台風の暴風であれ、人間がそれを吹かせようとして吹かせることはできないし、風を吹きやむようにさせることもできません。風は自由に吹き渡ります。神の風である聖霊がわたしたちに吹き寄せることも、それは神の自由、神の主権によることです。神が聖霊の風を送ることを妨げることができるものは何一つありません。そうです、何もです。

先週、復活された主イエスが、マグダラのマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい。わたしはまだ父の元に上っていないのだから。わたしはこれから父の元に上る。それはわたしの父があなたがたの父となり、わたしの神があなたがたの神となるためだ」と言われたことを聞きました。すなわち主イエスの復活と昇天により、父なる神がわたしたちの父となり、わたしたちの神となられる、その救いと恵みをもたらす聖霊がわたしたちに与えられるという約束の宣言でした。それゆえ、主が復活され、天に昇られたいま、聖霊の賜物を神がわたしたちに送り与えてくださるとの恵みの約束は、どんな力にも妨げられることなく、わたしたちの間に実現してゆくのです。

復活節の出来事、主の日の礼拝の出来事、それは今日も、わたしたちの間に起こることです。恐れに満ちていた弟子たちのところに、復活の主が来られました。そして、主の息吹である聖霊を吹きかけて、弟子たちに父なる神のこどもとしてのすべての恵みと賜物を満たしてくださいました。その出来事を阻止する力は、天においても地においても、あるいは地の底の陰府においても、一切存在しないのです。

今日、わたしたちも自分たちの力では如何ともしがたい恐れに囲まれながら、自分たちのいる所の戸を閉ざすようにして集まっています。しかし、そのわたしたちのただ中に、復活の主は来てくださいます。聖霊の息吹をわたしたち一人一人に吹きかけ、わたしたちに罪の赦しと、平安と喜びを満たしてくださいます。全能の父なる神は、わたしたちの父であられます。

みなさんはこの主の約束の御言葉を今日、誰と一緒に聞かれましたか。社会的距離を取るように呼びかけられ、お互いに二メートル以上離れましょうと言われていますが、その中でも、みなさんには一緒に食卓を囲む家族がおられるのではないでしょうか。密集、密接、密閉を避けなさいと言われても、密接な関係を保つ家族の交わりが続けられていると思います。その家族の交わりが、肉体の糧であるパンに一緒にあずかる交わりにとどまらず、さらに、霊の糧であるみ言葉に共にあずかる交わりにされることを願わずにおれません。そして、その御言葉を共に聞く、小さな共同体、小さな家族が聖霊の息吹に満たされて、恐れから解き放たれた、聖霊による平安と喜びに満たされた共同体、神の家族、すなわち、主イエスの父をわたしたち一人一人の父とする、兄弟姉妹の交わり、主の体である小さな教会となりますように祈ります。

恐れに満ちているわたしたちに、またこの世界に、「あなたがたに平和があるように」と言われる復活の主が、今日、聖霊による喜びと平和を満たしてくださいますように。

父と子と聖霊の御名によって。