復活節礼拝 『婦人よ、なぜ泣いているのか』 説教 澤 正幸牧師

聖霊の導きを求める祈りと聖書朗読  上田尚子執事
旧約聖書 詩編139編1~12節
新約聖書 ヨハネによる福音書20章11~18節


説教

 

執り成しの祈り  古賀龍一郎長老

 


『婦人よ、なぜ泣いているのか』

2020年4月12日 復活節礼拝説教
詩編139編1〜12節
ヨハネによる福音書20章11〜18節
讃美歌 327、323

主イエスはあの有名な「種を蒔く人」の喩えを語られたとき、その最後に、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。一見、平易で、とてもわかりやすいあの種蒔きの喩えは、誰にでも理解できそうでいて、実は、その意味を本当に悟ることができる人は多くはないという警告を込めて言われたのが、喩えの最後に付け加えられた「聞く耳のある人は聞くが良い」という主イエスの言葉だと思います。

弟子たちが、なぜ、人々に喩えを用いてお話になるのですかと問うたのに対して、主イエスは旧約のイザヤの預言を引いて「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない」と書かれている通りになるためだと言われました。
しかし、弟子たちに対して主は驚くべきことを言われました。「あなた方の目は見ているから幸いだ。あなた方の耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなた方が見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」と。

主イエスが復活されたときに起きたことはそのような驚くべきことだったと今日読む聖書はわたしたちに告げるのです。
すなわち、週の初めの日、墓を訪れたマグダラのマリアに復活された主イエスが現れてくださいました。また同じ日の夜、ルカによる福音書は、エマオに向かう途上にあった弟子たちに復活された主イエスが姿を現されたことを伝えています。しかし、マグダラのマリアも、エマオの弟子たちも、復活された主イエスがご自身の姿を現されたにも関わらず、最初はそれが主イエスだとはわからなかったと聖書は告げています。

復活節の朝、墓の外に立って泣いたマリアは、天使の問いかけに答えながら、後ろを振り向くと、そこに立っている主イエスを見ます。「しかし、それがイエスだとはわからなかった」(14節)。主イエスが彼女に「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問われるのに対して、彼女は、それが園丁だと思ったのでした。

また同じ日の午後、エマオの弟子たちも、彼らと一緒に歩かれる旅人が主イエスだとは気づきません。「二人の目は遮られていた」ので主イエスだとは分からなかったのでした。

「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」とあるように、主イエスが復活され、マリアやエマオの弟子たちに語りかけられても、彼らの耳が閉ざされて、それが主イエスの声であることを聞き取ることができません。マリアもエマオの弟子たちも、主イエスを見ましたが、目が閉ざされて見ることができませんでした。彼らは、見ても見ず、聞いても聞かず、主イエスを認めることができませんでした。

しかし、主イエスが弟子たちに「あなたがたの目は見ているから幸いだ、あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と言われたように、マリアの聞こえなかった耳が開かれ、エマオの弟子たちの見えなかった目が開かれたのです。それこそが復活節に起きた本当の意味で驚くべき出来事、恵みと救いの出来事だったのです。

マリアの場合、それは主イエスが「マリア」と彼女の名を呼ばれたときでした。そのとき、彼女の耳が開いて、それが復活された主イエスの声であることが分かったのでした。
どうしてこのとき、マリアの耳が開いたのでしょう。
マリアは背後から自分に声をかけてきたのは園丁だと思ったとありますから、見ず知らずの園丁だと思っていた人物から、自分の名前が呼ばれたとき、マリアはどんなに驚いたことでしょう。わたしたちも、知らない人から、いきなり自分が名前で呼ばれたら、どれほど驚くでしょう。自分を名前で呼ぶのは、自分を知っているはずの人です。そして、自分を知るその相手を、自分も知っているはずなのです。

マリアは、振り返って主イエスに「ラボ二、わたしの先生」と呼びかけます。
マリアは懐かしい、主に再会した喜びで胸も心も一杯になったでしょう。主イエスが目の前に立っておられると知ったマリアは、思わず主にすがりつこうとしたのでしょう。
主イエスはそれを制するようにして言われます。
「わたしにすがりつくのはよしなさい。」そして、ご自身が父のもとに上って行く、それは何のためかを弟子たちに行って告げるようにお命じになりました。

なぜ主イエスはマリアに自分にすがりついてはいけないと言われたのでしょうか。
マリアはそこに立っているのは、彼女が知っている主イエス、かつての主イエスだと思ったに違いありません。彼女はその主イエスにすがりつこうとしたのだと思います。しかし、主は彼女に言われます。そうではない、今、あなたの前に立っているのは、マリアが知っていた主イエス、かつての主イエスではなかったのです。彼女が知らなかった主イエス、まだ知らない主イエスとして、今、彼女の前に立っておられることを彼女は知らなければなりませんでした。耳があっても聞こえない、目があっても見えないという面が、この復活された主イエスに対して、本質的な面で、表面的な部分ではなく、もっと深い意味であったのです。

「わたしにすがりつくのはよしなさい。わたしの兄弟である弟子たちのところに行ってこう告げなさい。わたしは父のもとに上って行く。それは今からのち、わたしの父は、あなた方の父となり、わたしの神は、あなた方の神となられるためなのだ。」

主イエスの父が弟子たちの父であり、主イエスの神が弟子たちの神である。そうであれば、主イエスと弟子たちは、父を同じくする兄弟とされます。弟子たちが、またわたしたちが、主イエスの父を、わたしたちの父としていただく、主イエスの兄弟姉妹として、神の子どもたちとしていただく、それは、わたしたちに神の子としての身分を授ける聖霊が与えられるということです。イエス・キリストが父なる神を「アバ、父よ」と呼ばれたように、わたしたちにも、神に向かって「アバ、父よ」と呼ばせてくださる聖霊をいただくということです。

主イエスは復活され、天に昇られました。わたしたちはもはや主イエスを見ることはできません。しかし、主は聖霊において、わたしたちと共にいてくださいます。聖霊は天にいます主イエスのうち住まわれると同時に、地上に生きるわたしたちと共に、わたしたちのうちに宿られます。そして、このお方は世の終わりに至るまで、永遠にわたしたちを離れることがありません。

これまで聞いても聞き取れなかった、見ても認めることができなかったけれど、今、確かに聞いて悟り、見て認めることができることがあります。それはわたしたちに聖霊が送り与えられおり、この聖霊を通して、主イエスが復活して、今も生ける主としてわたしたちと共にいてくださるということです。

「婦人よ、なぜ泣いているのか。」マグダラのマリアにこう問われた主イエスは、この朝、わたしたちに対しても「あなたは、なぜ泣いているのか」と問われます。
もうあなたは泣く必要はないではないか。なぜならあなたはもう一人ではないのだから。あなたは孤立し、孤独でいるのではない。「わたしは復活し、聖霊においてあなたと共にいる」と言われる主が、前から後ろからわたしを囲むようにして、わたしと共にいてくださるのです。主であるわたしが生きているように、わたしにつながっている、神のすべての子どもたち、あなたの兄弟姉妹たちも、今、わたしにあって生きている。目に見えない雲のようにおびただしい主にある兄弟姉妹たちは主であるわたしと共におり、わたしを信じるあなたと共にいる。だから、もうあなたは泣かなくて良い。

主はよみがえられました。主は生きておられます。そして聖霊においていま、わたしたちと共にいてくださいます。ハレルヤ!

父と子と聖霊の御名によって。