聖日礼拝『復活によって神の子と定められた』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 ホセア書6章1~3節
新約聖書 ローマの信徒への手紙1章1~7節によって

霊魂不滅という言葉、また考えかたがあります。
人の肉体は死とともに消滅してゆきます。火葬場で白骨と化した肉体を見るとそう思います。そのお骨が、灰とともに土に帰るときに、人は塵となります。
しかし、肉体がそのように塵となって消えてしまっても、魂は、霊魂は無くならない。魂は永遠に残る。それが霊魂不滅という考えです。

霊魂不滅を心の拠り所、生きてゆく支えとしている人、体は死ぬ、でも魂は死んだらみんな天国に行くのだ、ご先祖さまの霊、亡き愛する人々が待っている天国、そこでの再会、それを慰めとしている人が信仰者、クリスチャンである方達の中にも少なからずおられるのではないかと思います。

しかし、霊魂不滅という考えかたは果たして聖書的なのでしょうか。
聖書のマタイによる福音書の10章28節に、主イエスのお言葉でこういう言葉が書かれています。
「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。
体は死によって滅んでゆきます。では魂は滅ぼされることはないのか。そうではない。聖書は、魂もまた神によって滅ぼされると言います。神は地獄で人の体も魂も!滅ぼすことがお出来になる方であることを知って恐れなさい。

ですから、魂が、霊魂が死んでも永遠に残るとは聖書は言いません。聖書は、霊魂は不滅だとは言っていないのです。霊魂もまた神がお造りになられたもの、被造物にすぎないのですから、永遠であられるただ一人のお方、創造者なる神のほかに、永遠なるものはなく、被造物は、すべて、霊魂も含めて永遠ではないのです。

霊魂不滅を心の拠り所、支えとして生きている人、死んだらみんな天国に行くのだ、ご先祖さまの霊、亡き愛する人々が待っている天国、そこでの再会、それを慰めとしている人にとっては、不快に思うような、聞きたくないような話かもしれません。

しかし、神が塵に帰る肉体を滅ぼされるだけでなく、魂をも滅ぼして無に帰すことによって、わたしたちの全存在を全く滅ぼし尽くてしまわれる、そのような恐るべき力が、神にはあることをわたしたち人間は恐れをもって聞くべきなのです。
と同時に、その力ある神は、わたしたちの全存在を、肉体だけでなく、魂をも滅ぼす力のある方として、その二つを、二つながら、肉体と魂の両方を永遠に救い、生かすことのできる、そのような力ある神でもあると聖書は告げるのです。
それが福音、今日わたしたちが、説教のテキストであるローマの信徒への手紙の1章の2節から5節によって聞く救いのおとずれとしての福音なのです。

3節:「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」。
神の御子が人となられた。
それはこのお方がマリアを母として生まれることによって実現しました。マリアの夫ヨセフはダビデ家に属する、ダビデ王の末裔でした。しかし、主イエスはマリアの子ではありましたが、ヨセフの子ではありませんでした。マリアは聖霊によって、神の御子を身ごもったからです。こうして主イエスが生まれたとき、これは誰の子か、認知の問題がありました。そのとき、ヨセフがマリアの生んだ主イエスを、自分の子であると認知したのです。
神の子がこの世界に生まれたとき、認知の問題から始まって、この子は多くの人々の手によって養われ、守られ、育てられなければならなかったのです。放って置かれたら自分では生きてゆけない、神であられるのにそんな弱さと低さのもとに身を置かれました。
このお方は確かに神であられたにも関わらず、神であろうとはなさらなかったのです。特権も、栄光も、富も、力を行使することも放棄したのです。そして、ご自身を低くして、人々のしもべとなって、人々に仕え、ついに、十字架の死を死んでゆかれたのでした。

神の子がダビデの子孫として生まれたということは、今申しました、人間の低さ、弱さの中に、ニケア信条が「すべての時に先立って、父より生まれ、神からの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました」と告白しているお方が、その身を置かれたということです。
それとともに、一人の人間として、と言うだけでなく、ダビデの子孫として、と言うことがあります。ダビデは信仰の王であり、多くの人のために戦い、国を守り、支配し、導いた指導者でした。ダビデはそのような、優れた、良い王であり、敵と戦い、イスラエルに勝利をもたらした王でしたが、しかし、限界をも持っていました。それは死に勝利すること、罪に勝利することはできなかったと言うことです。ダビデ王は罪を犯すものであり、死んでゆくものでした。自ら罪と死の支配に勝利するとともに、彼に従うものたちを、罪と死という敵の支配から解放し、命をもたらすことはできなかったのでした。

一体、誰が死に勝利することができるでしょうか。死に打ち勝った人間がかつて、この地上に一人でもいたでしょうか。いません。

しかし、人にできなかったことを神はなさいました。それは神の子が人となって、人として低さの中に、弱さの中に、まさに究極の弱さと、低さである死の中に身を置かれた、あのイエス・キリストによってなさった救いの業です。このお方が死を破り、死の中から復活することによって、わたしたち人間に死からの救いと解放、復活の勝利を授けてくださったのです。

4節。復活された主イエスは、力ある神となられました。主イエスはそれまで、地上において、マリアから生まれたとき、私生児と蔑まれるような、ひどい無理解、中傷と偏見、さげすみの中で、かろうじてヨセフの差し出した庇護のもとで守られ、生涯にわたり、神の子の栄光とは程遠い、無力さと、試練と、裏切りを受けながら、悲しみの人として歩まれましたが、その中にあって神の子であられたのです。弱さに甘んじつつも神だったのです。あの十字架においてもまさに神であられました。その十字架につけられた神が、復活し、天に上げられ、力ある神として、そこから聖霊をわたしたちの注がれるのです。その聖霊が、わたしたちに、このお方こそ、主であり、神の子であり、救い主ですと信じる信仰を与え、告白させたのです。「誰でも聖霊によらなければイエスを主ということはできない」コリント第一の手紙12章3節に書いてある通りです。
わたしたちを、この信仰告白を公に、大胆に言い表して生きるものとしてくださったのは、力ある神の聖霊による働きの結果なのです。信仰者を、わたしたちを含めて、空の星、海の砂のようにおびただしい、数え切れないほどの数にされたのは力ある神ご自身です。

説教の初めに霊魂不滅を信じること、それを心の拠り所、それが人生の支えである人のことをお話ししました。霊魂不滅の信仰によって、では、人はどうこの地上の人生を生きることになるのでしょうか。そこには何か、人を前に向けて積極的に、力強く生かす力があるのでしょうか。
ほとんどそういう力はないと思います。むしろ、地上には期待しない、地上のものを否定する、地上の生き方には積極的な意義をほとんど見出さない、厭世的な、来世志向的生き方に終始するほかないのではないでしょうか。この世は過ぎ去り、肉体は消滅するのですから。悪くすると、倫理的放縦に陥る危険さえあります。「食べたり飲んだりしようではないか、どうせ死ぬのだから。どんな生き方、どんな悪を行なっても、死んだらみんな天国に行けるのだから。」霊魂不滅の考え方と人生における虚無主義や道徳的放縦は両立し得ます。

聖書の告げる福音は霊魂不滅が与える慰めとは全く違うものです。
神の子、イエス・キリストの福音は、わたしたちを身も魂も、この地上の生活においても、やがて、来たる世においても、キリストと一つにされた者として生かしてくださる神の恵みの約束です。キリストが肉のよわさ、低さのもとで、なお神の子であり続けたように、わたしたちもこの地上の肉の弱さ、低さ、限界の中でなお、神の子たちとして力一杯、積極的に神に仕えて生きるのです。

昔、ハンセン氏病のクリスチャンの詩人が書いた詩にこういう趣旨の詩がありました。
自分の手も指も病気のために不自由になり曲がってしまった。でもその醜くなって、曲がってしまい、不自由になった指でも、まっすぐに天を指差すことができる。どうか、健常者である世界の全ての人々がその指で天を指差し、戦争をやめてほしい。地上から全ての原子爆弾を廃棄してほしい。そして平和を作り出してほしい。この曲がった指でも天を指差すことができるように、全ての人が平和を目指して生きてほしい。

イエス・キリストの復活によって、わたしたちに与えられる救いは、地上の人生において、弱さ、低さ、日々、老いを重ねる中で、心身ともに弱り衰えてゆく中で、なお、神の子として、生きること、生かされることです。そして、この地上をさるときには、体のよみがえりをいただく希望をもって世を去る救いです。

わたしの以前いた教会に、「うさぎさん」と呼ばれていた障がいを持った兄弟がいました。生後間もなく患った小児麻痺で、両足が曲がり、立って歩くことができず、移動するときは曲がった足を使ってウサギのようにピョンピョン飛び跳ねていました。わたしはその兄弟が天に召され、復活されるときには、イザヤ書35章6節に書かれているようになると思っていました。そこにはこう書かれています。「そのとき歩けなかった人が鹿のように躍りあがる」。

復活された神の子キリストが、力ある神として、天から注がれる聖霊の力にあずかって、信仰に生かされているのがわたしたちです。わたしたちは同じ信仰によって結びあわされてキリストの体を形作っています。それが教会です。このキリストの体である教会は、体に手や足、目や耳、様々な部分があるように、互いに違いをもった人たちの集まりです。体に多様な部分があるのが、互いにいたわり合って、助け合うためであり、お互いに、他の部分がなければ生きられないように、わたしたちもお互いを、相手ないしには生きられない大切な存在として、重んじ合い、愛し合い、感謝しつつ一つの命を生きます。
わたしたちは体ですから、生身の体と申しますように、傷つきやすく、病気もします。汚れに染まることもあり得ます。この体を性的に汚すようなこともしようと思えばできます。自暴自棄になること、無視しあったり、傷つけあったりすることも可能です。

でも、力ある神であるキリストは、聖霊の力でわたしたちをいよいよ清くすることがお出来になります。いよいよキリストの体にふさわしい者たちに変えてゆくことがお出来になります。ですから、戒めに従って生きてゆきましょう。十戒の戒めのすべてに従って、またその要約である愛の戒めに従ってわたしを生かしてくださいと、聖霊の賜物と助けを求めて祈りましょう。
主イエスは、求めて祈るなら父なる神は聖霊を必ず与えてくださると言われました。
「あなた方の中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、サソリを与える父親がいるだろうか。このように、あなた方は悪い者であっても、自分の子供には良い物を与えることを知っている。天の父はなおさら、求めてくる者に聖霊をくださらないことがあろうか」

父と子と聖霊の御名によって。