聖日礼拝『神の怒り』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩編30編1~13節によって
新約聖書 ヨハネによる福音書20章11~16節

この詩編30編は復活の歌だと言われます。また6節に「喜びと共に朝を迎える」とあるように、この詩編は朝の歌です。それゆえ、この詩編は復活の朝に、復活の光の中でうたう讃美の歌です。

しかし、この歌を歌う詩人は、その喜びの朝を迎える前に、朝の光が訪れる前に、闇の中で、泣きながらを過ごさねばならなかった夜があったのです。

復活節の朝、朝早く、まだ暗いうちに墓をおとずれたマリアも墓の外にたって泣いていました。マリアは先にマリアから強制的に主イエスを奪っていった十字架の死を悲しみ、今また主イエスの亡骸までもが奪われてしまったと思い、悲しみに悲しみがうち重なる中で悲嘆の涙に暮れていました。

このときのマリアがさめざめと泣いたように、悲しみの中で泣いている人は多くいます。逆境の中で、神から見離されてしまっていることを悲しんで、神からの恵みを喜ぶことができないことを感じて、神が慈しみのみ顔を向けてくださらないこと、神のみ顔が隠されていると感じて、嘆きの日々を送るときがあり、そのような時を送らねばならない人がいます。
思いもしなかった過酷な自然災害に遭遇させられて、それまで平穏な日々の暮らしを送っていた人が、一瞬にして、家を、畑を、さらに愛する家族までをも失うとき、茫然として、ひとは涙を流します。
戦争の中に巻き込まれるときも、戦火の中で人々は逃げまどい、嘆き、悲しみ、泣き叫びます。今も、現にシリアでそれが起こっています。

恵みの神、平和の神、わたしたちを恵み、平和を与えて、わたしたちを愛し、慈しんで下さる神が、その愛と慈しみのみ顔を向けてくださらない、神は怒っておいでになる、そうとしか思えない、そういう逆境の時、苦しみの時があります。
主イエスをうしなった悲しみの故にマリアが泣き続けたように、人には涙を流して、泣き続ける夜があります。

そのマリアに天使は何故泣いているのかと問います。また復活の主イエスも、同じく、マリアに、マリアあなたは何故泣くのかと問われるのはなぜでしょうか。それは、マリアはもう泣き続けないでよい、もう泣く必要も、泣く理由もないからです。
この復活の詩編も言います。6節。神の怒りは一時のもの、神の慈しみは生涯のもの、夕べには嘆きが留まるが、朝には喜びがあるから。
神が怒られることがあっても、怒ることが神の本心ではない。神の本心はわたしたちを愛し、喜ばせ、わたしたちに慈しみ深くあることなのだ。

神がお怒りになる、神はこの世界の罪や悪、偽り、不正義に対しては必ず怒られます。神が聖なる怒りを示されることは、神が神であられるゆえに、避けられないことです。
その聖なる神の怒りの故に、神の御子が十字架について、死なれたこと、そうして神が御子のうえに、その怒りを注ぎ尽くされたことは動くことのない真実です。
しかし、その怒りは「ひととき」、この言葉は原文では「直ちに」とも訳される言葉ですが、あっというほどに短い、瞬間的に過ぎてゆくようなときであると言うことが許される。主イエスは金曜日に十字架につき、葬られ、土曜日は一日、墓のうちにあり、黄泉にくだられましたが、三日目の朝、日曜日の朝早く復活されました。三日目に死者の中から復活されたとわたしたちが使徒信条で告白する、その三日は神の怒りが一時のものであることの告白です。神の慈しみと愛が永遠であるのに比べれば、神の怒りは、たとい人間的にはどれほど長いと思われても、一時のものにすぎないのです。

泣き続ける日々が何十年、それこそ一生涯が泣き続けているような人生を送っていたとしても、神が喜びの朝を迎えさせてくださるなら、その長かった苦しみと嘆きの夜は、ひと夜のこと、一瞬のことに変えられます。なぜなら、神の慈しみとともに訪れる朝は永遠の朝だからです。そして、怒りでなく憐れみと慈しみが主の本心であるゆえに、夜は短くされて、必ず永遠の朝を主はわたしたちに迎えさせて下さるのです。

この復活の歌は「だから」と人々に呼びかけます。5節。
復活節の朝、よみがえりの主に最初にお会いしたマリアは、その知らせをたずさえて弟子たちのもとへと走ります。弟子たちと共に喜ぶためでした。

マリアにとって、主イエスの復活はマリア自身の復活に他なりませんでした。復活したマリアは同じ復活の喜びへと弟子たちを招き入れるのです。

今日、日曜日はわたしたちが主の復活を喜び、すべての人を復活の喜びに招き入れる日です。この主の日の朝、主イエスの十字架の死と復活によって、わたしたちの罪に対する神の怒りはひとときの怒りとして過ぎ去り、永遠の喜びの朝が訪れたこと、わたしたちの上に今、神の慈しみのみ顔が輝いているゆえに、神にこころからの感謝と賛美をささげることが許されていることを喜び、そのゆえに、すべての人よ、主を讃えよとの讃美を歌う日です。主イエスの復活はわたしたち自身の復活、すべての人にとっての復活の朝の到来なのです。

わたしたちの礼拝は神のみこころが何であるかの証です。すべての人、全世界にむけての証です。
教会が建てられ、そこで礼拝が捧げられているのは、全世界に向けて、神はこの世界に朝を来たらせておられること、そのことの証であり、すべての人に向かって、主を讃美する讃美に加わるよう呼びかけるためです。

預言者エゼキエルを通して、「わたしはだれの死をも喜ばない」と言われた主は、わたしたちが罪の中に死んで行くことを喜ばず、わたしたちを死から命へと引き上げてくださいます。
12,13節。わたしたちは沈黙しません。沈黙は死であり、黄泉の世界です。
10節。わたしたちが神に感謝をささげ、神のまことを告げ知らせる所、それが礼拝です。その礼拝に命がやどっています。神を賛美することが命です。わたしたちは神を賛美するために生きているのです。そして、この命はわたしたちの命であるだけでなく、すべての人にとっての命です。また、わたしたちが生きているときだけの命でなく、この世を去っても変わることのない永遠の命です。それゆえ、この朝も、世を去った、愛する者たちと共に、神に感謝をささげ、イエス・キリストの父なる神の御名に栄光を帰しましょう。わたしたちの生きる目的は、神をとこしえに賛美し、喜び、礼拝することにあるからです。

父と子と聖霊の御名によって。