待降節の説教「ヨセフとマリア」

説教 澤 正幸牧師

旧約聖書 ミカ書5章1~2節
新約聖書 ルカによる福音書2章4、5節によって

  神が人となってこの世界に来られた。クリスマスのこの出来事を一番近くで、身を以て体験したのは、マリアとヨセフの二人でした。この二人にとって、クリス マスの出来事がもっていた意味は何だったのでしょうか。今日は、そのことについてご一緒に御言葉から聞きたいと思います。

  神の御子がこの世に生まれてくるというクリスマスの出来事は、驚くべき神の恵みの出来事、救いの出来事です。しかし、その驚くべき救いの出来事、神の恵み の出来事はマリアという女性の存在なしには起こりませんでした。聖霊によって神の御子が生まれてこられたとき、神の御子はマリアの胎内に宿られたのです。 生まれておいでになる方は、マリアから生まれる完全な人間であると同時に、神からの神、まことの神でした。
  神が人と成られる。神が人としてわたしたちの間に生まれてきてくださり、神がわたしたち人間の一人として、わたしたちと共にいてくださるのです。何という 恵み、何という喜びでしょう。考えてみれば、それ以上に素晴らしいことがこの世界にないほど、栄光に満ちた、素晴らしいことです。その驚くべき出来事は、 マリアの体を通して、マリアの存在を通して実現するのです。マリアは神から恵みをいただいていました。マリアは神から愛されていたのです。

 マリアにとってこの喜ばしく、素晴らしい出来事は、しかし、同時にとても信じがたいことでした。マリアにとって信じがたいことであるだけでなく、マリア以外のだれかに言っても、だれにも信じてもらえないような出来事でした。

  この信じがたいほどに素晴らしい知らせを、マリアは信じました。「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように。」マリアは天使ガブリエ ルにこう答えたのでした。マリアは聖霊によって神の子、キリストをみごもりましたが、マリアは同じ聖霊によって与えられた信仰によって、この出来事を信 じ、聖霊によって与えられた信仰という器によって、御子キリストを受け入れました。
  クリスマスの出来事はマリアという女性の存在なしには起こらなかったのですが、マリアの存在だけでなく、マリアの信仰が無ければ起こりませんでした。そし て、その信仰は聖霊によってマリアに神さまから与えられました。マリアは自分がだれにも信じてもらえなかったとしても、この世界で、このことを信じるのが たった一人自分だけしかいなかったとしても、それでも、神さまを信じようと思ったのでした。

  マリアはヨセフと婚約中でした。婚約者ヨセフにどう言えばよいのか、ヨセフが当惑するであろうこと、そしてヨセフの信頼を失うであろうことがマリアにとっ ては最も心痛むことだったと思います。マリアはヨセフにありのままを話せば信じてもらえるでしょうか。彼女の身の潔白、彼女の真実、嘘偽りを語っていない こと、彼女のヨセフへの変わらぬ愛、それをマリアは言葉にして、ヨセフに伝えることが出来たでしょうか。それはできなかったに違いありません。マリアは沈 黙するほかなかったと思います。

  ヨセフがマリアのみごもっていることを知ったとき、それは自分の子ではないことをヨセフは知っていましたから、マリアの身に何か間違いが起こったに違いな いと思いました。しかし、それを明るみに出して、マリアの過ちを暴いて非難することをヨセフは望みませんでした。ヨセフは人知れず、ひそかにマリアを離縁 して、二人の関係を断とうとしました。しかし、それをしなかったのは、夢で、神の使いから御告げを受けたからでした。御使いは言いました。「恐れずマリア を妻として迎え入れなさい。マリアの胎内にある子は聖霊によって宿ったのである。」
神の子が、聖霊によって、マリアの胎から生まれてくるということを、マリアが信じただけでなく、ヨセフもまた信じたのです。ヨセフはこうしてマリアを信じる最初の人になりました。

 ヨセフはマリアがみごもっていることを知ったとき、最初は自分の考えから、マリアをひそかに去らせて、マリアを守ろうと考えましたが、今回は、神さまからの御告げによって、マリアの潔白を信じて、マリアを全面的に守る盾になろうと考えるようになったのです。

  ヨセフは、外部の人々に対しては、マリアは自分のれっきとした妻であり、生まれてくる子はヨセフとマリアの子であると言おうと決心しました。ヨセフにとっ ては自分の子ではなく、聖霊による神の子ですが、その聖霊による神の子が、ほかならぬヨセフとマリアの子となるのです。神の子が自分達の家庭に生まれてく ることを喜びとし、誇りとして、その日を迎えようと決意するのです

  クリスマスのこの本当に喜びに満ちた出来事が、ヨセフとマリアが築いた信仰の囲いの中で、聖霊によって与えられた信仰という防壁に守られて、起こったので した。ヨセフはマリアの目をしっかりと見つめて、マリアを信じることができました。二人の間には純粋な信頼がありました。真実がありました。世の中の疑惑 や中傷、誤解、無理解、不信をすべてはねかえす、信仰と真実の壁が、マリアとヨセフの二人によって築かれ、その中に主イエスは守られて生まれてきたので す。

  マリアが信じられない知らせを聞いて、だれにも信じてもらえない孤独を味わったようなことが、今でも、わたしたちの間であるかも知れません。マリアは神か ら愛されており、恵をいただいていること、そのことをだれにも信じてもらえない孤独の中で、マリアはあらぬ誤解を受けたり、中傷されたり、非難を受けたり しなければなりませんでした。マリアがそうだったように本当はそういう人は決して同情されるべき人ではないのです。気の毒な人でもないのです。神さまが共 にてくださるという、おおきな幸いをいただいている人たちなのです。

 マリアが孤立しかねなかったときに、神さまはヨセフをマリアの側に立たせてくださいました。マリアと同じ信仰をもって立つヨセフを神さまがマリアに与えて下さったのです。
 神さまを信じる同じ信仰をもって、ともに立つ伴侶を神さまが与えて下さった、これがマリアとヨセフにとってのクリスマスの出来事でした。二人の信仰の絆によって固く結ばれた家庭の中に主イエスは生まれてこられました。

  わたしたちにとりましても、神さまを信じる信仰を、たった一人、孤独な中で守り抜いていかねばならないようなときに、孤立しかねないわたしたちに、同じ信 仰を共に抱いて、ともに立ってくれる信仰者の交わりを与えられると言うことは、なんと大きな幸いでしょうか。ヨセフとマリアの信仰のスクラムの中にみどり ご主イエスは生まれてきました。二人の交わりの持っていた、純粋さ、清さ、喜びと平安、そこに神の御子が宿りました。今も、わたしたち信仰者の交わりが、 その純粋さにおいて、清さにおいて、喜びと平安に満ちた状態を保つことにおいて、ヨセフとマリアの夫婦のようであれば、ここに神の御子が宿って下さるで しょう。そしてそのヨセフとマリアの信仰の交わりは神さまが聖霊によって生みだし、無から創造し、与えて下さったのでした。

  クリスマスの出来事、それは聖霊によって神の子が人となったことです。そして、その聖霊による出来事を、マリアとヨセフという人間が聖霊に導かれて信じ て、受け入れ、その出来事に預かったのでした。すべては神の聖霊によったのです。聖霊がいまも働いて、御子がわたしたちとともに宿るようにして下さり、ま た、その聖霊が御子のご臨在、御子の恵みと愛を信仰をもって受け入れることが出来るように、わたしたちに信仰を与えて下さるのです。栄光が神にありますよ うに。

父と子と聖霊の御名によって。アーメン